祈りについて 慈悲の瞑想 合掌

 「祈り」という言葉が若者の間で使われている気がする。サブカル文学界隈に多そうだが、日本人のスピリチュアリティの悪あがきという感じがする。現世利益でも先祖供養でも真剣に祈る人はいなくなって、「エモ」のちょっとしたファッションになってしまった。

 「祈りの脳科学」という薄い本に、祈ると良い感じの物質が出ると書いてあった。オキシトシンとかセロトニンとか、多分その辺だった気がする。修道院の禁欲主義は、祈りによって支えられていたのだと思う。絶対者を想いながら祈るのは、仏教で言えばサマタ瞑想だ。サマタ瞑想というのは続けていると、セックスよりも強い快感を得ることができるらしいので、神秘主義者はその状態にいたのだと思う。神秘主義者のプロティノスなどの著作を読むと、仏教で言われる「禅定体験」をしたんじゃないかと思う。「一者と合一すること7回」とか書いてあった気がするが、禅定は何回も出たり入ったりすることができる。

 一方で、鈴木大拙が評価していたマイスター・エックハルトの著作を読むと、一言で神秘主義と片付けるのは惜しい気がする。「神」を「法」とか「自然」とか「仏」に変えれば、仏教の本として通用するような感じがした。「我意を無くせば、神が自分の代わりに欲望してくれる」とか、凄いパンチラインもあった。我意=自我がなくなった状態だったのだと思う。

 浄土真宗は現世での「悟り」は明確に否定するが、親鸞の晩年の手紙に「弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり」と書かれているのは一つのスキャンダルだと思う。自然法爾章の味わい方はいろいろあると思うが、僕は「念仏というのは無為自然の境地を伝えるための方便だ」と書いてあるように思えた。
 山崎弁栄という浄土宗のお坊さんが「光明主義」というのを提唱していた。「阿弥陀仏の慈悲と信仰心と念仏で悟りを開こう」と言っていて、弟子の本なども読んでみたのだが、悟っている人がたくさんいたみたいだ。カチコチの唯物論者で「物理学」と呼ばれていた男の人が、結核にかかり、信仰心を強めて、最後には「全ては自分だ」と悟って死んでいったというエピソードが印象に残っている。

 「信仰心」があったほうが悟りは開きやすいと思う。疑心がなく、オープンな心になるから、自我が頑なじゃなくなると思う。そういう意味で慈悲の瞑想はいい方法だと思うのだが、否定派の人も結構いるみたいだ。
 「宗教臭い」「偽善っぽい」「慈悲は願うものではなくて行うものだ」みたいな意見を見る。慈悲の瞑想というのは「生きとし生けるものが幸せでありますように」とひたすら唱えるのだが、僕は唱えていると胸が暖かくなり、リラックスできる。前述の通り祈りは脳にも良いらしいし、「気づき」も養えるので一挙両得だと思う。
 僕の個人的な実感だと、慈悲の瞑想をすると、「わだかまり」とか「気恥ずかしさ」みたいなのが減った気がする。父親に話しかけるハードルが低くなったし、近所の人にも普通に挨拶できるようになった。ASDが酷く、本屋の店員にも話しかけられない程だったので、結構効果があったように思う。

 「自分が快楽を得たかったり、悟りを開きたかったり、人間関係をよくしたいから他人の幸せを願う」というのは確かに矛盾していると思うが、YouTubeを見たりネットフリックスを見るよりは、有意義な時間になると思う。自分もポジティブな気持ちになるし、対人恐怖も和らいで周りの人間も楽になる。セルフコンパッションでも推奨されている。
 
 僕は好きだが、合わない人は合わないと思う。フルバージョンでは「私が幸せになりますように」という部分があるのだが、自己肯定感の低い人はこの部分に強烈な違和感があるらしい。そういう人は友人やペットなどに慈悲を向ければいいが、そこまで自己肯定感の低い人は慈悲の瞑想を続けたほうがいい気がする。「暖かさ」で「自分へかけている呪い」のようなものが溶けると思う。本当に合わない人はやめた方がいいと思うけど…。

 noteを書いている禅僧の方が、慈悲の瞑想を全否定していたが、別に否定することはないと思う。使えるものはなんでも使った方が良い。僕はマントラ瞑想でも数息観でも無常随念でも、なんでもしている。同じことをしていると飽きるし、教条主義的に否定するのは「頑固だな」と思ってしまう。

 沢木興道が「合掌というのは東洋の発明だ、合掌をしていると人を殴れない」と言っていたのを思い出した。合掌をするだけで穏やかになる。心がスーっとする。ポーズだけの合掌、空念仏の祈り、を形式的に続けていけば虚しさも少しなくなるんじゃないかなあ

つまり、まるで信じているかのようにふるまうのだ。聖水を授かったり、ミサを唱えてもらったりするのだ。そうすれば、あたかも信じられるようになり、馬鹿になれるだろう

パンセ

 

 

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