人神思想 キャンセルカルチャー 被害者

 神が死んで、人が神になる。現代の「天才崇拝」とか「クリエイター志向」などは、ニーチェの語った線で進んでいると思う。
 人神思想はドストエフスキー、ニーチェ、シュティルナーあたりが一番強いと思うが、「悪霊」のキリーロフは、神が死んで人間が「神」になったことを証明するために、自殺する。「死の恐怖」というものを乗り越えて絶対の「自由」を自殺によって証明すれば、人が神になった証拠になる。ニーチェは超人になれ、と言って、己の「信念」を貫徹する徹底的なエゴイストになれ、と言っている。

 人間が神になる、とか言っても抽象的でよく分からないかもしれないが、僕はそうなっていると思う。古代では、自然に対する畏敬の念があったが、現在では自然は加工して人間に従属するものとされている。自然≧人間だった世界観が、人間>自然になった。「社会」についても同じことが言えると思う。古代の中国人は、時の皇帝の「徳」により生活が享受できていると考えていたらしい。古代ギリシャなども「共同体(ポリス)」のために個人が存在しているという観念が強い。昭和の仏教書を読むと、「今までの社会を作ってくれた先人に感謝しなさい」みたいなことが書かれてあるが、そんなことを現代人の口から聞いたことがない。
 「社会を自由に変更することができる」という観念はいつ頃から発生したのか分からないが、神を引きずりおろして「理性」を崇拝したフランス革命の頃には存在した。マルクス主義がその極みで、人間が考えた観念によって社会を改造できると考えたが、ことごとく失敗した。

 神、自然、社会、が人間に従属する。もっと言えば「私」に従属する。僕は進歩主義は嘘だと思っているけれど、みんなは人間は進歩してきたと思っているらしい。「リベラリズム」で歴史は終焉したといった人がいるが、観念で歴史が終わるわけがない。

 「人生は苦しい」という視点が欠落しているんじゃないかと思う。「娑婆」という言葉は小説を読む限り、明治大正あたりまでは使われていたっぽいが、現在ではムショとの対比で使われるだけだ。「娑婆」というのは「サハー」の音訳で、忍土という訳もある。「耐え忍ぶ場所」という意味だ。
 石器時代はバンバン人が死んでいただろうし、現代になるまで感染症で人はバンバン死んでいた。人生から苦しみを排除することって不可能だと思うが、学校という「子宮」の中で育てられると、「自分は絶対的な幸福な人生を送らなければならない」と思ってしまうんだと思う。キリーロフや超人のような強者の「万能感」ではなく、赤子の万能感だ。
 フロイトは「赤子は自分を王様だと思っている」と言っているが、現代人も同じことを思ってるんじゃないだろうか。「社会は俺の面倒を見るべきだ」父による去勢がされていない。

 「被害者ヅラ」をしたがる人間の心理は「なんで俺の面倒を見てくれないんだよ」だと思う。自分が少しでも不快なことがあると、喚き散らす。フェミニズムも弱者男性論も同じ穴の狢だ。カルト宗教の信者の神を誹謗すれば烈火のごとく怒るだろうが、自分が神になっている人を不快にさせればそりゃ切れる。

 今後、確実に「老い」に対する憎悪で溢れかえると思う。「エイジズム許せない」という人間が続々と出てくる。年齢で人を差別するなと主張する。社会や異性が悪いと言い出すと思う。

 ダークサイドに堕ちないためには、批判精神が必要だと思う。自らの偽善や欺瞞に対する感受性も必要だと思う

勉強したいのでお願いします