楽屋に帰る

 「中の人」というネットミームがある。Vtuverが盛り上がっているが、使われだしたのはアニメキャラクターにおける声優だったように思う。以前は「キャラクター」と「中の人」は屹然と区別されていたが、Vtuber文化ではそのあたりの曖昧さを楽しんでいる感じもある。

 僕たちは何かしらの役割・キャラクターを背負いながら生きている。子や親といった家族的な役割や、友人、上司といった社会的な役割、陰キャや陽キャという役割、金持ちや貧乏という役割、男と女という役割、イケメンや不細工という役割、面白キャラ、いじられキャラ…。全部「ガワ」だ。「中の人」は別にいる。
 僕はバラエティ番組を時々見るが、たまに「あのちゃんの中の人ってキツくないんだろうか」とか考えることがある。
 
 役者を演じきっている(信じ切っている)状態を、ハイデガーは「頽落」と名付けた。倫理的に悪いことではない。親の役割を果たすのは当然のことであるし、労働をして社会貢献をするのもむしろ善行為だ。ただハイデガーはそれを「非本来性」と呼ぶ。だってVtuverの「ガワ」だからだ。本来性というのは「中の人」のことだ。

 この「中の人」のことを、臨済禅師は「無位の真人」と言った。

師は上堂して言った
「身体には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している。未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!」
その時一人の僧が進み出て質問した
「その無位の真人とはいったい何者ですか?」
師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ
「さあ言え!言え!」と迫った。
その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。
師は僧を突き放して、
「お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。」と云って方丈に帰った。

臨済録

 「人格」は英語で「パーソナリティ」というが、ラテン語の「ペルソナ」が語源になっている。これは仮面という意味らしい。「立派な人格」というのは「立派な仮面」ということだ。

何だって?あれが偉人だって?自分の理想を演じている俳優にしか見えないが。

善悪の彼岸
ニーチェ

 偉人だけではなく、誰しもが仮面を被って生きている。役者として生きている。だからハイデガーは人間の根本様態は「不安」だという。「本来性」を生きていないからだ。何か「足りない」気がする。Vtuverの人はよくうつ病になっている。ずっと「ガワ」でいるのはしんどい。

 弱者論系の文脈で「人生を降りたら良い」という文章を見ることがあるが、人生を降りることはできない。社会から降りることも難しい。ただ「楽屋」で「一服」することはできる。それを坐禅と呼ぶ。舞台から降りて、生身の自分になる。禅では「本来の面目(顔)」ということがやかましく言われるが、人格=仮面を取った素顔ということだろう。沢木老師がよく「坐禅から世界を眺める」と言っていたが、これは「楽屋から舞台を眺める」と考えたら得心がいった。

 楽屋に帰るとは、何もしないことだ。只管打坐、ただ坐ること。一日十五分、舞台から降りて、楽屋で一服する。この楽屋を「仏性」という。
 容姿にコンプレックスがあるとか、お金がないとか、モテないとか、障害があるとか、他人が憎いとか、いろいろ悩みはある。でも悩んでいるのは「ガワの人」だ。中の人は悩んでいない。
 道元禅師の坐禅の心得に「万事を休息して」と書いてある。別に坐禅を組まなくても、大の字に転んでもいいと思う。「一回"この人"から楽屋に帰ろう」と決意して、寝転ぶ。本当に生きているのは"その人"を生きている人ではなく、楽屋で休んでいる「中の人」なのだと思う。

この世は舞台、人はみな役者。

ウィリアム・シェイクスピア

 

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