見出し画像

天皇とは?:華夷思想=中華思想と儒教

7328文字 
全人類が大ピンチの昨今。拡散したいので無料ですが、私もピンチなので投げ銭ください。m(_ _)m

このnoteは国家に隠された歴史に大口を開けたと思うが、
騙されきった我々民もアホかと呆れるよね。(^_^;)

このwikiはその夷・蝦夷について、かなり正しく詳しいので注意されている。御用学者の参考文献を引用しないと駄目ですよ。(^_^;)

魚拓も取っとく

というわけでwikiを紹介
頭に入るよう整理しながらワシは読む

このwikiは沢山の情報が詰まっている。頭に入るようテーマごとに分けて、モヤモヤしているところをハッキリ述べつつ、まずは基本から説明する。内容はもう皆が知っていることだが、より深くハッキリ分かると思う。

中華思想は中華が天下(世界)の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する思想・価値観・道徳秩序を指す。漢民族が古くから持っていた自民族中心主義である。

自国の美称として華夏中国を用い、王朝の庇護下にない化外の異民族もしくは非漢民族を文化程度の低い夷狄(蛮族)であるとして劣位へ秩序づける。このため、華夷思想の同義語として扱われる場合もあるが、より蛮夷排斥に重点を置いた語として「華夷思想」を用いる場合もある。

「中華思想」は主として天皇国家の日本学界の意味をボカすための詐欺用語であり、中国語と英語では「華夷秩序Hua-Yi distinction)」と「中国中心主義sinocentrism)」の、二つの概念に分けられている。

古代からすでに中国はこうだった。

◉華夷秩序(=新世界秩序・NWO)
◉中国中心主義(=ワンワールド)


意味

古代漢民族のエスノセントリズム

エスノセントリズム(自民族中心主義)としての中華思想は漢民族を中心としたものであり、中国の皇帝を世界の中心とみなし、天下を代表する「天子」と称す。この皇帝(=天皇)が統治する朝廷の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされる。そのため、異民族(の国民)や外国の侵入に対しては、熾烈な排外主義思想として表面化することがある。

朝廷とは本来中国のもの
漢字文化圏諸国における君主制下で官僚組織を伴った政府および政権を指す。
また、君主が政治執務を行う場所や建物。

中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し、漢民族の農耕文化が優越であることを意味した。春秋戦国時代以後は、「詩経」や「韓非子」「呂氏春秋」などの古典にある「普天之下 漠非王土 率土之浜 莫非王臣」(天下のもの全て、帝王の領土で無いものはなく、国のはてまで、帝王の家来でない者はいない)という言葉にあるように、礼教文化王道政治にもとづいて天子を頂点とする国家体制を最上とし、そのおよんでいない状態であればと称される。らはずれた禽獣(鳥やけだものを意味する)に等しい者として東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼んだ。この夷の基準は固定的なものではなく、天子の徳や礼がおよぶにつれ、移動する変動的な概念である。

中華とは、華(=文明)の中であり、文明圏を意味する儒教的価値観から発展した選民思想であり、その字義のごとくである。自らを華(=文明)と美称するにあたって、対比となる夷(=非文明)が華の外であり、すべての非中華(ゴイム)が彼らの思想的に夷(=蛮)とされた。

字義漢字の意味。文字の意味。

礼教文化=儀礼と教化。

  • 儀礼=社会の秩序を維持するために民に守らせるるべき行動様式。特に、目上の権力に敬意を表す作法。

  • 教化=教え同化させること。特に道徳教育的な意味で使われる。教育が科学的、合理的な理屈を含むのに対して、これらを欠いたものとして対比して用いられる。

同化

王道政治

  • 儒教における理念。夏・殷・周時代の理想とされた、優れた王がなすべき方法、選択の道。

  • 孟子が定義した「仁徳」による統治のこと。対比形は「覇道」(武力や策略による統治)。

  • 上記から転じ、ものごとを進めるにあたって正しいと思われる方法のこと。正攻法、定番、定石、典型。

中国の哲学、特に儒教において重要な概念である。この文字は殷代の資料(甲骨文字など)には存在せず、西周時代になって作られた。

儒教の徳
具体的には仁・義・礼・智・信の五徳や孝・悌・忠の実践として表される。そして、徳は人間の道徳性から発展して統治の根本原理とされ、治世者の優れた徳による教化によって秩序の安定がもたらされると考えられた。前漢において儒教は「儒教」とは呼ばれず、もっぱら法家思想の法治や刑に対抗する意味で「徳教」と呼んでいた。儒教思想において重要な規範的価値は、生まれによってではなくその人の徳の現れた実際の量の結果によって社会的地位が決せらるべきであるということである。

孟子と王覇

孔子についで儒教のNO2の「孟子」

孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。

孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇三王夏の、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」と述べて、当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古の堯・舜や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。

上:古の神話時代の堯・舜
左から:夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王

◉ワシ解説

儒教では、神話時代の君主の堯と舜と、夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王=夏・殷・周を建国した初代王が、聖人で神です。周で2人の王があげられるのは、文王が殷を倒した王で、武王が周王朝を建てた王だから。また、周王朝の創業に力を尽くした周公旦 も聖人として位置づけられている。

周公旦

◉儒教は、彼ら先王の政治が『王道政治』という哲学の宗教。

また、孟子は聖人ではないが、それに次ぐ存在であるとして「亜聖」と呼ばれる。(下で説明)


四夷

漢民族の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない愚か者の周辺民族に、四方の異民族(ゴイム)について四夷あるいは夷、夷狄という蔑称を付けた。

中華(華の中)に対し、夷狄は外世界(華の外)を指す言葉で、未開野蛮を意味する。したがって19世紀になるまで中華非中華である夷狄との間に対等な外交や貿易は存在せず、朝貢と呼ばれる従属関係のみが結ばれた。

古代における文明の進化の差異や、朝廷に帰順しない周辺民族から絶えず攻撃や略奪を受けたことから、これらの呼称に蔑んだ意味を込めたとする解釈は適切ではなく、中華を名乗る側が、領土拡大を目的に周辺地域への侵略行為を繰り返してきた事実がある。

夷狄と蔑視された非中華の国や民族も独自の文化を築いており、必ずしも中華文明とに優劣があったとは言えない。あくまでも中華側の価値観で見た区別または差別である。➡︎(ワシ:同じ血筋のイスラエルの勝手な理屈と似ている

東夷(とうい)
古代は漠然と中国大陸沿岸部の人、後には日本・朝鮮などの東方諸国の人。

西戎(せいじゅう)→のち呼び名が変り西域と呼ばれた諸国など。

北狄(ほくてき)
匈奴鮮卑契丹韃靼蒙古などの北方諸国。

南蛮(なんばん)
ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。

中華思想の概念図

華と夷の関係は地方の部分として説明できる。地の中心に立つ天子が天のエネルギーを一身に受けとめ、そのエネルギーが、天子の身体から方形をなす地の四方にむけて同心方形を描きつつ水平拡散し、エネルギーのおよぶ範囲が「華=文明」の範域で、エネルギーが尽きるところから外方が、「夷=野蛮」となり、中国では、このような「天地相応」観念にもとづいて、天円地方の「地方」を華と夷に分けてきた。

天は唯一神(ヤハウェ)天子は天皇
敵側の学者のpdfだが、この図はイケている

中華世界では、四夷は辺鄙な場所に住んでいるために中華文明の影響と恩恵を受けていない化外の民であり、いずれ中華文明に教化されることによってやがて文明化されていくとされ、中華世界ではこの化外の民を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとされた。特に中華文明を代表する天子としての皇帝は、自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明へと導くと考えられた。民が教育によってなりうるように、四夷の概念は固定的なものではなく文化の発展とともに移動する変動的な概念であり、孟子はこれを「夏をもって夷を変ずる」と述べている。

孔子についで儒教のNO2の「孟子」

これらが蔑称かどうか夷(ゴイム)たちは混乱している。例えば「東夷」については孟子は儒教の聖典『孟子』において、古代の聖王の「舜は諸馮に生まれて負夏に移り、鳴條で亡くなった東夷の人である。(周の)文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」などと、夷を戦争で捕らえ、祭(生贄殺人儀式)をしていた周の文王を夷だと嘘を流した。

◉ヒトラーはユダヤ人。
◉ナチスのスポンサーはスコット・ブッシュ。
◉メルケルはヒトラーの娘。

などと同じ詐欺を、この当時からユダヤ人はしているが、まさか夷(ゴイム)は古代から嘘歴史を創作していたとは気づかない。このようにすれば、漢民族と夷の関係が分からなくなる。古代の戦争の理由、生贄の理由も現代の夷(ゴイム)にはサッパリ分からない。

夷狄とする国家、民族、人物に対して良い意味ではない漢字を当てる場合もあり、例として「蒙古」の「蒙」(無知昧)、ヌルハチに対し明王朝が「児哈赤」と「奴」の字を当てたものがあげられる。

ヌルハチ=モンゴル人の王=ゴイム王

蒙=おおう。おおいかくす。くらい。道理にくらい。愚か。愚か者。
奴=召し使い。奴隷。身分の低い人。下男。やつ。あいつ。人を蔑んでいう言葉。

南蛮

現代中国・台湾・日本などでは、これらの言葉は南蛮カレー南蛮等で名前を残す以外、ほとんど死語となっているが、学術的には使われ続けている。

華夏

中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)といわれていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、中国人が自国を誇っていった語であった。そこから、文化の開けた地、都(みやこ)を意味した。

夏は中国の最初の国が「夏」だからだ・・・・(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)

漢民族ではない、夷の満洲族(ゴイム)が支配層であった清朝を打倒するために中華民族ナショナリズムを構築した漢民族(ユダヤ人)の章炳麟は、以下の通り、「華夏」を国土の名称・地名でもあり、種族の名称でもあると解説している

章炳麟:辛亥革命を思想面で支え、孫文・黄興と並ぶ「革命三尊」の一人。中国の伝統思想(中国哲学)をナショナリズムのもとに論じたことから、
「国学大師」とも形容される。➡日本の国学詐欺に学ぶ、中国革命の犯人たちはどいつもこいつも日本に留学している。日本の明治維新に学んでいたんだろ?

我が国の民族は古く、雍、梁二州(陝西、甘粛、四川)の地に居住して居た。東南が華陰で、東北が華陽、すなわち華山を以って限界を定め、その国土の名を「華」と曰く。その後、人跡の到る所九州に遍(あまね)き、華の名、始めて広がる。華は本来国の名であって、種族の号ではなかった。

「夏」という名は、実は夏水(河の名前)に因って得たるものなり、雍と梁の際(まじは)りにあり、水に因って族を名付けたもので、邦国の号に非らず。漢家の建国は、漢中(地名)に受封されたときに始まる。(漢中は)夏水に於いては同地であり、華陽に於いては同州となる故、通称として用いるようになった。本名(華夏)ともうまく符合している。従い、華と云うのも、夏と云うのも、漢と云うのも、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。漢という名を以って族を表している、と同時に、国家の意味にもなる。又、華という名を国に付けたと同時に、種族の意味にも使はれているのはそのためである。

わざと分かり辛い文体&ポエム入の詐欺文

ワシ翻訳

我が国の人々は昔から陝西、甘粛、四川の地域に住んでいた。東南が華陰で、東北が華陽で、華山をもって境界と定めた。その国土の名は「華」でした。後に人々は広く九州(中国全域の古称)に広がり、華の名前がはじめて広がりました。華は本来国の名前であり、民族の名前ではなかった。

「夏」という名前は、実際には夏水(河の名前)に由来しています。この河は雍と梁の境界にあり、水にちなんでこの一族に名付けたもので、国の名前ではありません。漢の建国は、漢中(地名)に受封されたときに始まります。漢中は夏水川の流れの地であり、華陽においては同州(かつて存在した州)になるため、通称として夏という名前が使われるようになった。この名前は本名の「華夏」ともうまく符合している。したがって、華、夏、漢という名前は、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。漢という名前は一族を表している、と同時に、国家の意味も持ちます。また、華という名前は国に付けらたと同時に、種族の意味でも使われてるのはそのためである。


違うな、ワシが説明し直す

中華の華の意味は、神の子のエリート文明圏を意味する価値観から発展した選民思想であり、その字義のごとくである。自らを華(=文明)と美称するにあたって、対比となる夷(=非文明)の華の外があり、すべての非中華が彼らの思想的に劣った人種、夷(=蛮)とされた。

後に華夏の人々は広く九州(中国全域の古称)に広がり、華の名が中国全域に広がりました。華夏は本来はエリート意識を含み、ただの国の名前ではなかった。その「夏」という字は、河の名前などではなく、支配が大きく盛んであることに由来しています。

漢は、劉邦が漢中(地名)に受封され漢王朝が建国されたときに始まります。現在の「漢民族」や「漢字などの名称の由来ともこの地名からです。

華、夏、漢という名前は、そのうちどの一つの名を挙げても、互いに三つの意味を兼ねている。華夏ほどでは無いにしろ、漢という名前は闇のエリート一族を表している、と同時に、国家の意味も持ちます。また、華という名前はエリート文明という意味と同時に、エリート”種族”の意味でも使われてるのはそのためである。

華の意味の証拠は日本にある!(^_^;)

華族とは?(華やかな族)

◉皇室を守る役割
◉特権階級
◉明治維新以後は公家や大名、維新に功績があった家を華族に昇格
◉特権を与え天皇を守を守護させる(
藩屏
◉民事裁判への出頭を求められる事はない。
◉貴族院議員となる義務を負う。➡天皇を守る詭弁

◉華族の子は、学習院に無試験で入学高等科までの進学が保証され(略:色々カラクリあるんだね)。

学習院=宮内省外局として設置された国立学校。華族の子弟の教育機関として設立され、華族の子弟は無試験で入学でき、高等科までの進学が保証される。

◉皇族の結婚相手は華族と定められていた事から華族は皇居へも出入りできた。

繁華(都市・町並みなどが)繁華である、にぎやかである。
などもあるね。

歴史

春秋における中華と夷狄

中華と夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは『春秋』である。『春秋』においては、周初礼楽を制度化し、”夷狄起源(サタンの子ゴイム)の文化要素を排除すべき”ことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も「四夷」のようなくくりが生まれ、理論化されていった。

峻別厳しくはっきりと区別すること。

(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)
、通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれる。

戦国末期の荀子は”儒家の理想国家である商や周の華夷秩序”について、中原の王者が治めた地を中心に、畿内、畿外、候、衛、蛮、夷、戎、狄の順に500里ごとの距離をとった同心円状の構造であり、遠近に応じてそれぞれにふさわしい制度で帰服したと説明した。

荀子(紀元前313年、紀元前298年以降)

日本での用法

日本では「夷」えびす、えみし、ころす、たいらげる、訓読させた。「蝦夷(えみし、えびす、えぞ)」や「東夷(あずまえびす)」などにその用法が見られる。

訓読】= 漢字を、その意味にあたる日本語の読み方で読むこと。

蝦夷は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である。

◉中世の日本と同じことが、先に古代の中国であった。
◉中国:漢民族系の国々が建国され、夷と呼ばれた人々が漢民族の国に同化され奴隷にされていった。

日本:中世、唐の侵略基地日本国が建国され、東夷と呼ばれた人々が日本人(京都)に同化され奴隷にされていった。

大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。大和朝廷の支配に屈服した東国の蝦夷(エミシ)は、俘囚と呼ばれた。

俘囚(ふしゅう)とは、蝦夷征伐などの後、朝廷の支配に属するようになった者を指す。夷俘とも呼ばれた。また、戦前の戦中には戦時捕虜も俘囚と呼んだ。

また京都の人から見て、荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を「あずまえびす」「えびす」と呼称した。

焼夷弾

アメリカが使用したが「焼夷弾」と名付けたのは日本、その意味は?(^_^;)

おわり

ここから先は

0字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?