パルメニデスとヘラクレイトス ニーチェ 永遠と無常の調和

 ニーチェの「永劫回帰」の思想は、解釈の幅が相当に広い。永劫回帰自体は「今まで起きたことも、これから起きることも、全てが永遠に繰り返されてきたことであるし、これからも永遠に繰り返される。」というものだ。過去に同じことが無限回繰り返されているならば、そして未来に同じことが無限回繰り返されるならば、一切は虚しい。何をしても意味がない。過去のパロディを延々とやっているだけだ。

永劫回帰とは、この世界は、全てのもの(大いなるものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方である

 様々な解釈を見た。
 「この究極のニヒリズム」を受け入れるかどうかが超人かどうかの試金石である。永劫回帰を受け入れれば人生を肯定できる。
 「ニーチェの一種の宗教思想であって、ニーチェの体系にはそぐわない」
 「過去を背負って未来へ自己を投げかけるという瞬間の決意」

 どれもしっくりこない。永劫回帰なんて実証できないのだから、妄想だろと思ってしまう。が、古典ギリシャオタクのニーチェを考えると、案外理解できる気がした。

 パルメニデスは一切の運動を否定した。「あるものはある、ないものはない」ので運動の余地はない。

「ある」は時間を超えて不生不滅、不動であって、「一挙にすべて、一つのもの、つながり合うもの」で「分かつことができない」「すべてが一様」で、「ここにより多くあったり、「全体があるもので満ち」ている。
一方、「あらぬ」については、「無があることは不可能(断片6)」「あらぬものを知ることもできなければ “語ることもできないから(断片2)」などとされ、存在もせず、認識され得ず、探求不可能とされる。

 一方、ヘラクレイトスは万物は流転すると説く。ニーチェは世界は生成すると説くヘラクレイトスに共感している。

 ニーチェの敵は二世界論を説くキリスト教とプラトン主義だ。ニーチェは「神の国」や「イデア界」を一切否定して、「この生成する世界」が唯一存在すると言う。
 プラトンは、パルメニデス的な「永遠に静止した世界」を「イデア界」と呼び、ヘラクレイトス的な生成流転の世界をイデア界の模倣の「仮象」だとする。パルメニデスとヘラクレイトスの見解を止揚しようとすれば、プラトンの説が穏当なものになる。「本当の世界」であるイデア界と「偽物の世界」である現実世界の二つの世界が存在する。
 
 「永劫回帰」というのは、もう一つの解法なんじゃないだろうか?プラトンのように「二つの世界に分ける」ということはできない。だから、回帰という方法で永遠を「生成」に取り込む。
 38億年前に地球が誕生し、生命が生まれ、歴史が発生し、二つの世界大戦が起き、今現在僕はブログを書いている。この全てのプロセスが「永遠に繰り返される」としたら、「生成」が「反復」という意味で「永遠」になる。永遠と生成の止揚が永劫回帰という思想の気がしてならない。

 「永遠」と「生成」をどう調和させるか。個人的な直観では、「今」というのが永遠であり、「今」という形式の中に流転している世界がある気がする。ビッグバンも「今」、僕が生まれたのも「今」、今も今。僕が死ぬときも「今」であるし、地球が太陽に飲み込まれる時も「今」だ。過去は過ぎ去っているので存在しないし、未来はまだ来てないので存在しない。現在という時間の形式は永遠に不動であり、内容だけが変化している。

いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

正法眼蔵

 道元禅師は今=存在だと言っている。修行をしているが、分かるようで分からない。
 時間と永遠が調和することを救いというのだと思う。生成と永遠が調和していることを「今」という

勉強したいのでお願いします