表現の倫理

 「内的な欲求に基づいた純粋な表現」のみが許されると思っていた。だから「作品」を「発表」するのは「不純」だ。「作りたいものを作った」だけなら発表する必要はない。チラシの裏に書いて捨てればいい。

 アウトサイダーアートというものについての本を一時期読んでいた。障害者の人のアートなのだが、漢字をノートにびっしり書いたり、石を並べたりする。発表する気はないので作りっぱなしなのだが、職員がそれを展示したりする。「動機」は優れたものだと思ったが、作品自体は強迫的、反復的なものが多くてあまり惹かれなかった。

 原口統三という詩人は、表現の欺瞞という一点から自殺をした。なぜ自殺をしたかというと、表現というのはつまり「生きること」だからだと思う。僕は言葉を使っての表現が好きだが、言葉というのは元々「他者=社会」の所有物であるし、言葉の主な機能は「伝達」にある。「表現は悪だ」という論理を突き詰めていくと、話すこと、つまり生きることの否定になる。「言葉」において「表現」でないものはない。精神を表に現すのが表現だから。

 「自己の精神を表現する」という芸術観は近代特有のモノっぽいが、この時代に生きている以上、それ以外は不可能そうだ。現代アートはそれを超えるものらしいが、現代アートは創作ではなく思考に見える。
 「血で書かれた言葉」を書物の中に漁ったが、本当の書物は歎異抄ぐらいだった。神仏の前で吐かれる言葉というのは「自己完結」していると思う。神仏という究極の「他者」のまなざしがあるからだ。神仏の批評といってもいい。「言葉」は他者に提出することが「本質」であるから、神仏という絶対的な他者に向けた言葉は「純粋」になる。
 ただ神仏など存在しないので、これは「無」に向けた言葉だと言っていい。バスの中で独り言を言っている電波系の人をたまに見るが、本質は変わらない。無に向かって言葉を発するのは狂人しかいない。

 正気でいるためには、言葉を否定すること、つまり自殺する必要がある。純粋な表現というのは、狂気か自殺以外にあり得ない。

 ここまで考えて、僕は瞑想することにした。「自我」というのは「言葉」で出来ていて、その言葉の効力を殺すのが瞑想である。自分の中の言葉を全て殺さなければならない。

 近代芸術というのは自殺か自閉に行きつかざるを得ない。「自意識」というものがそういった性質をしている。坐禅によって自意識が脱落すれば「開き直る」ことができるかもしれない


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