宗教のコペルニクス的転回

 「世界はなぜ「ある」のか?:「究極のなぜ?」を追う哲学の旅」という本がある。著者はジャーナリストで、高校生の頃にハイデガーの「形而上学入門」を読んで、そこに書かれている「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問いを読んで仰天し、ジャーナリズムの仕事についてから、神学者や物理学者にその問いを問うてきたという。ハイデガー自身については「詩的な神秘主義に陥ってくだらなかった」と書いてあった。昔に読んだ本なのであまり覚えていないが、決定的な答えは出ていなかった。帯に中島義道氏の推薦の言葉が書いてあった。

 もう一つ本の紹介をすると、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」という本がある。僕はドーキンスのファンなのでこの本も好きなのだが、容赦なく宗教の害を暴き立てている。
 けれどこの本で印象的だったのは、神学者がこういう論法を使うということだった。

 わが友人たるケンブリッジの神学者たちは、繰り返し何度も、「何かがないことにではなく、何かが存在することに対し、その理由づけがなければならないのだ」という論点に立ち戻った。あらゆる事柄に第一原因がなければならず、それに神という名を与えてもいいのではないかというのだ。その通り、しかし、その「第一要因」というのは単純なもので、したがって、それを他のどういう名で呼ぼうとも、神と呼ぶのは適切ではない。

神は妄想である
リチャード・ドーキンス

 ドーキンスはこの後この「第一原因」を物理学が解明することを示唆しているのだが、物理学では解明できない。こういうとこが科学主義者の決定的な鈍感さであると思う。ドーキンスぐらい賢い人って現代に珍しいと思うが、それでも科学的思考に染まってしまう。西研という哲学者の「哲学のモノサシ」という本のレビューにこのようなものがあった。(僕は本は未読)

物理学者を志したものの,物理学は,宇宙が「なぜ」存在するか答えてくれないので愕然とした,というようなくだりを拝見.笑止.哲学(者)ならば,その「なぜ」に答えてくれるのだろうか?それで,これまで哲学者はいったいどのような「なぜ」を解明することに成功したのというだろうか?しろうとの思い込みで物理学の外延を勝手に確定させたところに誤りがある.物理学では,新たな理論が打ち立てられたときに,その理論によって従前の理論への意味付けがなされるのです.その繰り返しなのです.物理学はまだ途上中なのです.いずれ宇宙の存在理由等に答えてくれる可能性のある学問は,物理学をおいて他にないでしょう.机上で「無知の知」を決め込んでも何ひとつ解明できないでしょう.

 物理学が究極の理論、究極の方程式を打ち出したところで「なぜ?」と根拠を問うことができる。その理性の「危うさ」を批判したのがカントの「純粋理性批判」である。

 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」というのは一番ラディカルな合理主義者であろうライプニッツが始めに提出した。そんな問いは人類史で一度も問われたことがなかった。ライプニッツは調和主義者であったので、「最善説」という綺麗な理論を立てたが、やはり神は採用されてはならない。

 様々な「問い」がある。ソクラテス以前では「何が世界の原理なのか」ソクラテス=プラトンでは「人はどう生きるべきか」デカルトならば「絶対に確実なものは何か」カントならば「理性は何を知り得るか」ニーチェは「真理とは何か」
 仏教ではこのような「形而上学的問い」には沈黙をもって答える。「沈黙」は仏教のキーワードでもあるが、これから考えていかなければならない概念だと思う。

 「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問いは、人類史の中で最大の問いである。この問いの何が「良い」のかというと、人を「哲学者」に生成させるからだ。哲学者というのはタウマゼインを持つもののことだ。

なぜなら、実にその驚異(タウマゼイン)の情こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、哲学の始まりはこれよりほかにはないのだ。

テアイトス
プラトン

 哲学は死の修練であるというのはソクラテスの言葉だが、僕も本当の哲学者というのは死を恐れないものだと思う。だって何も「分からない」から。生も死も分からないんだから、恐れようがない。

 僕は「問い」がまずかったのだと思う。「生きる意味は何か?」という問いを持っていたのだが、これは「遺伝子の乗り物である」という「答え」が用意されている。ただ「なぜ無ではなく何かがあるのか」という問いには原理的に答えが欠けている。

 ヴィクトール・フランクルは「自分が人生の意味を問うているのではなく、自分は人生に意味を問われている」という詭弁を吐いている。これじゃニヒリズムは解消できない。

 今までの宗教は「答え」と提供してきたが「問い」を提供する宗教というのは新しい。別に宗教という形態でなくてもいいが「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのでないのか?」という問いに震撼することによって、ニヒリズムが変容する。「存在」という「自明性」が崩壊して「有ること難し」になる。

 人生に倦怠や退屈や虚無感を与えるのは「自明性」であると思う。子供の頃はなんでも楽しかったが、大人になると惰性で生きるようになる。この問いはそういった自明性を打ち砕くことができる。新鮮で潤いのある生になる。しかも「答え」ではないので、知性的な現代人にも開かれている。
 ただ、ニーチェが「永劫回帰」の思想を何度も「軽く受け取るな」と書いているのと同じ意味で、この問いもただ「問う」だけではなんの意味もない。「腹の底から」問う必要がある。

 これが「ニヒリズム」への最終回答になっているかは分からないが、「答えから問いへ」という方向性は可能性としては有用であると感じる。「答え」を出すことは絶望的に不可能なのだから、まだ可能性の方を信じたい。後期ハイデガーを精読できていないのできっちり履修して、まだ深められそうならば深めたい。マイスター・エックハルトなどのキリスト教神秘主義やスーフィズムなども、深めるのに使えそうだ。インドの神秘主義はスピりすぎなので、哲学的な文章には不向きだと感じた。

 「問い」の宗教には公案禅がある。答えではなく、問いが重要だ…。

全体を疑いの塊にして、この無の一字に参ぜよ。昼も夜も間断なくこの問題を引っ提げなければならない。しかし、この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう。

無門関
無門慧開


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