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81.いい加減!シオニズム〜パレスチナ問題を真面目に学ぼう!!😬

21876文字

はじめに

多くの人がシオニズム ・シオニストという言葉の意味に無知なので、SNSでユダヤ・イスラエルの御用陰謀垢と御用政治垢のデマ・プロパガンダが幅を利かせている!騙されないよう、嘘を付いて儲ける人たちを叩けるよう、勉強しましょう〜〜♬♪

それと、パレスチナ問題はシオニズム問題から起きた出来事なので、後半はパレスチナ問題の話となっています。繋がっている問題だから時系列で繋げて読むと分かりやすい。1〜8までシオニズム。9〜21がイスラエルVSパレスチナ問題となっています。一気に読める量では無いと思う、途中で休むと良い、難しい内容だし。

基本コピペだが、ダブっている文章と国語がおかしいところは整理した。学者はユダヤ人種問題、ユダヤ教については素人なので、そこは直してある。ついにシオニズムが理解出来た!と思った人は投げ銭下さい。分かるように並べるだけでも大変だったんだから。


1.シオンとは?

Sion、エルサレムの南東にある丘。紀元前一〇〇〇年ころ、ダビデ居城を、また、ダビデの子ソロモンがヤハウェの神殿と壮大な宮殿を建設したところ。以来、聖なる山としてユダヤ民族の生活・信仰の中心となり、エルサレムおよび全イスラエルの象徴として、一九世紀末にはシオニズム運動を生んだ。

◉パレスチナ地方の古都エルサレム南東部の丘。ダビデ王が祭壇を築いて以来、聖なる山となった。エルサレムの象徴となっている。シオンの丘。シオンの山。

シオンの丘から望むエルサレム市街
シオンの丘に建つマリア永眠教会

◉エルサレムの古い別称。もとはダビデ王が征服したエルサレム南東の丘を占めるエブス人の城塞(サムエル後書5の6)の名だが、後ちエルサレム全市街の名称となった。また象徴的には天にある神都の意。「シオンの娘ら」はエルサレム市民の詩的表現。ヤハウェから世界に散らばれと命令され世界に離散したユダヤ人たちは、パレスチナへの帰還の夢をこの言葉に託し、シオニズム運動を生んだ。


2.エブス人(Jebusites)とは?

◉イスラエル民族が定着する前のカナン(現パレスチナ)の先住民。その居住地エブスすなわちエルサレムは自然の要害で、イスラエル人も攻めあぐんだが、ダビデ王が攻略してイスラエルの首都とし、エブス人もイスラエル人に従属した。

要害 (味方にとっては要で敵には害となるの意) 地勢がけわしく、守りやすく攻めにくい所。

3.カナン(Canaan) とは?

◉パレスチナ地方の古名。紀元前三〇〇〇年頃、セム族が定着。紀元前二千年紀後半に最も栄えた。「旧約聖書」で神がイスラエルに与えたという約束の地。「乳と蜜の流れる地」と呼ばれた。

◉パレスチナおよびシリア南部の古名。前2000年紀からエジプトの影響下にカナン人が活動、前13世紀末にイスラエル人が征服。旧約聖書ではアブラハムとその子孫に与えられた〈乳と蜜の流れる〉約束の地(《創世記》12)であった。しかし、イスラエルの預言者はカナンの文化とバアル信仰を非難した。(ワシ:その非難した預言者はエリア)

◉前1200年ころフィリスティア人(ペリシテ人)として知られる〈海の民〉の集団が到来し,また前1000年ころにはイスラエルの民の王国が成立した(イスラエル王国)。…

◉[古代イスラエル時代]
前2千年紀初頭に、神に選ばれたヘブライ人アブラハムが、カナン(後のパレスチナ)へ移住した出来事によって、ユダヤ民族の前史は始まる。遊牧民アブラハムは、一人息子をヤハウェの生贄に差し出そうとした行いにより、彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた・・・「アブラハム契約」。

神は生贄を求めるお方、諏訪大社の生贄祭の元!(;・∀・)

4.イスラエル人とは?

◉コトバンクもwikiも、ちゃんとは判っていない臭い・・・(汗)


5.イスラエル国

ヤコブ(相撲の祖)

◉旧約聖書で、神ヤハウェに選ばれた契約の民であるヤコブとその子孫12部族の総称。アラビア砂漠に興ったセム系の遊牧民で、後にエジプトに居住。前13世紀にモーセに導かれてエジプトを脱出し、カナンに定住。前11世紀の終わりごろサウルを王として統一王権が成立し、ダビデソロモン両王の時に最も栄えた。

紀元前928年、北のイスラエル王国と南のユダ王国の2王国に分裂。前721年イスラエルはアッシリアに、前586年ユダは新バビロニアに滅ぼされた。バビロン捕囚など逆境のうちにユダヤ教が成立。前63年ローマの支配下に入ったが、のち滅ぼされ、ユダヤ人は世界各地に離散した。

6.アッシリアとは

まったく知らない新しい情報+ややっこしい。難しい〜後まわし!(;´Д`A

7.シオニズム とは

Zionism、 世界各地に離散していたユダヤ民族が、母国への帰還を目指して起こした民族国家建設のための運動。一九世紀末から盛んとなり、一九四八年、パレスチナにおけるユダヤ人国家イスラエル共和国を建設、目的をいちおう達成した。シオン運動。シオン主義。

◉19世紀末、迫害の中から具体化し、1917年英国のバルフォア宣言がその主張を認め、1948年のイスラエル建国で一応の目的を達した。シオン主義。

◉19世紀末、ヨーロッパで始まったユダヤ人国家建設を目ざす思想および運動。シオンは聖地エルサレム南東にある丘の名。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどるという『旧約聖書』の記述中の「シオンの地」は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ人種にとって解放への希求とあわさって象徴的意味をもっていた。

⭕️ユダヤ人種のユダヤ教は、幼子と美女を生贄にする神の掟の宗教なので、ユダヤ人たちはヨーロッパ中で宗教的迫害を味わって来た。

19世紀後半、帝政ロシアを中心に高まってきたユダヤ人種への怒りの嵐(ポグロム)のなかで、シオンの地という宗教的象徴性に「ユダヤ人」国家という現実的領土の概念を重ね合わせるシオニズムが誕生した。

⭕️ユダヤ人種は、日々の行いによりヨーロッパに居ること自体が危険な状態になった。ユダヤ人種自身の安全な国を求めたくなった。

このユダヤ人種国家実現への取り組みは1897年、ハンガリー出身のテオドール・ヘルツル(Theodor Herzl /1860―1904)によって準備された、スイスのバーゼルにおける第1回世界シオニスト会議で具体化した。同会議は、「ユダヤ民族のためにパレスチナに公法で認められた郷土(国家)を建設する」ことを決議した。第一次世界大戦中の1917年、パレスチナにおけるユダヤ人の郷土建設に対する保障(バルフォア宣言)をイギリスから引き出したシオニズムは、パレスチナがイギリス委任統治領となる1920年以降、ユダヤ人入植を推進した。

30年代、ナチスのドイツからユダヤ人の追い出しは入植に拍車をかけ、一方、現地パレスチナでは、シオニスト機関によって、非ユダヤ教徒アラブ住民に対する土地没収や労働機会の締め出しが推し進められ、シオニズム勢力とアラブとの対立はイギリス委任統治を動揺させるほど激化した!

⭕️シオニスト「ユダヤ民族のためにパレスチナに公法で認められた郷土(国家)を建設する」

1940年代に入りシオニズムは、アメリカの支援をよりどころに、ユダヤ人国家承認に向けて国際的根回しを図り、47年、イギリス委任統治終了後のパレスチナにユダヤ人、パレスチナ人双方に主権を与えるという国連パレスチナ分割決議を手に入れた。48年5月15日、イギリス委任統治終了の翌日にイスラエル国家が樹立され、シオニズムは目的を達成した。

建国に先だち、シオニズム武装組織はアラブ住民に対するテロ・虐殺を行って人々を逃亡へと駆り立て、「無人化」したアラブ村落を併合し、ユダヤ人国家の膨張を企てた。そうした企ては、”ユダヤ教徒以外を容認しない宗教的排他的民族主義であるシオニズム”の当然の帰結であった。

シオニズムはイスラエル建国後も国家イデオロギーの支柱であり続ける。それは、シオニスト改訂派(後のリクード)のような、「イスラエルの地(エレツ・イスラエル)回復」という宗教的熱狂に駆り立てられ、武力によって際限なく領土拡張意欲を満たそうとする運動潮流において典型的である。


ユダヤ人の民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動。シオニズムの父祖と呼ばれる人たちに M.ヘス、L.ピンスカーおよび T.ヘルツルなどがいる。ヘルツルは、フランスで起きたドレフュス事件と反セム主義の台頭に直面して、シオニズム運動を起したが、現地社会への同化を望むユダヤ人や、社会主義(共産主義じゃね?)によってユダヤ人問題を解決しようとするロシアのブント派に属するユダヤ人から激しい批判を受けた。

ヘルツルは 1904年に死亡するまで、オスマン帝国からパレスチナにユダヤ人国家をつくる許可を取付ける努力を重ねると同時に、他方においてパレスチナ以外でユダヤ人が国をつくる場所を捜しウガンダをその候補地として検討した。 1910年以来、シオニストはパレスチナへの本格的な移民の斡旋に乗出した (「実践的」シオニズム) 。

第1次世界大戦に際して、バルフォア宣言を発表したイギリスを支持した。 1922年に国際連盟理事会でイギリスのパレスチナ委任統治が承認されると、その前文にパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することが組入れられた。しかし、民族的郷土が何を意味するかをめぐってシオニストの間で論争が起き、ユダヤ国家を建設するとする立場と、ユダヤ文化の中心地をつくれば良いとする立場に分れた。

1942年にはパレスチナにユダヤ人自治区をつくるという主張が有力となった (ビルトモア計画) 。しかし、V.E.ヤボチンスキーや M.ベギンらの修正シオニストは、トランスヨルダンを含めた大パレスチナにユダヤ人国家を建設すると主張し、シオニスト主流派に抵抗した。

V.E.ヤボチンスキー               M.ベギン
ヨルダン/トランスヨルダン(同じ意味?)

旧約聖書、ヤハウェのユダヤ人種への約束の地の範囲は、パレスチナを奪っただけでは済まない、もっと広範囲の地域で、もっと大きな爆弾を秘めている!(;´Д`A

1930年代にシオニズム運動は自立可能な国家のための基礎を築き、その結果 1948年5月14日イスラエル共和国が樹立され、一応のシオニズムの目標は達成された。しかし、パレスチナ人の国を盗むというユダヤ人種国家の成立は、パレスチナ問題という大難問をもたらすことになった。

◉シオニズム。ヨーロッパの反ユダヤ運動の盛り上がりにより、1897年、ヘルツェルがシオニスト団を結成して世界に拡大した。(ユダヤ人にとって安全な土地、イスラエル国を作ろうとしたんだね)1948年のイスラエル共和国の成立でいちおう目的を達成したが、パレスチナ神の国を奪ったわけであり、アラブの民族主義を刺激し、パレスチナ戦争をへて、1967・73年の中東戦争に発展した。

◉シオンはエルサレムを指す古い呼称で、パレスチナを神ヤハウェの約束の地とし、同地へのユダヤ人の移住を『離散からの帰還』として考える観念は、ユダヤ教の最も重要な内容に属する。その意味では、19世紀後半にシオニズム(ヘルツルの盟友ビルンバウムの命名)の名のもとに起こったこの運動はユダヤ教のとしては当然の結果とみることができる。

ビルンバウム(Nathan Birnbaum / 1864‐1937)

◉シオンとはエルサレムの雅名(優雅な名)で、シオニズムとはこの名にちなんでユダヤ人の国家を聖地パレスチナに建設しようとする運動を指す。

◉シオニズム。当初は東アフリカに国家を樹立する案などもあったが、結局はユダヤ人が”神ヤハウェに与えられた地”とみなすパレスチナが候補地として選ばれた。エルサレムの別名である「シオン」の地に戻ろうとする運動ということで、シオニズムと呼ばれる。

⭕️繰り返し出てくる学者たちがユダヤ人に騙されているか、言葉を濁しているところ。
>「ユダヤ人が祖先の地とみなすパレスチナが候補地として選ばれた。」


8.ワシ:話は戻るよ、ココからの問題なんだ。

◉[古代イスラエル時代]
前2千年紀初頭に、神に選ばれたヘブライ人アブラハムが、カナン(後のパレスチナ)へ移住した出来事によって、ユダヤ民族の前史は始まる。遊牧民アブラハムは、一人息子をヤハウェの生贄に差し出そうとした行いにより、彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた・・・「アブラハム契約」。

創世記17:7 私は、あなたやあなたの後の世代の(現ユダヤ人の)子孫との契約を守る。私があなたとあなたの子孫の神となるための永遠の契約である。 8 私は、あなたとあなたの子孫に、あなたが「外国人として住でいる土地」、つまりカナン(現パレスチナ)全土を与える。そこはずっとあなたたち(現ユダヤ人)のものになる。そして私(ヤハウェ)は、あなたの子孫の神となる」。

⭕️シオニズム、パレスチナ問題の源流はココだ!!(# ゚Д゚)
聖書でも「外国人として住んでいる土地」と表記されている! 知らない民族が来てもカナン(古代パレスチナ)の人々は追い出したりしなかった。聖書にも自分たちは居候と書いてあるのに、ユダヤ人は、この地パレスチナは我々ユダヤ人の土地だと言う!

◉イスラエルのシオニズム運動は、聖書における「神の約束」として、
その「約束の地」「《創世記》12:7. 13:15. 15:18. 28:13」の範囲を自国の領土として議論し、盗もうとする傾向をもっており、パレスチナの範囲は20世紀の国際政治の大争点となる。

後で読む

9.バルフォア宣言とは?

◉1917年11月2日、イギリス外相バルフォアが、第一次世界大戦に際してユダヤ人の支援を取り付けるため、戦後パレスチナにユダヤ人の国家を建設することに同意した宣言。これはユダヤ系イギリス人の銀行家でシオニスト連盟会長であるロスチャイルド卿にあてた書簡の中で表明された。

この内容は、16年にフランス、ロシア、イギリス間で結ばれた秘密条約であるサイクス=ピコ協定とは明らかに矛盾するものであったが、イギリス政府のねらいはユダヤ人世論を連合国側にひきつけ、あわせてユダヤ人のパレスチナ入植を通じて中東政策の布石を固めることであった。同宣言は 20年のサン・レモ会議でイギリスの正式政策とされ,22年に国際連盟がパレスチナ地方をイギリスの委任統治領としたとき、その前文に同宣言が含められた。

同宣言に対しアメリカはただちに、18年にはフランス、イタリアも支持を表明した。

◉第一次世界大戦中の1917年、イギリスの外相バルフォアがオスマン帝国領であったエルサレム地域にナショナル・ホームの建設を約束したもの。敵国オスマン帝国の弱体化を図り、ユダヤ人の戦争協力に感謝するねらいがあったが、イギリスはすでに1915年同地域のアラブ人にもフサイン‐マクマホン書簡で同様な約束をしていた。またフランスとは、1916年サイクス‐ピコ協定でその地域の国際管理に同意していたため問題となり、これが今日に至るまでのパレスチナ問題の原因となる。


【ロスチャイルド家】より

今日でもなお金融界に大きな力を振るっているロスチャイルド家は、またユダヤ教徒の重鎮と目されており、1917年のバルフォア宣言はロンドンの当主ライオネル・ウォルター(1868‐1937)にあてられている。

〈ユダヤ人による世界支配の陰謀〉という反ユダヤ主義者の宣伝のなかで、ロスチャイルド家はそのような悪の権化とみなされ、1936年ナチス・ドイツのオーストリア占領とともにウィーンのロスチャイルド家は没落を余儀なくされた。…

ロスチャイルド、ロンドンの当主ライオネル・ウォルターLionel Walter R.(1868‐1937)


10.パレスチナ問題とは?

ユダヤ人種が奪ってイスラエルを建国したパレスチナをめぐるアラブ勢力とイスラエルの間の紛争。

第1次大戦中、英国が、フサイン=マクマホン書簡でアラブ人に、バルフォア宣言でユダヤ人に、それぞれパレスチナにおける建国を約束するという矛盾した政策をとったため、戦後両民族の対立が激化した。

第2次大戦後パレスチナは分割され、ユダヤ人はイスラエル共和国を建国。これを機に1948年、1956年、1967年、1973年の4次の中東戦争と武力抗争が続いた。これらの戦争の過程で多くのパレスチナ・アラブ難民が周辺諸国に流入した。

第3次中東戦争の結果,ナーセルの指導力は後退し、アラブ諸国にかわってパレスチナ人自身による組織PLO(パレスチナ解放機構)が解放運動の主体となった。また第4次中東戦争以後、パレスチナ人の国家樹立を含む民族的権利の行使を認めない限り、中東に永続的な平和がもたらされないという認識が世界中に深まり、PLOの国際的地位が高まった。

こうしたなか、エジプトとイスラエルとの和平(キャンプ・デービッド合意)、レバノン戦争によるベイルート撤退で打撃を受けたPLOは、武装闘争から現実的な外交戦略に路線を変更。1967年以来イスラエル占領下におかれたガザ地区とヨルダン川西岸地区が問題の焦点となった。

ガザ地区とヨルダン川西岸地区

1988年にはPLO・イスラエル間に歴史的な相互承認が成った。さらに湾岸戦争でアラブ諸国の分裂は決定的となり、アメリカ主導の中東和平プロセスのもと、1993年PLOとイスラエルはパレスチナ暫定自治宣言に調印、ガザ、イェリコの両地区にパレスティナ暫定自治政府が樹立されることになった(オスロ合意)。

イェリコ

イェリコ
パレスチナ最古の町として知られるが、現在のイェリコは、エルサレム・アンマン道路に沿ってエルサレムの東北東約22km,死海の北方約8kmに位置する。その西方約1.6kmのところに先史時代以来の定住がみられる丘があり、これが、旧約聖書にみられるヨシュアに率いられたイスラエル人攻略したとされる町である。

しかし、イスラエルで2001年リクード党のシャロン政権が登場して以後、オスロ合意による和平交渉は行き詰まった。米国における9.11事件以後シャロン政権は一層強硬策に転じ、2002年にはパレスティナ自治区に軍事侵攻し、これに対する自爆テロも激発した。

シャロンは真面目に追いかけないと分からんな。9.11と関係あるのか?

アメリカのブッシュ政権は2003年のイラク戦争後、パレスチナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす〈ロードマップ(行程表)〉を提示したが、まもなく暴力の連鎖が再燃し、情勢はむしろ悪化した。

ブッシュは、何やったんだろうね?( ̄▽ ̄;)

2004年PLOのアラファート議長の死後、穏健派のM.アッバスが後任となり、和平交渉の気運が高まった。2005年8月、ガザ地区と西岸地区の北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了した。

しかし2006年ハマスが総選挙で勝利し、2007年にハマスと穏健派のファタハの連立政権がいったん成立したが、内部抗争が続き、さらに内戦状態となり、連立政権は崩壊した。イスラエルと米国はハマースを交渉相手と認めず、2008年12月イスラエルはガザ地区のハマスを空爆、さらに2009年1月には地上侵攻した。2009年2月のイスラエル総選挙で、ネタニヤフ率いるリクードが第1党は逃したものの躍進し、労働党などとの右派連立を実現、ネタニヤフが10年ぶりに首相に返り咲いた。

ネタニヤフは、入植事業の継続政策を加速、入植凍結を和平交渉再開の条件とするパレスチナ政府との溝はさらに拡がった。パレスチナは2011年9月、はじめて国連に加盟申請を行い、2012年11月、国連総会は、パレスチナ自治政府の参加資格を、オブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げする決議案を賛成多数で承認した。パレスチナを国家として承認する国も増えている。

リクード党本部

しかし、2013年1月のイスラエル総選挙でリクードは、同じく右派・極右のイスラエル・ペイティヌとともにリクード・ペイティヌとして統一名簿で臨み、大幅に議席は減らしたものの第1党を確保、3月右派・中道連立内閣を発足させ、ネタニヤフが3度目の首相となった。2014年7月イスラエルはガザ地区のハマス拠点に猛攻撃を加え、8月末停戦合意が成立したが、パレスチナ住民2000人が犠牲となった。2015年3月の総選挙ではリクードはシオニスト・ユニオンに追い上げられたものの第1党を確保,ネタニヤフが連立政権を引き続き率いるとされている。

【中東和平問題】より

…77年11月エジプトのサーダート大統領がイスラエルを訪問したのを機に、エジプト、イスラエル間に和平の気運が高まり,78年9月のキャンプ・デービッド合意をへて、79年3月、エジプトとイスラエルは平和条約に調印した。第4次戦争の後、国際世論はパレスチナ問題の解決なくして中東和平はありえないとの点で一致したが、この最初の平和条約はパレスティナ人の存在を素通りしたものであった。

どう言う意味だろうね?

その後、中東はイラン・イスラム革命に揺れ、イラン・イラク戦争に注意を奪われる一方で、82年6月イスラエル軍がレバノンに侵攻し、パレスチナ・ゲリラの基地を一掃する作戦を展開した。…

11.バルフォア宣言とは?

バルフォア宣言とは、第一次世界大戦中の1917年11月2日に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。この宣言をアメリカシオニスト機構に伝えるようロスチャイルド卿に依頼した。

バルフォア宣言作成者 ウォルター・ロスチャイルド、en:Leo Amery、アルフレッド・ミルナー 署名者 アーサー・バルフォア

上のwikiは面白いけど、しいのか嘘を入れているのか分からない。ここまででカット。上のバルフォア宣言の英文も本物かも確認しないと。


12.アメリカシオニスト機構

アメリカシオニスト機構(英語: Zionist Organization of America "ZOA")とは、アメリカ合衆国に存在する、中東のパレスチナにおけるシオニズムおよびシオニズム国家「イスラエル」を支援する組織である。1897年創設。現在の代表者はモートン・クレイン。

イスラエルで発行されたZOAの記念切手

アメリカの最初のユダヤ人ロビー団体で、今日、30000人ほどの構成員がいるとされる。

概要

この組織の源流は、1896年創設の「アメリカンシオニスト連盟」(FAZ)にある。

ZOAは、「パレスチナの地にユダヤ人の国を創る」という目標を掲げて1897年に結成された。姉妹機構であるユダヤ人女性団体「ハダッサー」や、後にイスラエル初代首相となるダヴィド・ベン=グリオン率いる「ポアレ・ツィオン」(「シオンの労働者」という意味)、リトアニアで創設された修正シオニズム機構である「ミズラヒ」などと連携し、アメリカにおけるシオニズム運動で大きな役割をになう。

ダヴィド・ベン=グリオン(御茶ノ水博士のモデルだよなw)

2011年現在にいたるまで、アメリカにおける有力なロビー団体として活動を続けている。2005年にイスラエルのアリエル・シャロン首相(当時)が発表したガザ地区撤退計画に強硬に反対するなど、パレスチナに対する姿勢は厳しい。

謎のアリエル・シャロン首相


シオニズムには、2つの潮流がある。

13.左派:世俗主義的シオニズムと右派:修正主義シオニズム→大イスラエル主義

シオニズムには、2つの潮流がある。1つは、政教分離を追求する世俗的なシオニズム(ヒロニーム)であり、国民国家を目指す。もう1つは、宗教法に基づいた宗教国家を追求する宗教的なシオニズム(ダティーム) です。世俗的なシオニズムには、現在のイスラエル労働党に代表される左派と、右翼連合リクードに代表される右派がある。

イスラエルのネタニヤフ政権、右翼連合のリクード党の本部

別角度
全体図
もう一丁!インドのモディ首相


14−1.大イスラエル主義

宗教的シオニズムの一つで過激な入植活動で知られる「グシュ・エムニム」(イスラエルの右派でユダヤ教正統派の活動団体)の指導者は、聖書の教えにもとづいてエルサレムはもちろん、イスラエル占領下のヨルダン川西岸の南部ヘブロンに住むことは当然の権利だと主張し、パレスチナ全域を含む「大イスラエル」を手に入れることはシオニストの夢を実現することであり、神がユダヤ人に約束した土地(エレツ・イスラエル)に入植することでメシア(救世主)の到来が早まると考える。そのため、パレスチナ人はこの土地から出ていって、隣のヨルダン、シリアなどアラブ諸国に移るべき。

グーシュ・エムニム(Gush_Emunim)は、もはや公式には存在しないが、
イスラエルの政治と社会にはその影響力の名残が残っている。

14−2.大イスラエル主義(コトバンク)

離散したユダヤ人種がユダヤ国家を建設しイスラエルの復興と存続を目ざすシオニズムのなかで、主流派の社会主義シオニズムに対し、旧約聖書に登場する古代ユダヤ=イスラエル王国の最大版図を意味する「エレツ・イスラエル」(イスラエルの土地)を最重要視する非主流派、修正シオニズムの流れ。

ヤボチンスキー(Vladimir Jabotinsky)     メナヘム・ベギン

1920年代にヤボチンスキー(1880―1940)によって組織化され、当時はヨルダン川東岸(現在のヨルダン)を含むユダヤ国家の建国を目ざした。1931年にヤボチンスキーらが設立した民族武装組織イルグンは、彼の死後、第二次世界大戦中からメナヘム・ベギン(後の首相)を指導者として反イギリス独立闘争を展開した。

イスラエル建国後のイルグンの後継政党や右派政党が1973年に結成したリクードのほか、ヨルダン川西岸への入植地建設を支持する諸勢力が大イスラエル主義の流れをくむ。1995年11月のラビン首相暗殺は、宗教的大イスラエル主義の過激派の青年による犯行だった。

2010年には同地域への入植者が30万人を超えたが、そのうち大イスラエル主義者による入植地が4割以上を占めるといわれる。現状では占領地問題についてある程度の妥協もやむをえないとする現実派からいっさいの妥協を拒否する強硬派まで幅がある。

注:今現在のイスラエルで満足しない修正シオニズムが旧約聖書、ヤハウェの教えの本来のシオニズム 。


15.リグルード党とは?

リクード党の本部

イスラエルの政党で領土拡張を主張する強硬派、保守派。70~80年代のベギン、2001年からのシャロンが政権を握り、現在はネタニヤフが指導している。

リクードは1973年にメナヘム・ベギンらによって結成された、現代のイスラエルの政党で、軍事力の強化による領土の拡大を主張しており、対アラブで最も強硬な右派政党である。

メナヘム・ベギン

1977年にベギンが政権を取り、その後もシャリル、シャロン、ネタニヤフの三人の首相を出しており、現在も労働党・ガディマ(中道派)と並ぶ政党である。リクードとは、ヘブライ語で「団結」を意味し、もとはシオニズム運動の中の「修正派」といわれる軍事力強化を優先する右派を結集して結成された。彼らは、イギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、イスラエル領土を本来の範囲に拡大して「大イスラエル」を実現させること主張している。

16.シャロン首相とは?

イスラエルの軍人出身政治家で対パレスチナ強硬派として2000年の第2次インティファーダを引きおこした。2001年から第2次リクード党首として首相となり、和平派に転身し、2005年にガザ地区からの撤退を実現した。2006年に病死した。

病死??(^_^;)

17−1.オスロ合意とは?

1993年、ノルウェーの仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意し、パレスチナ暫定自治協定が成立した。翌年にパレスチナ自治政府も発足し、中東戦争以降のパレスチナ問題が二国家共存の原則で解決に向かうと期待された。

しかし、交渉は進展せず、双方の内部に反対勢力が台頭し、90年代後半から衝突が激しくなり、事態は悪化することとなった。

ノルウェーの外相の仲介でイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との和平に関する交渉がオスロで進められ、1993年9月初めに合意に達した。この合意によって、1948年のイスラエル建国以来、4度にわたる中東戦争(第1次)となり、テロと報復の繰り返しによって多くの犠牲者をだしてきたパレスチナ問題(中東問題)は、解決の方向に動き出した。合意は同年9月13日、アメリカのクリントン大統領が立ち会い、ワシントンでイスラエルのラビン首相、パレスチナのアラファトPLO議長が握手し、パレスチナ暫定自治に関する原則宣言に調印、オスロ合意として確定した。間違えてはいけないことは、これで問題が解決したわけではなく、初めて相手を認めて交渉を開始することに合意したと言うことであり、交渉の期間として5年間の暫定自治が決まったことである。

秘密交渉開始の背景

湾岸戦争後の1991年に米ソが共同議長国となって始まったマドリードでの中東和平会議は、PLOを参加させない形であったため、パレスチナ問題では具体的な進展がないまま終わり、その後のワシントンを舞台とした交渉も進展なかった。アメリカ主導による和平仲介が暗礁に乗り上げる一方、1991年12月にソ連が解体し、国際的後ろ盾がなくなったPLOは、外交交渉での事態打開の必要に迫られた。

一方のイスラエルでもリクード党内閣(シャミル首相、シャロン国防相)の対パレスチナ強硬政策が行き詰まり、1992年の総選挙で25年ぶりに労働党が政権を奪取し、ラビンが首相となる、という変化が起きた。ラビン首相は、はかねて親交のあったノルウェーのホルスト外相に仲介を求め、首都オスロでPLOとの秘密交渉を開始することに踏み切った。

交渉は1993年春ごろからオスロ近郊で秘密裏に進められ、ノルウェー外相ホルストなどを仲介役としてイスラエルのペレス外相、PLOの事務局長アッバス(アラファトの腹心で後のその後継者となる)との間で始まり、8月20日には合意に達した。9月9日、「オスロ合意」として発表された要旨は、両者がはじめて相互に相手を承認し、イスラエルは占領地から撤退しパレスチナ人が自治政府を造ることを認めた上で、和平交渉に入ることに合資した、という画期的なものであった。

アメリカはこの交渉には一切関与していなかったが(笑)、前年11月の選挙で当選して1993年初めに就任したクリントン大統領の仲介というをとり、最終的な合意を国際的に明示することとなった。

1993年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、クリントン大統領が間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長が握手し、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」に調印した。一般に、この宣言をオスロでの秘密交渉の結果生まれたものであるので、「オスロ合意」(オスロ第1合意、オスロⅠ)といっている。

オスロ合意の内容と意義

 合意内容は次の二点であった。

  1. PLOはイスラエルを国家として認め、イスラエルはPLOをパレスチナを代表する自治政府として認める。

  2. イスラエルは占領した地域から暫時撤退し、5年間にわたりパレスチナの自治を認める。暫定自治開始3年目までに最終交渉に入り、5年後には暫定自治を終了する。

 → パレスチナ暫定自治協定
オスロ合意の意義 オスロ合意はまず、おたがいに相手の存在を認めたことに意義があった。イスラエルの公式な立場は、パレスチナ人という民族は存在しない(アラブ人の一部にすぎない)、したがってパレスチナ国家も存在しない(交渉相手は既存のアラブ国家だけだ)と言い、PLOはテロリスト組織にすぎないとしていた。

一方、PLOはパレスチナにはユダヤ人が入り込む余地はない、勝手に造られたイスラエルはパレスチナから出て行くべきである、というものであったから、同じテーブルについて交渉することはあり得ないことであった。イスラエルの建国以来、45年間、互いに相手を認めることなく、その排除を目標としていた両者が、互いに相手の存在を認めたことが、最大の変化であった。

合意への期待感 オスロ合意の成立は世界中に中東問題が解決に向かって進むであろうという期待を抱かせた。日本ではあたかも合意が解決そのものと勘違いして、中東問題はケリが付いたという空気が流れ、冷戦終結後、世界各地で新たな地域紛争が生じたこともあって、パレスチナへの関心が薄れたかの傾向があった。しかし、それが全くの誤解であったことが、2001年の9.11で中東問題が未解決の問題として世界の底流にあることが明らかになった。

9.11の犯人はユダヤだ。9.11の前は世界中で中東問題が解決に向かいそうな展開だったが、9.11で壊れたのでは?

合意の困難さ

オスロ合意にはそもそも、イスラエル・パレスチナの双方に、根強い反対があった。それぞれの最も尖鋭な反対勢力には、イスラエルでは「大イスラエル主義」を掲げるシオニストの過激派・ユダヤ教原理主義者とそれに近いリクードに代表される右派政党があり、ラビン労働党政権には敵対していた。

シオニストの過激派・ユダヤ教原理主義者に近い右派政党リクード党


18.イスラエル労働党とは

ロゴ

20世紀初頭からパレスチナへのユダヤ人入植を先導してきた政治勢力である労働シオニズム(社会主義シオニズム)の流れをくみ、建国後も長きにわたり与党として社会を主導してきた。

イツハーク・ラビン元首相が陣頭指揮を執った1992年の総選挙では驚異の44議席を獲得するものの、ラビンが1995年に暗殺されて以来、同党は衰退の一途をたどっており、1996年の総選挙では34議席に減少、1999年には政権を奪回するものの26議席に減少、2003年には議席を更に下回り19に、2006年でも横ばいの19議席となった。2009年2月に実施された総選挙では、世論調査などから議席を一桁にまで減少させると見られていたが、2008年12月27日からのガザ侵攻で支持を伸ばし、13議席を獲得して議会第四党となった。

17−2.オスロ合意とは?

パレスチナ・PLO側にはアラファトの属する主流派のファタハは世俗主義に立っていたが、イスラーム原理主義を信奉するハマスやイスラーム聖戦などのイスラーム主義勢力があり、ファタハ主導の和平路線はアラブの大義に反するとして反発していた。なによりもその頃アラファトはパレスチナを追われ、チュニスにいたので、ガザとヨルダン川西岸の現地にとどまっていたパレスチナ人の間には微妙な隙間があったという。現地のパレスチナ人は、オスロ合意はチュニスのPLO幹部が勝手に進めたことだ、という思いがあったようだ。

チュニス(綺麗な都市ですね)

積み残された問題 オスロ合意で、パレスチナの自治が曲がりなりにも始まったが、積み残された重大な問題があった。それは次の三点であった。合意成立から3年の間に交渉することになっていたが、これらは最終地位交渉といわれ、先送りされた。

  1. エルサレムの帰属:イスラエル、パレスチナいずれも首都はイェルサレムと主張している。特に東エルサレムはユダヤ教、イスラーム教、さらにキリスト教にとっても聖地であり、いずれに属することにするかが難問。

  2. パレスチナ難民の帰還権:中東戦争で発生したパレスチナ人の難民の故郷であるイスラエルの地に戻ることを認めるかどうか。イスラエルはどうしても認めたくない。

  3. ユダヤ人の入植地:ヨルダン川西岸、ガザ地区に入植しているユダヤ人をどうするか。パレスチナは入植を認めず撤退を要求。イスラエルは入植者が国内戻ってくる余地はないと考えている。

さらにこの三点が解決された後、最終的な国境画定をどうするか話し合って、はじめて平和的な共存が行われることとなる。

オスロ第二合意(オスロⅡ)

 オスロ合意に基づくパレスチナ暫定自治は、1994年5月4日に締結された「カイロ協定」で、ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで先行実施されることになった。この「ガザ・エリコ先行自治協定」にもとづいて、5月11日にパレスチナ警察の第一陣がパレスチナに入り、さらに7月1日にはアラファトPLO議長がまずガザに入り、パレスチナ帰還を実現させた。
自治拡大と三段階区分 ガザとエリコの先行自治が開始され、次はどのように自治を拡大して行くかについての交渉が行われ、1995年9月28日に「パレスチナ自治拡大協定」(オスロ第二合意、オスロⅡ)が締結された。オスロⅡでは、次のような重要な合意がなされた。

  1. 自治区を拡大(ヨルダン川西岸のジェニーン、ナーブルス、トゥールカルム、カルキーリヤ、ラーマッラー、ベツレヘムと450の町村)する。ただし、ヘブロンはムスリムとユダヤ教徒が共通の聖地としているため自治の対象から除外された。

  2. 自治政府の議会とパレスチナ統治機構議長(大統領にあたる)を選出することなった。

  3. 安全保障に関してはイスラエル軍がパレスチナ人自治区とユダヤ人入植者双方の安全を担っている、としてヨルダン川西岸を次の三地域に分類した。

    1. A地域:自治政府が治安及び民政に関して責任を負う地域。

    2. B地域:自治政府が民政に関して責任を負うが、治安に関してはイスラエル軍が管轄する。

    3. C地域:民政・治安ともイスラエル軍が責任を負う地域。

ラビン暗殺! オスロ第二合意で自治区の拡大と自治政府機構の発足が約束されたが、イスラエルが統治権をB地区・C地区という形で握り、ユダヤ人の入植は減らなかったのでパレスチナ人の不満は強まっていった。ところが、1995年11月4日にラビン首相がユダヤ教急進派に暗殺されたことは、イスラエル側にもオスロ合意に対する強い不満があることが表面化し、和平の具体化に対する危惧を強くした。

パレスチナ側では「オスロⅡ」によって自治が実質的に開始されることとなったことをうけ、1996年1月20日、議会議員と議長の選挙が実施され、自治政府代表にアラファトが選出され、議会は約七割をファタハが占めてアラファト=ファタハ主導で自治政府が動き出した。

ファタハ

交渉の遅延と自爆テロ 合意した3年の間に具体的交渉を行うという規定は守られず、イスラエルでは1996年5月の初めての首相公選でリクードのネタニヤフが当選、パレスチナ和平交渉の進展が危惧されるようになった。

右:ネタニヤフ

事実、ネタニヤフ政権はユダヤ人のパレスチナへの入植を増大させ、各区地でパレスチナ人との衝突事件がつづいた。背景にはソ連崩壊後、旧ソ連からユダヤ系の人々への移住が増えたことがあげられる。

パレスチナ側では、PLO主流派ファタハの和平路線に反対するイスラーム主義組織ハマスが1996年頃からイスラエルに対するテロを活発にしていった。しかもそれは自爆テロという手段をとるようになり、イスラエル人はさらに恐怖心を募らせていった。ハマスの狙いは、オスロ合意はユダヤ人のシオニズムと妥協することで敗北を意味することを白日にさらすためだ、という言い分で、凄惨な自爆テロを繰り返した。


こうしてオスロ合意の暫定自治期間の5年は終わり、最終的話し合い(最終地位協定といわれた)が行われないまま、イスラエルの事実上の軍事占領下でのパレスチナ人の不確かな自治、という状況が続くこととなった。

1997年1月、イスラエルはようやく懸案のヘブロンからのイスラエル軍の撤退に合意(ヘブロン合意)したものの、翌98年10月にイスラエル軍追加撤退に合意(ワイ・リバー覚書)は閣議の了承が得られず、前倒しで首相公選となり、99年5月に和平交渉再開を公約とした労働党のバラクが選出された。バラク首相はオスロ合意締結六周年を契機として和平交渉を再開すること目指した。

事実、ネタニヤフ政権はユダヤ人のパレスチナへの入植を増大させ、各区地でパレスチナ人との衝突事件がつづいた。背景にはソ連崩壊後、旧ソ連からユダヤ系の人々への移住が増えたことがあげられる。

パレスチナ側では、PLO主流派ファタハの和平路線に反対するイスラーム主義組織ハマスが1996年頃からイスラエルに対するテロを活発にしていった。しかもそれは自爆テロという手段をとるようになり、イスラエル人はさらに恐怖心を募らせていった。ハマスの狙いは、オスロ合意はユダヤ人のシオニズムと妥協することで敗北を意味することを白日にさらすためだ、という言い分で、凄惨な自爆テロを繰り返した。


こうしてオスロ合意の暫定自治期間の5年は終わり、最終的話し合い(最終地位協定といわれた)が行われないまま、イスラエルの事実上の軍事占領下でのパレスチナ人の不確かな自治、という状況が続くこととなった。

1997年1月、イスラエルはようやく懸案のヘブロンからのイスラエル軍の撤退に合意(ヘブロン合意)したものの、翌98年10月にイスラエル軍追加撤退に合意(ワイ・リバー覚書)は閣議の了承が得られず、前倒しで首相公選となり、99年5月に和平交渉再開を公約とした労働党のバラクが選出された。バラク首相はオスロ合意締結六周年を契機として和平交渉を再開すること目指した。

オスロ合意の決裂

最終的地位交渉 イスラエルとパレスチナの交渉で残された難問は、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人の入植地の三点であり、それが解決されたあとの最終的な国境画定であった。

オスロ合意(原則宣言)で定めらた5年間の暫定自治期間は終わったが、そのままなし崩し的に延長となり、ようやく「最終的地位交渉」が行われることとなった。最終的地位交渉とは、困難な問題は後回しにしよう、ということであり、互いに合意できなければ次の交渉はないことを前提に、いずれもが大きな妥協を覚悟して交渉に臨むことが必要だった。

キャンプ・デーヴィッド会談の決裂 2000年7月、再びクリントン大統領の仲介でイスラエルのバラク首相とPLOアラファト議長がワシントン郊外のキャンプ・デーヴィッド首脳会談に臨んだ。結論から言うと、この二人は妥協するという勇気を持たなかったため、決裂し、中東和平の最後のチャンスは失われた。

交渉の詳細は明らかになっていないが、決裂の原因は、エルサレム問題とパレスチナ難民帰還問題だったという。アメリカとイスラエル側の情報では、バラク首相が大幅な譲歩をしたにもかかわらず、アラファトが受け入れなかったからと言われているが、アラファト側には受け入れがたい内容であったことも想像できる。

パレスチナ難民はヨルダン川西岸とガザ地区だけでなく、中東各地に離散しており、彼らがイスラエル支配地域に帰還することは、イスラエル人の民族国家を目指すイスラエルにとっては許容しがたいところである。またパレスチナ難民の解放を掲げるPLOはその目的を外すわけにはいかないが、パレスチナ自治政府を代表することとなった現在ではパレスチナ以外に離散しているパレスチナ人をどうするのか、難しい問題である。

第二次インティファーダへ

2000年のキャンプデーヴィッド会議の決裂は、オスロ合意の破綻を意味しており、それが明確な形で表面化したのが2000年9月28日にイスラエル右派のリクードの党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教徒が管理する「神殿の丘」(ハラーム=アッ=シャリーフ)に立ち入ったことに対して、パレスチナ人による抗議運動である第2次インティファーダが起こったことである。

イスラエル右派のリクードの党首シャロンがイェルサレムのイスラーム教徒が管理する「神殿の丘」(ハラーム=アッ=シャリーフ)に立ち入った!
リクードの党首シャロンはイスラーム教徒のパレスチナ人をわざと挑発、怒らせた!
でも、イスラエルの歴史史上初めてパレスチナ 国家の独立を明言した首相なんだ!(;´Д`A
一体何がどうしてこうなった??

また湾岸戦争、イラク戦争と続いた中東情勢の底流にパレスチナでのアラブとイスラエルの対立があることは、翌2001年9月の同時多発テロとなって現れ、全く新たなステージへと問題を転換させた。


参考 オスロ合意の問題点

 以上の経緯から、オスロ合意そのものの問題点はどこにあったか、次のような指摘がある。

  1. 最終的地位交渉といった難問の解決を先送りにした。

  2. 自治区の拡大はイスラエルの恣意のままで、自治区の領域が拡大しなかったことがパレスチナ人の不満につながった。。

  3. そもそもイスラエルという国家主体(=強者)とPLOという非国家主体(=弱者)という非対称的な当事者の交渉で、弱者にしわ寄せがきた。

  4. 一番深刻な問題は、オスロ合意後もヨルダン川西岸でのユダヤ人入植地の建設は少しも止まらなかったことである。

つまり、オスロ合意が成立したにもかかわらず、最も重要な問題点は先送りされ、自治区は拡張されず、逆にイスラエル側は入植地をさらに広げていった。これは和平交渉が締結されたにもかかわらず、和平が達成された実感をともなわなかったことになり、パレスチナ人の不満を大きくした。イスラエル側がユダヤ人入植地の建設を強行し続けた結果、オスロ合意が空文化したことを指摘しておく必要がある。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.324>


19.ハマスとは?

イスラーム解放運動 「ハマース

パレスチナのイスラーム原理主義政治集団。ムスリム同胞団を母体として急成長、イスラエルとの全面対決を主張し、ヨルダン川西岸のPLO主流派ファタハと対立、2006年にパレスチナ自治区の総選挙で第1党となり、ガザ地区を実効支配した。経済封鎖状態にあるガザ地区の解放を目指し、度々イスラエルをロケット弾などで攻撃、イスラエルが匍匐するという戦争状態にある。

ハマス(ハマースとも)とは、イスラーム抵抗運動」を意味するアラビア語の略称。1987~88年にパレスチナで起こった自然発生的な民衆運動であるインティファーダが高揚する中で、ムスリム同胞団の流れをくむイスラーム原理主義者が中心となって結成された。ハマスは、それまでパレスチナ独立運動を牽引していたパレスチナ解放機構(PLO)の主流派ファタハのアラファトが、非宗教的な民主国家の建設を目ざしたのに対して、イスラーム教の『クルアーンに示された原理を実現させる、イスラーム国家としてのパレスチナの建設を目ざし、イスラエルに対する聖戦(ジハード)を掲げている。PLOが結局はイスラエルと妥協し、共存する道を選んだのに対して、パレスティナの完全な解放、つまりイスラエルの消滅を究極の目的として戦う姿勢を続けている。 

インティファーダとはコレのこと

1987年12月ごろから、パレスチナ人が自然発生的に投石などによってイスラエル占領地支配に抵抗して一斉に蜂起した(第1次)。自発的な民衆蜂起はパレスチナ自治への動きの起爆剤となった。このとき、この運動の中で、パレスチナ解放を目指すイスラーム組織ハマスが創設された。

1987年12月頃から、イスラエル占領下のパレスチナ人が展開した、投石などを主体とした民衆の抵抗によるパレスチナ解放運動。パレスチナ問題に新たな展開をもたらすこととなった。 → インティファーダ(第2次)

インティファーダとは 「一斉蜂起」を意味するアラビア語。インティファーダは1982年にPLOがイスラエルに押さえ込まれて、アラファトがチュニスに移った後に、ガザ地区のパレスチナ民衆の中から自然発生的に始まった。

チュニス

パレスチナ人は大人も子供も女性も石を投げたりタイヤを燃やしたりしてイスラエル軍に立ち向かい、最初の一年で2万人が逮捕され、3百人が死亡した。このような従来と違った民衆運動にイスラエル当局も当惑したが、その背景には「ハマス」や「ジハード」と称するイスラーム原理主義運動の活動家がいた。

(後で確認したい。⬇️)

インティファーダのきっかけ ガザ地区最大の難民キャンプ、ジャバリヤで1987年12月6日、ユダヤ人入植者がパレスチナ人の「イスラム戦線」に刺殺された。2日後、イスラエルのトラックが道路をそれてパレスチナ人労働者の車に衝突し、4人が死亡した。事故は入植者の親族による報復だとのうわさが広がり、争議の後、キャンプを包囲するイスラエル軍に「ジハード(聖戦)!」の叫びともに投石が始まった。インティファーダはPLOとイスラーム主義組織の合同指令の下でヨルダン川西岸にも拡大し、大規模な住民蜂起に発展した。

Episode 「石を投げる者の手足を折れ」

 これはパレスチナ人のインディファーダに手を焼いた時のイスラエル国防相ラビン(後の首相)の有名な発言。ラビンは対イスラエル強硬派で、パレスチナの民衆反乱を徹底的に弾圧した。その彼が後に中東和平の立役者となり、ノーベル平和賞を受賞するのだから皮肉なものである。結局彼自身が和平反対派によって暗殺されてしまう。

このラビンの発言については、「国防相ラビンは将校への演説で、実力行使は慎重にと述べ、火炎瓶への対応は銃による殺傷より棍棒による骨折の方がまだ望ましい、と語っている。「骨を折れ」という部分に焦点を当てて報道された、占領軍の残酷な弾圧を象徴する言葉として有名になった」という同情的な記事もある。

20.ハマスの創設

インティファーダと同時に、ガザでイスラーム主義組織ハマスが誕生した。12月9日、車椅子の聖職者アハマド・ヤシン師の自宅で創立会議が開かれた。ハマスはアラビア語で「イスラーム抵抗運動」の頭文字を並べたもの。ヤシン師はイスラーム復興を目指すエジプトのムスリム同胞団の強い影響を受け70年代から活動をしており、その当時はイスラエルはアラファトの勢力を抑えるためにヤシン師を利用しようとして支援していた。

車椅子の聖職者アハマド・ヤシン師

しかし、インティファーダが始まる2ヶ月前、「占領と入植への抵抗組織をつくる」と同志に告げ、イスラエルと内通するスパイの殺害や麻薬密売人、売春婦の拘束などを方針に掲げ、活動を開始、インティファーダにも幹部が関わった。89年5月、ヤシン師は武器密輸を理由に逮捕され、終身刑を言い渡されたが、殉教者として支持を受けるようになり、ハマスはPLO内のアラファトの権力基盤ファタハと勢力を争うようになった。<船津靖『前掲書』 p.63-64>

その後の中東和平の動き

その後は、1988年にイラン・イラク戦争の停戦後、イラクの動きが中東問題の焦点となり、1990年にフセイン大統領がクウェート侵攻に踏み切ったことから、翌年湾岸戦争が勃発、さらに平行して1989年の東欧革命から一気に冷戦の終結へと進み、国際情勢が大きく変化した。


1991年10月のアメリカ主導によるマドリードでの中東和平会議は、アメリカ・イスラエルがPLOを交渉相手から排除したため失敗、その後初めてイスラエルとPLOが直接交渉に入り、1993年のオスロ合意の締結へと向かっていく。第一次インティファーダはパレスチナにおける和平への動きの第一歩だった。

>第一次インティファーダはパレスチナにおける和平への動きの第一歩だった。(゚Д゚)ハァ?だけど、上にその理由が書いてあった気がするが、見つからない。

インティファーダ(第2次)

2000年9月、イスラエルのリクード党党首シャロンがエルサレムのイスラーム教神殿に立ち入ったことからパレスチナ人が反発し、一斉に反イスラエルの民衆蜂起が起こった。オスロ語彙に基づく二国共存の和平路線は暗礁に乗り上げ、21世紀の新たな対立へと向かうことになった。

2000年9月28日、イスラエルの野党リクードの党首、軍人出身で、第4次中東戦争やイスラエルのレバノン侵攻の立役者だったシャロンは護衛の警官1000人とともにエルサレムの「ハラム・アッシャリーフ(高貴なる聖域)」(ユダヤ教では「神殿の丘」と言われるところ)に登った。ここにはアルアクサ・モスクと岩のドームがあり、イスラーム教徒にとっては聖地とされていた。多くの反対の声を無視した、明らかな挑発行為だった。

第2次インティファーダの高揚

これまでもイスラエルの右翼過激派によるアルアクサ・モスク放火事件や、爆破未遂事件などが起こっており、極右勢力は、イスラームの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していたという経緯があるため、パレスチナ側は警戒心を強めていたのである。首相バラクはこのシャロンの行動を阻止しなかった。翌29日に二万人のイスラーム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石した。この民衆蜂起は「第二次インティファーダ」あるいは「アルアクサ・インティファーダ」と呼ばれる。10月1日までに死者は30人以上に上った。・・・

この運動を指導したハマス(非PLOでイスラーム原理主義を掲げる組織)が民衆の支持を得て、2006年1月には選挙で圧勝、パレスチナ自治政府の政権の座に就いた。インディファーダは、アラブ世界の反イスラエル闘争の中心勢力がPLOからハマスに移っていく契機となった。

ハマスとインディファーダのバックにイスラエルがいそうな気がするな。

21.現在の最新情報:ハマスのスポンサーはネタニヤフだった!(# ゚Д゚)

付録

このblog当時の参考になりそう

シオニズム自体は、このイスラエル国歌の歌詞そのものだね。
他の動画よりこの翻訳が正しいと思う。(3つ観た)

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おわり


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