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『夷』えびす、えみしの文字から分かる中国と日本の隠された歴史!

8906文字

淡々と『夷』(えびす)の字の入った言葉の意味を見ていってください。中国と日本で過去にトンデモナイ事があったのか分かるから。(^_^;)

でも、日本は唐に侵略されたことを、知っている人でないと意味わかりません。39~44あたりの武則天関係のnoteを先に読んで下さい。


中国の『華夷思想(かいしそう)とは?』

漢民族が自国民を中華と称して尊び、異民族夷狄(いてき)と称して卑しみしりぞけた思想。中華思想

華夏(中国)は世界のうちでもっとも文化の卓越した中央の地であるとし、周辺の諸国を文化のおくれた低劣の地と蔑視し、夷狄(いてき)と称してこれを差別する立場。華と夷を分かつ基準を、根源的な血液の違い、人と禽獣の差とする考えもないではないが、多くは道義性の有無、習俗や制度の相違、いわば文化的な優劣におく。だから夷狄も文化が向上すれば、差別を解消して中国に迎え入れ、世界国家の理想が実現するという。しかし実際には、中国文化の優越性への自負があまりに強烈なためか、夷狄の進化をかたくなに拒み、容易に受け入れない。

華VS夷

定義がコイツラとまんま同じ!

文化が向上すれば=徳(道徳)のことだけど、
ノアヒディズムやSDGsや素直な良い子とか・・!?

中国語の『夷(エビス)とは?』

① 昔、中国で王化の及ばない地方の人をさげすんで称したことば。特に東方の人を指すが、一般に遠国の民族の総称としても用いられる。蛮人。えびす。

②古くは「えみし」といい、異民族を意味する語であった。西南地方の異民族は、比較的早く同化されたが、東北地方の蝦夷 (えぞ) だけが、長く同化せず、異民族として残ったため、「夷」が「蝦夷」をさす語となった。蝦夷のうち、帰順反逆の心をあらためて服従する)して内地に移された俘囚東国武士も夷と呼ばれた。

[音]イ [訓]えびす
古代中国で、東方の未開人の称。また一般に、異民族。未開の民族。「夷狄/華夷・攘夷・征夷・東夷・蛮夷」
平らで低い。「平夷」
滅ぼし平らげる。「焼夷弾」

[難読]蝦夷(えぞ)・蝦夷(えみし)

い【×夷】

《昔、中国で未開人、蛮族を指していった語から》異民族。えびす。

⭕️蛮族=未開の種族。野蛮な民族。=夷(えびす)


中国語の『東夷(とうい)とは?』

东=東(異体字

(笑)

東方の夷(えびす)の意。
中国古代の民族名。中国の中原にいた漢民族が、黄河の中・下流地域に住む漢民族を「中華」と呼ぶのに対して、異文化をもつ周辺の諸民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と蔑称したが、東夷の住地は,ほぼ山東省から江蘇、安徽2省にかけてであった。

すでに殷代に、これに対する大規模な討伐が行われたことが甲骨文に見え、また、西周期にもこの討伐が大きな問題であったことをうかがわせる金文がある。春秋時代には斉、魯の周辺にいくつかの夷族の国があった。のち中国東北部・朝鮮・日本などの民族を指すようになった。😅

◉古代中国人が東方の異民族を卑しんで呼んだ名称。
古く山東から江蘇北部の海岸地方にいた民族をさしたが、のち満州・朝鮮・日本などの各種民族の総称となり、後漢書』『三国志』などの東夷伝に詳述されている。

古代中国人が東方の異民族を称した語。→西戎 →南蛮 →北狄→东夷(上の図だね)


夷族の国=夷族と言う言葉の意味は・・・
夷族宗族をみな殺しにする。夷滅。(民族の説明になっていないんだけど・滝汗!)

宗族中国の父系親族集団、中国の父系の同族集団。同祖、同姓であり、祭祀を共通にし、同姓不婚の氏族外婚制をたてまえとするもの。同じく血縁でも母系は入らず、女系は排除される。したがっていわゆる親族のうちの一つであっても、親族そのものではない。文献では前2世紀頃あるいは3世紀頃からみえる。同族を統率する1人の族長の支配下におかれ(以下略)

夷滅〘名〙 (「夷」はたいらげるの意) 滅ぼし絶やすこと。みな殺しにすること。


日本語の『東夷(とうい)とは?』

◉ 東国地方の武士。関東地方の荒々しい武者。『京都の人が』あざけりの気持をこめて用いたことば。あずまえびす(東夷)。あらえびす。

昔の日本で、京都の人が東国の武士を呼んだ語。あずまえびす(東夷)。

神皇正統記(1339‐43)上「日本は九夷の其一なるべし。異国には此国をば東夷とす」 〔書経‐周官〕
翻訳「日本は九つの夷のその一なるべし。異国のこの国を東夷とする。〔書経‐周官〕


神皇正統記 リンク

神皇正統記(1339‐43)上「日本は九夷の其一なるべし。異国には此国をば東夷とす」 〔書経‐周官〕

翻訳「日本は九つの夷(えびす)のその一なるべし。この国をば異国の東夷とする。〔書経‐周官〕


中国語の「尊王攘夷」(そんのうじょうい)とは?

「尊王攘夷」とは、紀元前770年から前403年までの約360年間の春秋時代に覇者が諸侯と会盟を行うときに掲げた標語。本来は周の王室を尊重し、夷狄 (いてき)を討伐する意味。

周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)                        

夷狄 (いてき)とは、中国人が古代に周辺の諸民族を卑しんで呼んだ名称。自国を天下の中心として諸夏,華夏などと称した。夷狄の語が発展して東夷、西戎 (せいじゅう) 、南蛮、北狄の名称となった。未開の民や外国人。野蛮な民族。

のち異民族系隣国の侵入により漢民族の危機が叫ばれた宋代に、漢民族の王室を尊び (中華思想)、異民族を排撃するという忠君愛国の思想として再び主張され,さらに朱子によって理論的に高められるにいたった。

なお日本でも、朱子学を基盤にして幕末志士の間に、天皇を尊び政治の中心とする尊王と、外国を追い払う攘夷(笑)とが結びついた思想、尊王攘夷が叫ばれた。_| ̄|○iii


日本語の『尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは?』

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