天才じゃない!

 友人と会話をしていて、自分の本音に気づくことが多い。

 10代、20代前半の頃、Twitterではワナビーや批評家くずれが大勢いた。作家志望が圧倒的に多く、批評家や詩人になりたい者もいた。最近その答え合わせというか、あの頃絡んでいた人たちのアカウントを見ると
「詩集を出したけどそれ以降絶望してる人」
「何もしないまま25歳無職になった人」
「32歳なのに未だに文学ヅラしている人」
など、結構悲惨な人が多かった。ただ、某ゲームを出して成功した人や、院に行って頑張っている人もいた。

 僕って「何者かになりたい」という欲望が物凄く強かった。だから周りの、キラキラしているワナビーが死ぬほど羨ましかった。当時は「文学みたいなツラをしているうつ病の男」という揶揄ワードがあったが、僕もそれになりたかった。が、僕には才能がなかった。小説の才能も、詩の才能も、哲学の才能もなかった。だからワナビーがうらやましくて、軽蔑していた。キラキラしていて、モテていて、陶酔していて、羨ましかった。
 自分に何の才能もないことを芯から確信していたので、何も創らなかった。ひたすら本を読んだ。何かが開けるんじゃないかと思って、本を読んだ。

 なんの才能もないから、コツコツ努力するしかないと思った。マインドフルネスというものが流行っていて、真剣に取り組むと、うつ病が治った。
 仏教を勉強して、師匠について坐禅をした。顔もよくない、才能がない、障碍者、無職、だから、坐るぐらいしかできなかった。でも正しいと思った。自分の根本問題である「死の解決」には坐禅しかないと思った。

 境涯と言っていいのか分からないけれど、最近はもう坐ると思考が出なくなった。安らぎがある。毎日5時間以上坐っていたので、身体が生理的に変化しているのだと思う。正しいと思ったことを、頑張って良かった。

 幸せだなと思う。探し回って、見つけて、愚直に続けて良かった。友人に「なぜみんな仏法をしないんだろう」と聞くと「あなたみたいに一回哲学とかに回り道しないと分からないんじゃない」と言われた。そうかもしれない。

 幸せだな。僕は、自分の才能を見限ったのが良かったと思う。ネットで少し有名な人に「やりたいことを見つけた、仏教をしたい」と言うと「それって現実逃避じゃないの?」と言われた。坐禅なんてとバカにされることもあったが、続けて良かった。その人は僕と同い年だが、フリーターをしながらぐだぐだバンドをしている。成功はしないだろう。

 あの頃キラキラしていた人たちに「ざまあみろ」という気持ちはあるが、未だに同人誌などにしがみついている人は「もういいんじゃない」とも言いたくなる。
 M1は島田紳助が「結成15年までの新人」というルールを作ったが、15年までに芽が出ないならもうやめたほうがいいという優しさらしい。まあ彼らも40歳ぐらいで救われるかもしれない。

 人間万事塞翁が馬だ。死ぬまで誰がどうなるか分からない。でも僕は今とっても幸せだ。最近「努力」という言葉は嫌われているけれど、僕は努力は大事だと思う。一回noteで相互になったけど、ずっと美少女ゲームをしたりブイチューバーを見ている引きこもりの人をブロックした。僕は障碍者だから、学校も労働も頑張れなかったが、自分が頑張れることを見つけられて良かった。
 
 世間的に見ると僕は相当惨めなんだろうが、僕は自分が誇らしい。「幸せだな、良かったな」と言いたいだけの記事だった

 

勉強したいのでお願いします