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昭和10年代の台湾-日の丸少年と大地震

あけましておめでとうございます。くしくも、この記事を書いている矢先に北陸地方で大地震が起こったという報道がありました。心よりお見舞いを申し上げます。

乙亥の歳(1935年)

「昭和丙子台湾屏東之旅」の筆者が台湾南部に滞在していたのは1936年から1940年までです。残されていた記録には地震に関する記載は出てきませんので、その間、台湾では大きな地震に見舞われることはなかったようです。筆者は和歌山出身だったので小さな地震には慣れっこだったという事情もあると思います。

(環太平洋造山帯 wikipediaより)

しかし、新期造山帯である環太平洋造山帯に位置する台湾は地震が頻発する地域であることはよく知られています。
ウィキペディアを見ると、歴代の台湾地震が一覧として掲載されていますが、1930年代に起こった地震として、1935年4月21日早朝に起こった新竹・台中地震の記事が出てきます。実は1999年の集集大地震よりも被害者が多い地震で、最大震度6、死者は3,279人でした。

日本人は台湾地震に大きな関心を持っていた

この年の秋に博覧会を控えている台湾はもちろん、日本内地でもこの地震に対する関心は高く、内地のみならず、満州・南米ブラジル移民に至るまで、大英帝国のコモンウェルスの結束のごとく義援金をこぞって送ったわけです。
その額約150万円。前年に再建された大阪城天守閣への寄付額とほぼ同額です。ちなみに1935年の1円は現在の約2,000円に相当なので約30億円、とにかくものすごい額が集まったということです。

君が代少年

この地震とともに台湾内外で有名になったのは「君が代少年」の美談です。苗栗県公館郷の公館公学校3年の児童・詹徳坤くんが被災時に「君が代」を歌いながら亡くなったというエピソードが台湾博覧会を控えた総督府によって喧伝され、翌年4月21日には台南在住の日本人彫刻家によって学校そばの公園に少年の銅像が建てられ、さらに国定教科書(「初等科国語・三」)にも掲載されたというものです。

(君が代少年の銅像  wikipediaより)

宜蘭のサヨン・苗栗の日の丸少年は植民地における皇民エピソードの双璧ですが、「君が代少年」とはどのようなエピソードだったのか。

わたくしのつたない説明よりもずっとわかりよいので、少し長い文章ですが当時の国定教科書の記載をそのまま引用します。

昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震がありました。
公学校の三年生であった徳坤という少年は、けさも目がさめると、顔を洗ってから、うやうやしく神だなに向って、拝礼をしました。神だなには、皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。
それから、まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出てゐた父を呼びに行きました。
家を出て少し行った時、「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と、少年は思ひました。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の土角がくづれて来ました。土角といふのは、粘土を固めて作った煉瓦のやうなものです。
父や、近所の人たちがかけつけた時、少年は、頭と足に大けがをして、道ばたに倒れてゐました。それでも父の姿を見ると、少年は、自分の苦しいことは一口もいはないで、
「おかあさんは、大丈夫でせうね。」
といひました。
少年の傷は思ったよりも重く、その日の午後、かりに作られた治療所で手術を受けました。このつらい手当の最中にも、少年は、決して台湾語を口に出しませんでした。日本人は国語を使ふものだと、学校で教へられてから、徳坤は、どんなに不自由でも、国語を使ひ通して来たのです。
徳坤は、しきりに学校のことをいひました。先生の名を呼びました。また、友だちの名を呼びました。
ちゃうどそのころ、学校には、何百人といふけが人が運ばれて、先生たちは、目がまはるほどいそがしかったのですが、徳坤が重いけがをしたと聞かれて、代りあって見まひに来られました。
徳坤は、涙を流して喜びました。
「先生、ぼく、早くなほって、学校へ行きたいのです。」と、徳坤はいひました。「さうだ。早く元気になって、学校へ出るのですよ。」と、先生もはげますやうにいはれましたが、しかし、この重い傷ではどうなるであらうかと、先生は、徳坤がかはいさうでたまりませんでした。
少年は、あくる日の昼ごろ、父と母と、受持の先生にまもられて、遠くの町にある医院へ送られて行きました。
その夜、つかれて、うとうとしてゐた徳坤が、夜明近くなって、ばっちりと目をあけました。さうして、そばにゐた父に、「おとうさん、先生はいらっしやらないの。もう一度、先生におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れません。
それからしばらくして、少年はいひました。
「おとうさん、ぼく、君が代を歌ひます。」
少年は、ちょっと目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて息を深く吸って、静かに 歌ひだしました。
 きみがよは ちよに やちよに
徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たちの心に、しみこむやうに聞えました。
 さざれ いしの
小さいながら、はっきりと歌はつづいて行きます。あちこちに、すすり泣きの声が起りました。
 いはほとなりて こけの むすまで
終りに近くなると、声はだんだん細くなりました。でも、最後まで、りつばに歌ひ通しました。
君が代を歌ひ終った徳坤は、その朝、父と、母と、人々の涙にみまもられながら、やすらかに 長い眠りにつきました。

(1942年版「初等科国語・三」より)

このエピソードは、四半世紀前に流行した新自由主義史観で取り上げられたことがあり、もしかするとここで知ったという方もおられるかもしれません。しかし、わたくしが言いたいことはここからはじまります

わたくしが声を大にして言いたいこと

同時に発行した教師用指導書には教材「君が代少年」の趣旨についてこのように書かれています。

初等科修身二「君が代」と連携する教材で、重傷を負い瀕死の境にありながら、よく国民的信念に生き、両親を思い師を思い級友を思い、国語の実践に行き、臨終に「君が代」を奉唱しつつ十二歳の生涯を雄々しくもまた美しく生き抜いた少年の美談である。
しかも本教材は、初等科修身二「能久親王」とも連絡がある。畏くも金枝玉葉の御身を以て遠く御渡台あらせられた親王が、瘴癘の地に、あらゆる危険と困難とに打ち克たせ給いつつ皇軍を進め給うて以来、半世紀に満たない間に台湾の統治は着々と進み、新附の民の間にはかくも美しい国民精神の花が咲きつつあることを物語るもので、まさにこれを古に考えれば、初等か国語二の田道間守が、垂仁天皇の勅を蒙って遠く外城に時じくの香(かぐ)の木の実を求め帰り、たまたま天王の崩御を知って、御陵前に誠忠の心を捧げつくしたことをも思い合わされ、古も今も変わらぬ国体の精華に感激を深くするものである。
なお、国語の教材として特に生かすべき面は、徳坤の国語に対する極めて熱心な実践的態度である。今もしこの熱意をわが全国の児童に活かすならば、標準語の指導訓練の如きは期せずして徹底せられ、国民の国語に対する熱愛は、徒に観念としてではなく、日常の自薦において発揮されるであろう。特に台湾公学校の三年の児童にこの事があったことに鑑み、全国児童の奮起を促すとともに、これが指導において新たなる自覚がなくてはならない

(1943年「初等科国語 教師用 第3」より 太字はわたくしが勝手につけました)

当該教材が修身ではなく国語に収録されている理由がよくわかる文章です。

なお、この教師用指導書は、このあともアクセントから訛音・発音の指導方法までまるで舅姑による指導のように行われ、さらに少年の生い立ちから学業成績に至るまで、尻の毛を抜くように事こまかに書かれています。

当時の教育は現在の学習指導要領にある「理論と実践の往還」「個別最適な学び」とは対極にあるガチガチのマニュアル教育であり、教科書からわずかでも逸脱した指導法などそもそもありえない話でした。かつて「師範(学校)卒」というと融通の利かない人という意味でも使われたほどです(わたくしが小学校の頃は、師範学校を卒業した先生がまだ残っていました)。戦前のこの手の指導書を読んでいると、教科書を純粋に読んでしまうと、どんな政治的な文脈に染められてしまうのかと恐れを抱いてしまいます

君が代少年のその後

戦後も五十年を過ぎたころ、詹徳坤くんの存在を知らないという人が台湾でも増えてきましたが、折しも台湾では認識台湾教科書が登場し「日治時代」を評価する動きが出たころで、期せずして台湾でも徳坤くんのことが思い出されていきます。

そしていまから十年ほど前に聯合報という新聞社が「国歌少年(君が代少年)」について調べていて、当時の生存者に聞き取りを行ったという記事がありました。ここからわかってきた話を箇条書きにします。

  • 徳坤くんは、怪我した部位に牛の糞を塗りつけたため感染症で亡くなった可能性がある。

  • その後学校の隣に徳坤くんの銅像が建てられたが、ここを通るとき児童は敬礼する必要があった。

  • 徳坤くんの銅像は戦後解体され実家に渡された。その後売却され、水汲みポンプを買う資金となった。

検証不能になっていることもあってこの手の話は一旦信じるしかないこともあるので複雑な思いもするのですが、その一方で、先ほど述べた教師用指導書を読み直していると、この教材の取り扱いについてこのようなことが書かれていました。

こちらもとても考えさせられる文章なのでそのまま掲載します。

美談を世に残す人は稀である。いわんや人生の行路を踏み出したばかりの少年少女においては更に稀である。美談といい、佳話といい、偶然に生まれるものでなく、これを生ましめるものは、主人公の平素の心掛と行いとである。

(1943年「初等科国語 教師用 第3」より)


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