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死ぬまで一生愛されてると思ってたよ




大学生の時に付き合っていた人が、今までで一番好きだと各所で言っている。
それがどうしてなのか?ということを深掘りした時に、自分の「愛着」について考えがまとまったので、記事にすることした。





彼は私より1つ年上の先輩で、大学、学部、学科、サークル、バイト先が一緒で、ちなみに実家もわりと近かった。
そのため、私と彼は週6ぐらいで行動を共にしていた。

付き合った期間は、1年と少し。
私が1年の秋から2年の年末まで。
その内の4ヶ月ぐらいは、私はそれまでの人生で一番幸せで、残り半分は幼児期を除いてそれまでの人生で一番泣いた。




「愛着障害」という言葉がある。
幼少期に、何があっても親は自分を受け止めてくれるという安心感を得られずに、不安感を持ったまま大人になり、情緒が安定しなかったり対人関係に支障をきたすことを指す。

当時は理解できていなかったが、私はこの愛着障害を抱えて生きていた。

別の記事で何度か言及しているが、私の親は昔しょっちゅう喧嘩をしていて、家は常に冷戦状態であった。
いつ戦闘が始まるかわからない状況に、私は家にいても心が安らぐことがなかった。

彼と出会い付き合っていく中で、私は「この人と出会うために生まれてきたのかもしれない」と、エヴァのカヲルくんみたいなことを思っていた。

それは彼が、私のそれまでの人生の中で一番の安心感を与えてくれたからだった。

彼と付き合っていく内に
「この人は私を賞賛してくれる」
「この人は私の話を聞いてくれる」
「この人は私を否定しない」
と思い、素の自分を出すことができた。

彼の親との関係や幼少期の話を聞いて、
「この人と私は境遇が似てる」
次に出てくる言葉がユニゾンした時に、
「この人と私は思考回路が似てる」と感じ、
「彼は運命の人なんだな」と私は思った。

「私達は元々1つの存在で、それが2つに分かれて生きていただけだった」「私達は出会うべくして出会った」のだと。
そんなロマンチックなことを私は本気で思って言っていたし、彼も頷いてくれていた。

彼はとにかく優しかった。
彼に抱きしめてもらっている時に、込み上げてくるものがあって泣いたこともある。
そんな私を、彼は真綿のように優しく包みこんでくれた。

初めて旅行をした時に、私は「この人と一晩中一緒に居られるんだ」と思い、宿でご飯を食べながら嬉しくて泣きそうになったが、なんとか堪えた。
部屋で彼が「初めての旅行記念」ということで、手紙とハンカチとお菓子をくれた。
私の涙腺は大崩壊した。

彼はたくさん手紙やお菓子、プレゼントをくれた。彼からの手紙は全て、一つの箱の中にしまって、大事にしていた。
何度も旅行し、色んなところに出掛けた。
お互いに何枚も写真を撮り合い、私達専用のフォルダを作っていた。
二人にしかわからない謎の挨拶や合いの手を何個も作った。

お互いに実家暮らしだったが、彼の家によくお邪魔させてもらい、ご両親や兄弟とも仲良くさせてもらっていた。
うちの実家にも何度か遊びに来てくれた。

私達はお互いに「ずっと一緒にいようね」と言い合っていた。





ある時に私は彼に
「私は今までずっと不安だった。でも、あなたに出会ってからは、ずっと心があたたかい。大好き」
と言った。彼が本当に嬉しそうに手を握ってくれたことを覚えている。

これが愛着の感覚であると今では思う。
それまで親からの愛着を受け取れなかった私は、彼からの愛情に、愛着を感じることができたのだった。










生まれた時、母子は一体のように密接に関わり合い、子の欲望は全て母親が叶えてくれる。
しかし成長するにつれ、子は自分と母親が個別の存在であることを認識し、愛着感覚を与えてくれる母親とも常に密接に関わることはできないのだと気がつく。
そして、密接ではなく個人としての距離を保ちながらも、心の中では相手を思い合う愛着の感覚を体得して大人になっていく。

「彼は私の全てをわかってくれる」
「私の全てを受け入れてくれる」

そう思っていた私は、生まれたての子どものように、彼と密接であることを望んだ。

でも、ずっと密接な距離感でい続けることなどできない。
そのことが理解できていない私は、彼を何度も責めるようになった。

「どうしてわかってくれないの?」
「どうしてこんなに悲しませるの?」

私は私の行動の全てを彼に理解してほしかってし、私の望むよう彼に行動してほしかった。私の欲しい言葉を口にしてほしかった。
今思えば完全なモラハラ、メンヘラ彼女である。

親からの愛着感覚を上手く形成できず、愛着感覚を与えてくれる役割を彼に押し付けた。
その役割を全うしてくれない彼が憎らしかった。

私は本当に欲しがってばかりだった。

彼はいつしか私のことを「出会った頃と変わってしまった」「わがままになった」と言い、冷たくあしらうようになった。

当然だ。自分の子どもでもない赤の他人への無条件の献身を強要されたのだ。
私は彼を個として尊重できていなかったし、彼はそれをちゃんと不快に感じていたのだ。

彼は彼で傷や悲しみを抱えて生きていた。
それは親との関係や幼少期に受けたものなのだろう。彼だって、本当はたくさん甘えたくて、愛着感覚を得たかったのだと思う。なのに、私はそんな彼の存在価値を、自分を認めるためのものとして扱った。
嫌われて当然だ。

彼はそれから、私を言葉で傷つけるようになった。彼から放たれた言葉は、私が女性としての自信を失くすのには充分すぎる程で、私は何度も何度も悔しくて泣いた。

場所を弁えずに泣き出す私に、彼は「また泣いた」と面倒くさそうにしていた。

彼に別れを切り出された時に私は「別れたくない」と言い、そして私から別れを切り出した時に彼は「別れたくない」と言い、ズルズル関係は続いた。

それでも別れは来た。
彼はよく他の女性と関わるようになっていて、私がそれに耐えかねて別れを切り出した。






別れた後に、1度だけ私の方から連絡した。
付き合っている時に成人式に会う約束をしていたから、成人式の前日に「ちょっとだけでも会いたい」とラインを送った。
彼からは「予定があるから無理」だと返ってきた。

そりゃそうだよなと、もう一生連絡することも話すこともないつもりで私はいたのだが、それ以降彼から話しかけてくることが増えた。

私が「何で話しかけてくる?」と聞いたところ、彼は「友達として」と言った。

「友達とは思えないから、もう話しかけてこないで」

と私は言った。それから彼が話しかけてくることも、連絡を送ってくることも、一度もなかった。






その後彼にはすぐに彼女ができた。
後から知った話だが、私と付き合っていた時から会っていたらしい。

私は1年程引きずった。
3ヶ月程は、毎朝泣いた。

彼のことも新しい彼女のことも恨んでいた。
「どうして私のことをこんなに傷つける?」

愛着を与えてくれた存在から捨てられたような気持ちで私は彼を憎み、新しい彼女が私から彼を奪ったかのように思った。
心の中で何度も二人を殴った。





1年かけてやっと前を向き出した私は「もう誰にも甘えない」という間違った信条を掲げた。
私がやたらと「自立してる」風に見られるのは、この時から強い自分を演じ始めた所以だろう。

それから私は、甘えない私を好きになってくれた人と付き合った。
こちらから甘えずに相手から甘えられるから、私は甘やかしながらも、安心できない心の中で不満を抱えていた。
それは相手に伝わり、誰と付き合っても上手くはいかなかった。







しかし私が「愛着」の問題を深掘りしようと思えたのは、今、愛着の感覚を受け取ることができているからである。
それは有難いことに、親から受け取ることができた。

私の実家の冷戦は数年前に終結していた。
仕事のイライラを家庭に持ち込んでいた父は、ある時から仕事をセーブし始め、趣味にあてる時間を増やし、心に余裕ができたのか怒る回数が格段に減った。
父による圧迫が減った母もまた、趣味を謳歌し、母本来のマイペースさを徐々に取り戻していった。

大学を卒業してから一人暮らしをしていたのだが、私が実家に戻った時、そこはもう危険な場所ではなかった。
何だこのあたたかい場所は!と何度感動したかわからない。

「私はここにいていいんだ」
と、猛烈に感動して泣いた夜があった。

以前「距離感って、むずかしい(後)」の記事でも書いたが、今の私は本当に親からの愛情を感じる機会が多くある。
言葉で「大切」と言われなくても伝わる、愛情のこもった行動がたくさんあって、それに気がつく度に私は嬉しくて堪らなくなる。

そして私は、密接に関わり合うことだけが愛ではないのだと認識することができた。
ちょうど良い距離感を保って、お互いにお互いのことで知らないことがたくさんあることもわかった上で、想い合う。

親の行動を見て、「私もよくこの行動取るぞ」「姉のあの性格は親に似たんだな」など血のつながりを感じた時に、愛おしくなる。

そんな風に親に対して思えるようになった環境と、人生に、感謝しかない。



私は今26歳で、彼と別れてもう6年が経つ。
私は最近やっと、彼に感謝し、彼の幸せを願うことができるようになった。

「死ぬまで一生愛されてると思ってたよ」

2012年に発売された、クリープハイプのメジャー1枚目のアルバム名だ。
彼と別れた後に、擦り切れるほどヘビーローテーションしたアルバムだ。

そしてこの一節は、アルバムの1曲目「愛の標識」という曲の歌詞に度々登場する。
激重な言葉のわりに、この曲は非常に爽やかで疾走感のある、晴れた日の午後に聴きたくなるような曲調だ。

私はずっと、「この曲は、この歌詞のわりに何でこんなに明るいんだろう」と思っていたが、今ならわかる気がする。

この一節を私は何年も恨みがましく唱えていたが、今なら、夏の晴れた日の青空に向かって、微笑みながら伝えられる。

彼と自転車に二人乗りして、スーパーでアイスを買って、子どもみたいにはしゃぎながら公園でブランコに乗って笑い合っていた日々が、懐かしく私の脳裏によぎる。

あの時、本当に楽しかった。
出会って、好きになってくれて、付き合ってくれて本当にありがとう。
そして、たくさん傷つけてしまって、本当にごめんなさい。
どうか、幸せに過ごしていてください。

元気でね。

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