見出し画像

名僧白隠をノイローゼから救った「内観の秘法」と「軟酥の法」とは(後編)

前回書ききれなかったもうひとつの瞑想法「軟酥の法」について。これは『夜船閑話』の原文の方にまとめて書いてあるのでそのまま引用したい。方法を整理して下に載せる。

譬へば色香(しきかう)淸淨(しやうじやう)の輭酥(なんそ)鴨卵(あふらん)の大(おほい)さの如くなる者、頂上に頓在(とんざい)せんに、其の氣味微妙(みめう)にして、遍(あまねく)く頭顱(づろ)の間(あひだ)をうるほし、浸々(しんしん)として潤下(じゆんか)し來(きた)つて、兩肩(りやうけん)及び双臂(さうひ)、兩乳(りやうにう)胸膈(きようかく)の間(あひだ)、肺肝(はいかん)腸胃(ちやうゐ)、脊梁(せきりやう)臀骨(どんこつ)、次第に沾注(てんちう)し將(も)ち去る。此時に當つて、胸中の五積(しやく)六聚(しゆ)、疝癪(せんべき)塊痛(くわいつう)、心に隨つて降下(かうげ)する事、水の下(しも)につくが如く歴々として聞(こゑ)あり、遍身(へんしん)を周流し、雙脚(さうきやく)を温潤し、足心(そくしん)に至つて即ち止む。行者再び應(まさ)に此の觀をなすべし、彼(か)の浸々として潤下(じゆんか)する所の餘流(よりう)、積り湛(たた)へて暖め蘸(ひた)す事、恰(あたか)も世の良醫の種々妙香(めうかう)の藥物(やくぶつ)を集め、是れを煎湯(せんたう)して浴盤(よくばん)の中(なか)に盛り湛へて、我が臍輪(さいりん)以下を漬(つ)け蘸(ひた)すが如し。
http://sybrma.sakura.ne.jp/310hakuin.yasenkanna.html

・色も香りも大変良いという「軟酥」(クリーム状の乳製品)の塊を頭上に乗せると想像する。ちょうど鴨の卵程度の大きさである。ピンポン玉くらいか?
・それがだんだん溶け出してジワジワと流れ落ち、頭全体を潤していく様子を想像する。このとろけるクリームは大変癒し効果があり、疲れや痛みが解きほぐれていくと想像する。
・それが首、肩、胸、背中と、徐々に身体の表面を伝っていき、とうとう足下・足の裏まで到達する。すると今度は、その癒しクリームが風呂桶に溜まっていくような感じになり、水面が徐々に上がってくる(その間も頭上からどんどん流れてくる!)。ヘソの高さまで到達したそれは、まるで上質な薬湯のようであり、下半身をよく温めて癒してくれると想像する。
(『足心に至つて即ち止む』は、流れ着いた軟酥がその場で『留まる』という意)

姿勢についてはここでの指定はないが、白隠の別の著書『遠羅天釜』では、厚い座布団のうえに端座し、背筋を伸ばして目を閉じる、とある(伊豆山格堂『白隠禅師 遠羅天釜』p.168)。つまりこれは坐禅の姿勢ということだが、椅子に座っていても立っていても寝床で横になっていても、やること自体に変わりはない。大事なのは姿勢より想像力である

さて、ようするにこれはマインドフルネス瞑想でいうところの「ボディスキャン」だと捉えることができる。つまり、全身の状態を精査することに意識を集中することで心身の調和を図るという目的の瞑想である。
(参考:ジョン・カバットジン『マインドフルネス ストレス低減法』p.115〜)
流れ落ちる妙薬というイメージを使うことで、単調かつ困難になりがちなボディスキャンの助けとなろう(ボディスキャンでは『その部位に意識は集中するが力は入れない』という、初学者には難易度の高い行為を要求される)。軟酥が流れていく感じをできるだけリアルに想像することができれば、それだけ身体の状態を詳細に感じ取れることに繋がる。ゆえに、

「其の功驗(こうけん)の遲速は行人(ぎやうにん)の進修(しんしう)の精麤(せいそ)に依(よ)るらくのみ」
http://sybrma.sakura.ne.jp/310hakuin.yasenkanna.html
(このセラピーは真剣にやればそれだけ効くという意味)

と言われるのであろう。

ボディスキャンは爪先から始めて頭頂に至るが、軟酥の法では逆に頭頂から始めて足に向かって進む。内観の秘法で「カカトで息をする」ということをしていたのだから軟酥の法も足下から始めればよさそうなものだが、これは「頭にのぼせ上がった心気を冷まして肚に降ろし、下半身に滞った気を循環させる」という意図があってのことであろう。頭と上半身を清涼に、下半身を温暖に、というのは『夜船閑話』でも繰り返し説かれている通りである。なので、軟酥の法は最終的に下半身を温める半身浴となるわけだ。

で結局「軟酥」て何なの?

ここまで、軟酥とは「やわらかい乳製品」程度の認識で話をしてきたが、最終的に「妙香なる薬湯」になっているわけで、これを現代人が思い浮かべる普通の乳製品だと思っていると全く訳がわからない。

実はこの軟酥には「レシピ」がある。上で少し触れた『遠羅天釜』の「遠方の病僧に贈りし書」の中で白隠はこう書いている。一斤とか一両というのは重さの単位である

諸法実相一斤、我法二空各一両、寂滅現前三両、無欲二両、動静不二三両、絲瓜の皮一分五釐、放下着一斤、右七味忍辱の汁に浸す事一夜、陰転して抹す。例の通り般若波羅蜜を以て調錬し、丸して鴨卵の大さの如くならしめて、頂上に安着す。
(伊豆山格堂『臨済禅師 遠羅天釜』p.168)

ここで「材料」として挙げられているものは仏教用語ばかりである。乳製品めいた要素は一切登場しない。忍辱は「にんにく」と読み、忍耐して修行に臨むことだが、これは野菜の「ニンニク」とかけた洒落であろう。ヘチマの皮に至っては単なるゴミである。最後の般若波羅蜜は「蜂蜜」とかけたシャレであろう(伊豆山も本文中でそのように訳している)。
この手紙は病気の僧にあてたものだということを思い出して欲しい。つまりこれは「いつものお経の"ありがたいところ"を集めて仙人風の丸薬にしたもの」という感じの説明であることがわかる。
この手紙の前半部分で白隠は「病気になったからといって修行は休むな、病気はむしろ修行のチャンスだ」とか「小賢しいやつが病気になるとハンパに頭がいいから余計なことばかり考えて病気をかえって大きくしてしまう」とかのガチの説教を浴びせていたにもかかわらず、ここに来て急に謎の茶目っ気を出してくるので、読んでる方は正直戸惑ってしまう。

そもそも、我々現代人がバターだのチーズだのの乳製品をいつでも手軽に食べられるのは、安定した牛乳の生産体制、それを工場に運ぶ物流体制、大規模工場による温度管理と生産管理、製品を出荷し販売するネットワーク、これら全てが揃っているからパクパク食べれるのであって、これら全てが無い江戸時代では乳製品というのは結構な贅沢品だったのではないか。
この「酥」をさらに精製したものを「醍醐」というが、

だいご 1【醍醐】
〘仏〙 五味の一。牛または羊の乳を精製した濃くて甘いといわれる液汁。味の最高のものとされる。「―の妙薬は重病を治するがごとく」〈沙石集•2〉
(スーパー大辞林)

これが「味の最高」とか「重病を治す」とかの扱いになっていることからも分かるように、少なくとも仏教界隈では乳製品というものはかなりの贅沢品であったことが窺える。庶民はもちろんとして、もしかしたら白隠すら「軟酥」にお目にかかったことが無いという「あこがれの食材」だったかもしれない。

そう考えると「軟酥」に対する認識はガラリと変わってくる。見たこともないような高級食材が自分の頭からダラダラ垂れてくるところを想像するのだから、その「ありがたさ」「とてつもなさ」はたまったものではなかろう。我々現代人にはバターとかチーズのようなものを「色香清浄」と表す感覚は無いが、当時の人にとってそれは「知らないからこそかえってリアルな」感覚だったのではなかろうか。

というわけで「軟酥」とは具体的な食品や食材を指す単語ではなく、「なんかすごい贅沢なすごい薬」という認識でいるのが良かろうと思う。となれば別に「ミルクチョコレートが溶け出してハチャメチャな薬になって優勝した」とかでも特に問題ない。本人にとってリアルにありがたい・すごいと感じられるものであれば良いように思う。

実践した感想

さて、そのように実際にやってみると、確かにリラックス効果は高い。身体の無駄に力が入っているところがスッとほぐれていくのを感じるし、下半身も実際に暖かく感じられる。

「どれだけ眠くてもいざ寝床に入ると心配事とかが山ほど頭に浮かんでしまい寝るどころではなくなる」というのはうつ病あるあるだが、内観の秘法と軟酥の法を試した時にはそれらは起こらなかった。まだ数日しか試していないので結論を出すには早すぎると思うが、いまのところ概ね良好なようである。

特になにか我慢を強いられるわけではないし、特別な道具もお経を覚えることも必要ない簡単な瞑想である。ぜひお試しあれ。

補足&蛇足へ続く

この記事が参加している募集

サポートしていただくと生活費の足しになります。お気持ちで結構です。