遺伝子VS個人 宗教の実存的意味 多産バグ

 人体は「個人が幸福になる」ように設計されてはおらず、「個人が多産である」ように設計されている。その多産への傾向が個人の幸福に寄与することはあるかもしれないが、相いれないことも多い。

①人体を動かすには、その行為が快楽を伴わなければならない
②その快楽は、瞬時に消失しなければならない(満足している個体はモチベーションがなくなる)
③②は個体に悟られないようにしなければならない(知られてしまうと快楽へのモチベーションが下がってしまう)

 セックスや食事で考えると分かりやすいと思う。セックスをしても持続的な幸福は得られないのに(むしろ不幸になる可能性もある)、人間はセックスに莫大な投資をするし、最近では肥満が社会問題になっている。
①~③を、仏教は端的に美しく表現している。

186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

ダンマパダ

 人間が不幸に喘いでいるのは、人体が「幸福用」ではなく「多産用」に造られているからだ。もしも「幸福用」に造られているならば、勝手にどんどん幸福になればいい。「いい気分になりたい」と念じれば、いい気分になれる身体だったらどれ程良かっただろうか?
 
 仏教というのは、多産用の身体を、幸福用の身体に造り変える営みと言えるかもしれない。「欲望」は幸福に寄与しないのでシャットアウトする。そして、瞑想や慈悲の行いによって、脳から自在に幸福物質を出させるようにする。僕は入ったことがないが、禅定という状態は、セックスの何倍も気持ちが良いらしい。

 修行ではなく「信仰」も、多産から個人への志向がある。信仰というのは個人が不滅であるという信念だ。個人が「絶対者」から「無限の愛と命」を与えられている。「個人」にとってこれ程都合の良い話はない。逆に、遺伝子にとっては都合が悪い。宗教というのは大抵「禁欲」や「節制」を求めるからだ。禁欲や節制というと、個人を犠牲にする「苦行」の匂いがするが、実際には節制的な生活をした方が幸福になる。欲望の達成で幸福は得られないから。
 僕は信仰をしていた時期があるが、無限の愛と無限の命という信念は、安心と喜悦があった。「いつでも死んでもいい」と思える程だった。いつ死んでも極楽なのだから、安心して生きられるし、安心して死ねる。これも遺伝子にとっては都合がよくない。

 宗教というのは「多産」という人体のバグを、「幸福」に変える古代人の智慧なんだと思う。古代人は原罪とか煩悩と呼んでいたが、現代人には「多産用バグ」と呼んだ方が通りが良さそうだ。

 

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