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映画感想『ケイコ 目を澄ませて』

◆あらすじ◆
下町の小さなボクシングジムで黙々とトレーニングに打ち込むケイコ。ボクシングの才能に恵まれていたわけでもなく、ましてや両耳とも聞こえないというハンデさえあった彼女だったが、 地道な努力の末にプロボクサーとなり、今もプロのリングに上がり続けていた。しかし愛想笑いができず、嘘やごまかしも苦手で不器用にしか生きられないケイコ。いつしか言い知れぬ不安や恐怖に押し潰されそうになっていた彼女は、"一度、お休みしたいです"と書き留めた手紙を会長に手渡そうとするのだったが…。



オープニング、
リズミカルに刻まれる日常音。

聴覚障害で音の聴こえない主人公にとっては聴く事の無い音。

この余りに深い導入部で掴まれてしまった。


健常者にとっての雑音が当たり前じゃ無い世界がそこに在る。

そしてスクリーンに映る岸井ゆきのと言う女優の気迫。
言葉を発せず、手話を話しその上プロボクサーのスキルを身に付ける…役作りにどれ程の時を掛けたのか?
【隔たりのない世界】と言うこの作品のテーマに常に信憑性を持たせるだけの技量で挑んでいたと思う。

冒頭、ボクシング・ジムの練習風景。
聞こえてくるパンチングボールのリズム。
そこに重ねられて行く縄跳び、サンドバッグ、グラブ&ミットの破裂音たち。

日常には数多の音が溢れ、私達に気づかれる事の無い生活音が数え切れないほどある。

しかし、そのどれもが聴こえない"無音"の世界。

それがどんな世界なのか"聞こえる"私達は知る由もない。
そしてどれ程の音に私達が頼って居るのか…考える事もないのだ。


ケイコの台詞に「所詮、ひとりだから」とある。
リング上でセコンドのアドバイスも、観客の歓声も無く戦う彼女の心情か?

以前『コーダ あいのうた』の時にも記したが聾唖者と健常者の見えない壁があるとすればそれは"お互いの歩み寄りでしか解決出来ない"と言う事。どちらが拒んでも成立しないのだ。

それが家族であっても他人であっても近しい関係であっても【お互い】の歩み寄りが必須だ。

今作でケイコが手話の友人と会うシーンがあるが(これが演出なのか女優の手話力の限界があったのか判らないが)彼女がちっとも楽しそうに見えない。言葉の壁が無くても彼女の抱える強いて言えば【虚無感の様に見えるモノ】が拭えないのならそれは彼女の他者への歩み寄りが希薄なのでは?と思えてしまったのだ。

難しいとは思う、でも求められれば助ける準備は多くの人達の中に在ると思う。

だから勝つ為の要素と日常で生活する要素は違うのだ。
それがあの河原のシーン・・・対戦相手のケイコへのリスペクトがそれだ。
相手は彼女を聴覚障害者として闘っては居なかったのだろう。(と少なくとも私はそう捉えた)

ジムの仲間も同じで彼女の耳が聞こえない事を皆克服しようとしていた。
一人だけ若い男がジムを去る時に「女ばっかり教えやがって・・・」と言い捨てたがそれは男女差別であって障害者差別ではない。

だから他者の手助けを拒んではイケナイよ。

健常者だって助けが必要でどうしても困った時は「助けて」と言える方が生き易いんだから。


観客をそんな風に思わせてくれたのは彼女を支える俳優陣の存在感の打ち出しバランスが凄く良かった点だろうな。
うん、私はむしろジムの連中や弟君とその彼女の描き方が好きだったな。


余談だが、私の従兄弟が盲学校の教員だった頃、陽が沈んでから停電になったらしく懐中電灯を探そうとしたけど暗くて見えずオロオロしていたら視覚障害の同僚がすたすたと用意して「これだから目開きはダメね」と言われたと話してくれた事がある。もちろん同僚が冗談で言った事は承知だが自分がなんの役にも立たなかったのがちょっとショックだったらしい。

私はこの話が大好きで色んな事に気付かせて貰ったと思ってる。
お互い出来る事で助け合えるんだって事。

そういう事なんだと思う。


隔たりの無い世界、作りたいよな。

2023/01/01

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