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短編小説「歯磨き」
歯磨きをするときは、必ず口の中をゆすいでからにする。
口の中に味覚が少しでも残っていると、歯磨き粉のミントの味が入り込んで気分が悪くなるからだ。底に黒ずみができかけているカップに水を一杯汲んで、口の中に含み、吐き出す。
そうして口内をクリアにした後、毛羽立ってくたびれた青のブラシに歯磨き粉をのせて口の中に運ぶ。いつものように溶け込んでいくミントの味。いつもの通り変わらない。
シャカシャカと今まで何百回と聞いた音がむさくるしいワンルームに響き渡る。音自体が失われがちな一人暮らしの部屋では、この独特なリズムが部屋の空気を揺らす。
鏡の中の俺は、いつも通りの腑抜けた顔で俺を見つめている。
顔全体のほうれい線が少し深くなったようで、洗面台に灯る無駄にまぶしい電灯に照らされてより影が際立っている。
口元から目元に視線を移すと、今度は青黒いクマが皺と同化して目の下に染みついている。
額には三本の皺がうっすらと刻まれていることに気づく。
俺は日々少しずつ、「俺」だと思っていたものから離れていく。
歯磨きをしている最中は口元がせわしなく動き、その動きが顔全体に様々な表情を運んでくる。
前歯を磨くために口元を目一杯横に開く顔。
上の歯を磨くためにワッと笑うような顔。
奥歯を磨くために口をすぼめたような顔。
やけに生き生きとした表情を見て、我ながら少し驚く。俺の顔が石像のように固まらずに済んでいるのは、毎日の歯磨きでかろうじて筋肉の運動がなされているおかげだろう。
いつもくたびれた顔で電車に詰め込まれている会社員や学生も、常に仏頂面を崩さない上司も、このような運動をしているのかと思うと少しの可笑しさがこみ上げる。
そうして一通り口内を磨き終わると、すっかり唾液の中に溶け込んだ歯磨き粉を一気に吐き出す。
白い液状のスライムみたいだ。この色やぬめり具合もいつもと変わらない。
口をゆすいで脇にかけてあるタオルで拭う。
さっきまで生き生きと動いていた顔は、石像に元通りだ。
電気を消して暗闇に包まれたベッドに潜り込む。
眠りにつくまでに口内に残るミントの味は、実家を離れて一人暮らしを始めた時から変わらないものの一つだ。
この味に包まれたまま俺は夢の中へと飛び込んでいく。
そうしていつの間にか、霧のように消え失せていくのだ。
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