アイデンティティ・ポリティクスとは何か? 思想と哲学 ニーチェと近代哲学

 「思想」というものに対する嫌悪感がある。「正しい言説なんかあるわけないじゃないか」という直観がある。「俺は正しい、お前らが間違い」という思想を持っている人の傲慢さが気持ち悪かった。でも僕は哲学が好きだ。なぜだろうと思っていたが、やっと言語化できそうだ。

 哲学とは「真理」を探究する営みだ。「真理とは何か?」という疑問も湧いてくるが、真理とは何か?も含めて真理を探究する営みだ。ソクラテスの定義だとフィロソフィア、つまり「知を愛すること」だ。「本当のことを知りたい」という人間の根源的な欲求、宗教的な欲求といってもいいと思う。「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」というアリストテレスの言葉も有名だ。なぜ生きているのか、社会とは何なのか、倫理とは何なのか、これは一体何なのか?宗教の権威が瓦解した時に、哲学的欲求が現れる。
 哲学とは「真理への意志」である。

 一方、現代で「思想」と呼ばれているものは「力への意志」だ。権力への意志といっても良い。
 ニーチェは「真理への意志なんか嘘っぱちで、人間には力への意志しか存在しない」と言い切っている。これは微妙な言い方だ。「真理への意志は存在しない」と語るニーチェは「真理」を語っている。「真理への意志は存在しないという真理」を語っている。その意味で、ニーチェという男は誠実だったと思う。

 哲学というのは「真理への意志」で、思想というのは「力への意志」だ。よって「思想」というのはニーチェの創り出した言説空間に存在する。
 僕が参加できるアイデンティティ・ポリティクスというのは「弱者男性」「障害者」などだと思うけれど、それは「真理への意志」ではなく「力への意志」によって行われる。よって、そこで発される言説は自らの権力を向上させるための「戦略」や「手段」となる。世界の解釈の方法は無数にあるので、恣意的なデータを切り取って、思想の根拠とする。「特殊なものを普遍化する」というソフィストの手段を用いる。
 初めに燻っている「お気持ち」がある。権力が欲しい、復讐したい、満たされない、寂しい、社会を変えたい、など。これらのお気持ちを「力への意志」と呼ぶとすると、この意志に「アイデンティティ」が奉仕する。アメリカではもっと顕著なのだろうけれど、基本的に何のアイデンティティもない人は存在しないと思う。白人、黄色人種、男、女、高収入、低賃金、障碍者、LGBT、エリート、大衆。
 なぜ「アイデンティティ」が重要なのかというと「個人」は「力」がないからだ。政治や権力というのは「数」が「力」であるから、同じような人間で徒党と組んで「権力」を拡大しなければならない。

 僕はこれはあまりよくない風潮だと思う。喧嘩になるから。「力への意志」が無条件に礼賛されると必然的にこうなるんだと思うが、「お気持ち」をセーブするためには「哲学」や「瞑想」が必要になってくるんじゃないだろうか。

勉強したいのでお願いします