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弥勒の世が近づく今こそ、惟神(カンナガラ)に成るための絶対的法則を公開!

いつもお読みいただき、ありがとうございます🙏✨
完全在宅、漫画家アシスタントの仕事に応募中のタカミチです。
今回はちょっと雑談から入りたいと思います。

noteを書き始めて1か月が経ちました。
開始間もなく、作家の山門文治さんの以下の特集で紹介されてプチバズりを起こし、幸先の良いスタートを切らせていただきました。

それ以降、"note式の運営方法"というものがあることを知り、合間時間に山門文治さんをはじめ、インフルエンサーの方の記事を読んで勉強しています。

先ほども、目が覚めて布団の中で眺めていたら、とらねこさんという方の記事で、共同マガジンという方法を見つけました。

わー、勉強になるな~、フォローしとこっと、と思い、フォローボタンを観たら、フォローバックのボタンが。
えぇー!?フォロワ―さんだった!
と、ビックリしたのでした。とらねこさん、ありがとうございます!🙇‍♀️

とらねこさんのマガジンには、収益化やマーケティングに関する内容もあり、とても為になる記事を多く執筆されています。
noteをより有益に運営されたい方は、ぜひ参考にされてみてください。

しかし、、、僕は収益化は未来永劫できないでしょう。。。
なぜなら、神様について書くからには儲ける事は許されません。

想像して見たらよく分かります。
「天照太御神は〇〇で~続きを読むには月額800円。。。」
完全に、神様をダシにしてビジネスをしていることになります。
神で糧を得る事成らず」、は鉄則です。

スピ系の多くの人は、ここを全く疑問視せずにビジネスをしていますし、そうした方々を非難するつもりはまったくありません。
でも。。。”本当に”、”リアルに”神様のご存在を認識している人間にとっては、これ以上に畏れ多いことはありません。
神様ネタで儲けたお金で上手いメシを食う、、、スカイツリーからバンジージャンプするよりよほど恐ろしい事です。

僕が、「アセンション(次元上昇)」とか「スターシード」などの、スピ系言葉を敬遠する理由もここにあります。
それらが悪いというわけではなく、ビジネスの側面を強く感じるためです。
また、スピ系で鉄板である瞑想なども一切しません。
日常を正しく、全力で生きることこそが、真の瞑想だと感じます。
(心を落ち着ける目的で瞑想をするのは良いと思います)

誰しもが、死んだ後に右胸に鎮まっておられる内在神に対面することになりますが、「内在神様のことを書いて稼いだお金で車買いました!」と面と向かって言える人はいないでしょう。
誰もが等しく、その時に畏れ多い体験をします。

今回は、その内在神様について、ちょっと触れてみたいと思います。
僕が神様のご存在を認識している理由のひとつ、因果律の観点から惟神(カンナガラ)について書いてみます。

宮地嶽神社、宇佐神宮に続いて、高良大社へ行って来ます

今春に、いちご狩りに行く予定をしています。
いちご狩りの後に行くスポットについて妻と話し合っている時に、「高良大社(こうらたいしゃ)にも行こう」と提案がありました。

毎回そうですが、妻から神社へ行こうという提案を受けると、神様からの指令が来た、と思っています。
去年も妻から宮地嶽神社と宇佐神宮の提案があり、それぞれ旅行へ行ってきました。
僕から提案することは、あえて一切していません。
唯一、伊勢神宮と出雲大社だけは「行きたい」と声を上げていますが笑
未だ行く縁も発生せず。。。(単にお金が無いだけです)

そして、僕の崇敬神社である高見神社・鷹見神社の奥宮にはまだお呼ばれしていません。
権現山山頂にありますが、一度行こうとした時に我が家の暴君娘から「そっちは怖いから止めて!」と血相変えて止められました。
それ以来、お呼ばれするのを待っています。

宮地嶽神社、宇佐神宮と、今回の高良大社の共通点。
それは、神功皇后にまつわる神社だということです。
僕が生まれた場所の氏神である日本最古の神社で、住吉三神を祀る現人神社にはじまり、これまで神功皇后の所縁の地にて生きています。
イザナミから逃れ黄泉の国から戻ったイザナギが、禊を行ったとされる那珂川で生まれ、こうした事を現在書いていることを想うと、そうした因果律に生まれたことを感じます。

生まれてから今まで、福岡県内を5回ほど引っ越していますが、氏神神社のご祭神は常に神功皇后で、妻が行きたがる神社も必ず神功皇后に縁深い神社です。
神功皇后のお導きと考えるにはあまりに畏れ多いため、ただ、ひたすら、感謝のみを捧げます。
このことは、僕をスサノオで在ろう、大和魂に立ち返ろうと突き動かす、強い動機になっています。

これもひとつの惟神(カンナガラ)だと感じています。
”惟神”という言葉をご存じでしょうか?

惟神とは簡単にいえば、神意をこの現実界で体現する者だと感じます。
正しく生きる中で、内在神様によるお導き(神意)が働くようになり、自動的に人生が神意に沿って展開される状態と言えます。
因果律に神意が乗る状態とも言えるかもしれません。

有体に言えば、地球をより良く運営するための役員みたいなものですね。
「日月神示」でも、"役員"、"御役"という言葉が頻出しますが、惟神の人のことを指すのかも知れません。

ではなぜ、神意を代行する必要があるのでしょうか。
役員になるメリットは何なのでしょうか。

それは、魂の目的から考えてみると見えてきます。

生まれる奇跡とは、ひとつの宇宙が生まれるということ

僕たちは当たり前に存在しているように錯覚しがちですが、実際には途方もない奇跡の上で存在しているようです。
この現実界に生まれ出るということについて、お釈迦様と、あえて小学6年生の女の子が調べた例えを用いてみたいと思います。

【お釈迦様 盲亀浮木(もうきふぼく)】
「例えば大海の底に一匹の目の不自由な亀がいて、その亀が百年に一度、息を吸いに波の上に浮かび上がってくるのだそうだ。ところがその大海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に穴が一つ空いている。 百年に一度浮かびあがってくるこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことがあるだろうか」

法相宗大本山 薬師寺

つまり、生まれるということは、上記くらい在り得ないことだとお釈迦様は仰っています。

そして、小学6年生が自由研究で調べたであろう「奇跡の命 おなかのなかの赤ちゃんについて」から抜粋したいと思います。

生まれてきた奇跡の確率を求めると. 1400兆分の1になるそうです。 ジャンボ宝くじ等が当たる確率が. 1000万分の1らしいので、1400兆分の1. という確率のすごさが、少しは伝わるのではないでしょうか。

奇跡の命 おなかのなかの赤ちゃんについて

この子は、将来優秀な論文を発表する学者になりそうですね笑

僕たち一人ひとりが生まれるということは、これほどの奇跡に匹敵するということです。
単純に性欲の結果と言う声もありますが、それは物質的な側面から考えた即物的な思考だと感じます。

この奇跡が示唆するのは、無限の想念世界(霊界)に在る、無限の魂の中から、80億人に生まれ出るという確率の話だと感じます。

80億人/無限

そう考えると、奇跡過ぎると思いませんか?
僕たちは、無限に存在するかのような魂の競争を勝ち抜いて、この世に誕生しているのです。

それほどの奇跡を経てまで生まれる理由、それは何なのでしょうか?

魂の目的とは、最終的には覚醒すること

僕たちは現在、物質的人類の最終局面に居ます。

個人に因果律があるように、家族にも、組織にも、社会にも、世界にも固有の因果律が存在することを感じます。
そして、近年の社会の流れをつぶさに観察すると、明らかに人類は無意識的に想念的人類への進化を始めています。

分かりやすい例が、YouTubeやX(旧ツイッター)です。
弥勒の世の到来という、世間的には宗教っぽく胡散臭い話が、まことしやかに登録者数数十万規模の人気チャンネルで語られています。

僕自身、こうして話している内容が、一般的には胡散臭く感じるであろうことを理解した上で書いています。
一般的には”面倒くさそうな奴”に感じさせるような、正論、正義、道徳観をあえて前面に押し出して書いています。

その目的は、僕を含めた魂が、ひとりでも多く少しでも覚醒に近づくきっかけの場を創りたい、と考えているからです。

恐らく、今生では覚醒を成し得ない方が99.999999999…%だと思います。
もちろん、僕もここに含まれます。
つまり、ひとり出るか出ないか、です。

しかし、これは今までの世界であれば、です。
現在は弥勒の世に向けて、霊化が急速に進行していることを肌身で感じます。
言い換えれば、肉体が心を支配していたのが、心が肉体を支配し始めています。

このことから、数十、数百人が覚醒するという、人類史上在り得ない現象が起きうるのが、今という時代だと感じます。
弥勒の世自体が、人類史上初の体験ですから道理ですね。

少なくとも、惟神に成る人は、当たり前のように増えてくるでしょう。
あなたもすでにそうかも知れません。

自惚れるわけではないですが、こうした内容の記事に触れる縁を持つこと自体が、魂の因果律がそうした方向に向いている証拠です。

あなたもすでに惟神かもしれない

「日月神示」の<日の出の巻き・第二十一帖>には、惟神について以下のように記されています。

神かがりと申しても七つあるのであるぞ。
その一つ一つがまた七つに分れてゐるのざぞ。
ガカり、かみかかり、か三かかりぞ。(カミ)ガカリぞ。
(かみ)かかり、か三かかり、かみかかりざぞ。
神かかってゐないと見える神カカリが誠の神カカリと申してあろが。
そこらに御座る神憑りは五段目六段目の神憑りぞ。
神カカリとは惟神(かむながら)の事ぞ。
これが神国の真事(まこと)の臣民の姿ぞ。惟神の国、惟神ぞ。
神と人と融け合った真事の姿ぞ。
今の臣民のいふ惟神では無いぞ。
此の道理 会得りたか、真事の神にまつりあった姿ぞ。
悪の大将の神憑りは、神憑りと分らんぞ。気つけて呉れよ。
これからは神カカリでないと何も分らん事になるのざぞ。
早う神カカリになる様 掃除して呉れよ。
神の息吹に合ふと神カカリになれるのぞ。
一二三唱へよ。祓えのれよ。神称へよ。人称へよ。
神は人誉め 人は神称へてまつり呉れよ。
まつはり呉れよ。あななひ(助け合って)呉れよ。

引用元:https://fieasia.net/archives/9659#i-22

日月の神様(国常立太神様=地球神)は、神懸かり=惟神だと説いています。
一般的な認識にあるような、神と一体化して特別な力を開眼するわけでは無いこともしっかりと説いています。

”自分を特別な存在だと思いたい”という我欲を満たすものでは決してないということですね。
僕も、慢心しないように、努めて普通のおじさんを意識して生きています笑

普通の人のまま、普通に生きる中で、神意を体現する者が”惟神”だということです。
山やお寺に籠って修行する必要はありません。
なぜなら、すでに全ての人間が”人生”という修行中なのですから。
雑多な人間が生き、生活苦や対人関係の困難がある人生が最高の修行の場です。

また、惟神になると幸せなことだけが起こるようになるわけではありません。
むしろ、不幸とも呼ぶべき試練が増えるかもしれません。

不幸を体験させることで、それを乗り越えさせた時により魂が成長するため、神様は「辛いだろうけど頑張ってね!」という具合に試練を与えてくれます。
人間は、幸福な出来事からはあまり学びませんが、不幸による苦しみからは大きな学びを得られるという、やっかいなシステムがあります。

その内在神が与えた不幸には、めぐり(因果)を昇華(消化)させるためのサービスもあるでしょう。
神様は、プレゼントと称して不幸を贈って戴けるわけですね(ありがた迷惑ですか?笑)

だから、惟神の深度が深まるほど、一時的には世俗的な幸福からは離れてしまう可能性もあります。
これはその人の因果にもよるため、一概には言えないと感じます。
悪因縁を早めに昇華してしまって、早めに大ハッピーになる人も居ると思います笑

惟神になっていく最大の恩恵は、不幸と呼べる出来事にも動じることなく向き合えるようになり、絶対的な安心感の中で人生を送ることが出来るようになることでしょう。

ぜひ、あなたも少しずつでも良心(内在神)に沿った生き方を意識し、内在神と同行二人の旅を楽しんで欲しいと思います!

あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
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