見出し画像

名僧白隠をノイローゼから救った「内観の秘法」と「軟酥の法」とは(前編)

※注意:この記事では、幸運パワーとか宇宙の神秘とか神様の不思議な力とかのオカルト要素を一切肯定していません。

「両手を叩くと音がする、では片手を叩くとどんな音がするか?」という公案を作ったことで知られる江戸時代の禅僧、白隠慧鶴。若くして大悟したものの、厳しい修行がアダになったのか徐々に体調が悪化。それを挽回しようと更に厳しい修行を重ねていき、その結果ひどいノイローゼ状態(禅病)になってしまう。

一心不乱に寝食をわすれ修行をつづけたけれども、まだ一ヵ月にならぬうちに、頭痛、胸痛がはなはだしく、肺と心臓が、やけ焦れるようで、両手両脚は氷雪のように凍え、耳はガンガン鳴りつづけ、なにごとに対しても臆病になり、神経過敏に、かつ恐怖に駆られ、身心困憊し、夜はねむることもできず、夢と現の境をゆき交い、両脇はつねに汗ばみ、両眼は涙が流れつづけるようになってしまったのである。
(直木公彦『白隠禅師 健康法と逸話』日本教文社 p.46)

とまあ、明らかに心療内科いけという状態。様々な薬や針治療を試しても効果がなく、困り果てた白隠はとある仙人の噂を聞きつけ、彼を訪ねて2つの瞑想法を授かる。それが「内観の秘法」と「軟酥の法」というわけ。彼はこれを実践して三年も経たぬうちに全快したという。
同じように禅病に悩む白隠の弟子たちにもこれを教えたところ、二三週間のうちにみな治ってしまって元気を取り戻したという。このエピソードをまとめたものが『夜船閑話』という著作になったというわけ。

「内観の秘法」の実践

では具体的にどのような瞑想法だったのか。いろいろ調べて自分で実践してみたが、どうやら「自律訓練法」に似た調息法のようである。

・寝る前、まだ目を閉じる前に行う。まず寝床に横になる。
・両足から下腹部にかけての下半身に力を込めて意識を向ける。下腹部を膨らませ、丹田(ヘソ下4.5cm程度、膀胱の上あたり)に力を入れて腹を維持する。「ひょうたんのように張って力がある」(伊豆山格堂『白隠禅師 夜船閑話』春秋社 p.22)状態。
・そのまま静かに深呼吸する。息をするたび、ヘソから下の下半身に「気」が充満していくイメージ。息を吸う時も吐く時も腹腔を膨らませたままにしておくと、肺の動きがスムーズになって呼吸が深く静かになっていく。おそらく足の力は抜いてもよかろうが、丹田の力はそのままの方が良いと思う。
・上半身は清涼に、下半身は温かく、というイメージを心がける。
・納得したら寝る。

(追記)「腹に力を入れる」というとお腹を引っ込めるようなイメージがあるが、ここでは逆に「腹の膨らみを維持するために」力を使う。こうすると肺の動きがスムースになるし、胃腸の位置が整うような感覚がある。

また、呼吸の際には「かかとで息をするよう」イメージすると良いという。

真人の息は是を息するに踵を以てし、衆人の息は是を息するに喉を以てす。
(伊豆山格堂『白隠禅師 夜船閑話』春秋社 p.55)

普通に考えて足で息をするなんてのは無理な話だが、「そのようにイメージすると、より呼吸が静かに深くなっていくよ」という意味の話である。足の裏から下腹部にかけて気が流れるようイメージすることで、血流を促し神経の流れを整える作用があるのではないかと思う。

ここで「気」が実在するかしないかという話はハッキリいってどうでもいい。そのようにイメージすると身体に良い作用が現れるよ、というのが重要である。たとえば、「両腕を振りなさい、角度はこう、タイミングはこう....」と指示されるより、「上空にカモメが羽ばたくような動き」と言われればすぐに分かる。上でちょっとふれた「自律訓練法」でも、「手足が暖かい」というような指示と想像で身体の調子を整えるが、それと同じようなものであろう。イメージの力を使うと身体にうまくアクセスできますよ、というのはマインドフルネス瞑想や催眠療法でも実証されている通りである。

「呪文」を使うかどうか

ところで、原文では以下のようなフレーズをくりかえし心の中で唱えることになっている。

我が此の氣海丹田腰脚足心、總(そう)に是れ我が本來の面目(めんもく)、面目何の鼻孔(びこう)かある。
我が此の氣海丹田、總に是れ我が本分の家郷、家郷何の消息かある。
我が此の氣海丹田、總に是れ我が唯心(ゆゐしん)の淨土、淨土何の莊嚴(しやうごん)かある。
我が此の氣海丹田、總に是れ我が己心(こしん)の彌陀(みだ)、彌佗何の法をか説く
http://sybrma.sakura.ne.jp/310hakuin.yasenkanna.html

今回、この瞑想法を調べるのに参照したのが「直木公彦『白隠禅師 健康法と逸話』(日本教文社)」と「伊豆山格堂『白隠禅師 夜船閑話』(春秋社)」の2冊である。この箇所は直木本では四句となっているものが、伊豆山本では三句になっている。上記URLでは国会図書館の資料を当たることができるが、それも四句になっている。この箇所を伊豆山はこう訳している。

わがこの気海丹田(へそ下の下腹部)腰・脚・足心(土踏まず)そのまますべて是れ我が本来の面目(本心・本性)である。その面目(顔つき・様子)はいかなる様子をしているか?
我が此の気海丹田は、そのまますべて「唯心の浄土」(浄土は我が心)である。その浄土にはいかなる荘厳があるか。
我がこの気海丹田はそのまますべて「己身の弥陀」(弥陀はおのれ)である。その弥陀はいかなる法を説くか?
(伊豆山格堂『白隠禅師 夜船閑話』春秋社 p.22)

「荘厳」とは仏国土を飾り立てること→転じて「仏道修行を積んで徳を積むこと」、「弥陀」とは阿弥陀如来のことである。つまり、これらの句に出てくる言葉はみな禅寺の修行僧にとってはお馴染みのものばかりであり、彼らにとっては理解するのに全く困らないどころか、瞑想イメージの助けとなるものであろう(禅では自分自身が既に仏である、という概念は以前『唐代禅』の話で書いたとおりである)。しかし、現代社会に住む我々一般人にとってみればいちいち説明されないと意味が分からない謎の語句だらけであるというのが正直なところではなかろうか。

ここで直木は、「もし、内観の四句がむずかしくて心でとなえづらかったならば(中略)『己心の浄土、唯心の弥陀』と繰りかえしてもよいのであります」(p.78)としている。つまり、イメージどうのこうのとは関係なく、ただ繰り返し唱えれば良いというスタンスをとっている(この前のページでこれらの語句の意味は解説しているものの、実践の場面で省略している)。これには同意できない。自分が自分自身のために瞑想しているというのに、意味不明な呪文を唱えるというのは本当に意味がない。一体だれのために唱えているというのか。というわけで僕はこの四句を唱えることはしていないし、上の「具体的な方法」の欄にも書かなかった。
とはいえ、この句を唱えたところで瞑想の邪魔になるわけでもなかろうから、採用するかしないかは本人の自由という話ではある。それっぽい雰囲気を演出できた方が自分には効くんです、ということだってあるだろうし、それを否定するのはつまり僕が他人の実践を邪魔することにしかならない。ご自由にどうぞ。

(追記) あるいは、出版当時はこれらの語句は解説の必要ないほど一般に普及していて(なにせ初版が昭和30年というロングセラー本である)、読者が全て理解しているのが前提という認識が共有されていたのかもしれない。もしくは、お寺で読むことが前提の教科書のような本だったなら、坊さんの解説が期待できる。
いずれにせよ四句を採用するかしないかは御自由にどうぞ、という点に変わりはない。

さて、白隠が伝授された瞑想にはもうひとつ「軟酥の法」というのもあるが、ちょっと長くなってきた(し疲れた)ので今日はここまで。後編へ続く。

この記事が参加している募集

サポートしていただくと生活費の足しになります。お気持ちで結構です。