虚無主義を乗り越える

 虚無主義とかニヒリズムとかあまり聞かなくなった気がする。流行らないのかな。もう常態化しているからかもしれない。 

 一切のものは無価値だと思う。論証もいらない。僕が出会った文章の中で一番わかりやすいものを引用する。

あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、「それが何になる?」という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この「それが何になる?」は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ。私は五十七年生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示はあずかったことはない。

シオラン

 生まれてきても何にもならない。AIできても何にもならない。人を殺してもどうでもいい。恋人ができてもどうにもならない。失恋してもしょうもない。親族死んでもどうでもいい。病気になったからなんだ。死んでもどうでもいい。

 「頭」では、全部無意味だと分かる。本当に、一切のものが、まるで価値がない。まるで価値がないのになぜ苦しいのか。

 「それが何になる?」も意味がない。「それが何になる?」という疑問には「何かであってほしい」という「期待」が見られる。期待するから苦しい。絶望したらいい。
 そうすると今度は絶望に浸る輩が出てくるが、絶望も無意味である。価値も希望も絶望も無意味だ。

 只管という言葉がある。「ただ」という意味らしい。「只管打坐」という有名な言葉があるが、「ただ」坐るという意味だ。僕は只管打坐を約1年しているが、徐々に日常が「ただ」になってきた。「ただ」何かをしている状態。理屈もクソもない。ただ生きている。理想も思想もない。ただ、さらさらと生活している。
 「価値/無価値」を頭で論ずる以前に、「只管生活」という状態がある。

 「自殺」というのは「自殺」に「価値」を見出している時点で、虚無主義を裏切っている。「一切に価値がない」と気づき、その直観に基づいて生きるならば、坐禅をするより他ないように思う。さらさらと生活するのは、楽だ。後悔も不安も欲望もない。虚無主義を解決した上に、身体改造によって幸福になれる仏法って凄くないか。

 悩んでいる虚無主義者にこの文章が届いたらいいな

勉強したいのでお願いします