仏教と恋愛は両立するのか 無常と永遠

 最近、中国の歴史の勉強をしているのだが、国のトップが女に狂って国がおかしくなることが本当に多い。中国の君子は一夫多妻で、女性は自分の子供をトップにしたいから、あらゆる手段を講じる。正統な跡継ぎの王子から父王へのプレゼントに毒を混ぜて「こいつは父親を暗殺しようとした」と言いふらして王子を殺させるなど、結構ヤバい。
 女性にふしだらなリーダーだと最悪国が亡びる。男女関係って恐ろしい。

 こんなに恐ろしいものなのに、無条件に礼賛されているし、マニュアルもない。だから不幸な恋愛が量産されている。惚れた腫れただけで恋愛するのは「危険」だと思う。失恋で自殺する人も当然いる。ホストに捨てられて「〇〇くんと一緒になりたかった、◇◇(猫)ごめんね」という音声をTwitterに載せて飛び降りた女性がいるが、本当に胸が痛んだ。男女関係は、国が亡んだり飛び降り自殺する人が出たりする。

 恋愛をすると、バカになる。恋愛をするとバカになるというのは、恋愛を経験したことのある人なら全員納得すると思うが、どうバカになるのか。相手の欠点が見えなくなるなど様々にあると思うが、僕は恋愛というのは「無常」が一切分からなくなるという点が一番危険だと思う。ロマンティックな恋愛というのは、必ず「永遠」を含んでいる。「ずっと一緒にいようね」「一生一緒だよ」
 人間は基本的に「常」という錯覚を持っているが、恋愛において「常」の錯覚は最大化される。恋愛というのは、人間の生殖のために存在しているので当然だ。「どうせ自分も相手も死ぬから」「どうせ飽きるから」とプログラミングされている生物は、子孫を残せない。
 
 だから悲劇も最大化される。「常」だと信じ切っている関係性が破綻すると、結構耐えられない。失恋でうつ病になったり自殺したりする人もいるが、当然だと思う。
 正直「自由恋愛」って、相手から何かを奪おうとするものだと思う。自分の自尊心のために結婚したり、性欲を満たすために付き合ったり。お互いがお互いを食っている吸血鬼同士の恋愛みたいだなと思う。離婚率が急増しているし、今後も増えると思うが、吸血するのに飽きるか、化けの皮が剥がれるのだと思う。執着している相手と結婚しても、幸せにはなれない。

 やっと仏教の話をするが、仏教は「執着するな」という。「執着する」ということは対象のことを「常」だと思っている。無常で不確実なものに「執着」はしづらい。日本仏教では出家も在家も妻帯OKなのだけれど、僕は仏教的な関係を築くべきだと思う。
 執着しない、ということは興味がないことではない。尊重しないことでも無視することでもない。仏教は人に対しては慈悲喜捨の心で接しろという。

慈…慈しみ恵みを与える
悲…寄り添い苦しみを取り去る
喜…他者にも自分にも素直に喜ぶ
捨…我欲を捨てた思いやりの心

 これは理想のパートナー関係だと思う。

のび太の結婚前夜

 常なる感情も、常なる関係も存在しないが、養った人格は容易には変わらない。二人でどの方向を向くかが大事だ。本当にそう思う。お互いが向き合って、見つめあっているような状態はよくない。理想の人格を北極星として、一緒に歩いて行けるようなパートナーがいいと思う。全く綺麗ごとではない。執着がんじがらめの恋愛は絶対に不幸になる。そっちの方が悲惨だし、長続きしない。

 ティク・ナット・ハン師の本に「ハグの瞑想」というのがある。お互いにハグして、200年後のことを考える。200年後にはお互いに塵になっている。今ここに、こうして二人で存在しているのは奇跡みたいなことだ。「無常」だからこそ奇跡を実感できる。相手が「常」だと考えていれば、自分と相手が存在しているという「有難さ(本来あり得ないこと)」が実感できない。

 恋愛をするとバカになる。入口は「惚れたから」でいいと思うけれど、思慮深く歩いていく必要があると思う

 

 

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