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瞑想の考え方③:「集中力」という幻想|沢庵『不動智神妙録』

「マインドフルネス瞑想で集中力アップ」みたいな話は、そこらじゅうにあふれています。試しにGoogle検索してみたら約 926,000 件と表示されました。ビジネスマンのためのナントカメソッド等、「瞑想で集中力が上がる」というのは、そんなの決まってるじゃんというレベルの話になっているようです。

そもそも集中力とは?

ところで、集中力とはそもそも何なんのでしょうか? 試しにmacOS付属のスーパー大辞林で検索しましたが、該当はありません。精選版日本国語大辞典アプリによれば、集中力とは "気持や注意をある物事に集中することのできる力" とされています。よそ見をせず一心不乱に仕事や課題に取り組む姿、というのを想像するのが一般的なように思います。

しかし、例えば「歩きスマホをしていて人にぶつかってしまった」というのは、集中力がある人の姿なのでしょうか? あるいは「"歩く" ということに集中して信号機を見落としてしまった」は? これらは確かに物事に集中していますが、これは集中力があるというより逆に「注意散漫」だということになるでしょう。集中しているのに「散漫」だというのもなんだかおかしな話です。

あるいは、面白い映画を見てあっという間に時間が過ぎてしまったというとき、人は確かに物事に集中して一心不乱に長時間座っているわけですが、これを「集中力のトレーニング」だと呼ぶ人はいないでしょう。また、物事に没頭するのが集中力だというのなら、スケベ関係のことをすればその状態はすぐに達成できます。「熱中」し過ぎて親の接近に気づかないといった不運な状況を「集中力のトレーニング」だと捉えるのは、ちょっとばかり無理がある。

「いやいや、集中力というのはそういうのじゃなくて,きちんと課題をやり遂げる力のことだよ」という意見もあるでしょう。学校の宿題を終わらせるまで遊ばないとか、短時間に力を集中させて仕事を手早く終わらせるとか、そういう能力のことである、と。
しかし、宿題が終わるまでよそ見せず机から離れないというのは「忍耐力」とか「持久力」というのが正確でしょうし、仕事へのリソース分配というのはむしろ「マネージメント能力」とでもいうべきものでしょう。忍耐力を鍛えたいなら我慢比べをすれば良いだけであって、他に良い方法はいくらでもあるはずです。そもそも忍耐力とマネージメントの成功は(相関関係はあるでしょうが)因果関係にはありませんし、「瞑想でマネージメント能力を鍛える」なんて話は聞いたことがありません。

あるいは、「パチンコで勝つまで帰らない」というのはどうでしょう? これは確かに目標達成に向けて集中力を発揮していますが、これは集中というよりむしろ「執着」というべきもののように思います。では、集中と執着の違いは何なのか? 仮に欲の有る無しで変わるなら、ビジネスの場で発揮されるのは集中力ではなく執着心ということになる。それは坐禅で培われるようなものなのか?

集中と視野狭窄の違いは何なのか? 集中力とは持久力のことなのか? どうやら、「集中力」というのは単に何かに集中していれば良いというものではなさそうです。

沢庵和尚のいうことには

さて、禅の世界では集中力というのはどのような扱いになっているのでしょうか。昔から禅と武道というものには深い関わりがあるのですが、臨済宗の沢庵宗彭たくあんそうほうが江戸幕府剣術指南役の柳生宗矩やぎゅうむねのりに宛てた不動智神妙録ふどうちしんみょうろくという書簡に、禅をベースにした武道の心構えが詳しく書かれています。

やはり「武道家たるもの坐禅で集中力を鍛えるべし」なんてことが書いてあるのでしょうか? いえ、全く逆です。「心はどこにも集中させてはならない」と説いているのです。

敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心を取らるゝなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるゝなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるゝなり。我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるゝなり。われ切られじと思ふ所に心を置けば、われ切られじと思ふ所に心を取らるゝなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるゝなり。兎角心の置所はないと言ふ。
(タチバナ教養文庫『沢庵 不動智神妙録』p.67)

つまり、どこか一部に注意を置くと、そこに気を取られてしまう。物事に囚われてしまう。それが良くないのだと沢庵は指摘しています。では、なぜ物事に囚われるのが良くないのでしょうか? そこで登場するのが、タイトルにもある「不動智」という概念です。

不動智とは「諸仏不動智」(p.34)とも書きます。つまり、諸仏(菩薩や如来など)が持つ智慧の性質のことです。「不動」と言っても、石や木のように全く動かない心というわけではありません(p.34)。不動とは「何事にも動じない」ということを意味しています。

物事に囚われて心が動揺すると、人は見事にダメになります。イライラしたり焦ったり、見栄をはったり、あるいは油断したりすると、なかなか自分の能力を上手く発揮できない。あれだけは絶対取りたい、カッコ悪いところを見せたくない、あともう少しで記録達成だ....そんな余計なことばかりに気を取られていると、どんどん動きが悪くなってくる。練習の時には出来ていたことが、ほんのつまらないミスで台無しになってしまう。そういった事は誰しも心当たりがあるはずです。ヤバイまずいぞとオロオロするのを「気が動転する」と言いますが、不動とはまさに「動転せぬことにて候」(p.37)というわけです。

では、動転しないためにはどうすれば良いのか。ふつう我々は「どっしり構える」とか「心を強く持て」という方向に考えがちなのですが、禅の「不動」というのはそういうことではありません。「其心を止めぬを不動と申し候」(p.37)、つまり「心をどこにも留めない(常に流動させる)」ことで、安定した「不動の心」を生み出すのです。動かし続けるのに「不動」というのもなんだかややこやしいですが、心にブレーキをかけるのではなく、心を滞りなく流し続けることによって、全身の情報処理を最適化する、とも言えるでしょう。

全身の情報処理が滞りなく最適化されているということの象徴として、沢庵は千手観音を挙げます。

千手観音とて手が千御入り候はゞ、弓を取る手に心が止らば、九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷。一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり
(タチバナ教養文庫『沢庵 不動智神妙録』p.67)

千手観音には手が千もあるが、弓を取る手に心が留まれば、九百九十九の手はみな役に立たない。一カ所に心を留めないことによって、全ての手が役に立つ。全身をうまく扱うためには、全身に心が行き渡っていなければならない。剣の斬り合いというのはほんの一瞬で生死が分かれてしまうものですから、余計なことに気を取られていると、あっという間にこちらが斬られてしまう。『不動智神妙録』を受け取った柳生宗矩は、『兵法家伝書』という書物の中でこう記しています。

うつた所に心がとまる故、敵にうたれ、先の太刀を無にする也。うつたる所は、きれうときれまひと、まゝ、心をとゞむるな。
(岩波文庫『兵法家伝書』p.42)

「太刀を打った所に心が止まる(気を取られる)から、そこを敵に打たれてしまい、先に打った太刀が無駄になってしまう。斬れようが斬れまいが、打った所には心を留めるな」。もし「一太刀に全身全霊を込めよ」なんてことをしていたら、一人は斬れたとしても、今度は別の敵に斬られてしまう。それでは兵法としては失格なのです。

初心に帰る

では、どのようにすれば心を一カ所に留めないようにすることができるのでしょうか?
沢庵は、心に何かあるから心が留まる→つまり「無心」であれと言うのですが(p.83)、しかし「心にある物を去らんと思ふ心が、又心中にある物になる」(『無心であろうとする心』が生まれてしまう)(p.83)、なので、そのようなことをも思わなければ自ずと無心となる(p.83)と説いています。しかしこれでは堂々巡りです。(瞑想にある程度慣れ親しんだ人なら感覚としてわかることではあります。『諸法無我』で触れたことを思い出して下さい。)

無心といっても、無生物のような何も生じない無心ではありません。「心の生ずる所に生せざれば、手も行かず」(p.88)、つまり心が生まれていなければそもそも目的のために手は動かないわけですから、心それ自体は確かに在らなければなりません。

つまり、無心とは「余計な囚われのない心」だということになります。そのことを、沢庵は「初心」という別の言葉でも表しています。

初心は身に持つ太刀の構も何も知らぬものなれば、身に心の止る事もなし。人が打ち候へは、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。
然る処にさまざまの事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろいろの事を教へぬれは、色々の処に心が止り、人を打たんとすれば、兎や角して殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね、稽古をするに従ひ、後は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて、唯最初の、何も習はぬ時の、心の様になる也。
(タチバナ教養文庫『沢庵 不動智神妙録』p.67)

「初心のうちは太刀の構えも何も知らないので、留まるような心がない。人が打ってきたらただ応戦することに必死で、余計な考えが起こらない。
しかし剣術の様々なことを習って、太刀の扱い方や、心の置き所など、色々なことを教えられると、色々な所に心が留まることになって、人を打とうとしても却って不自由になってしまうものだが、長い年月をかけて稽古を重ねていくと、構え方や太刀の扱い方といった意識は無くなっていくので、ただ最初の、何も習っていなかった頃のような心になる。」

現代風に言えば「無意識で出来るようになるまで練習しろ」ということになるでしょうか。これが禅のいう「初心に帰る」ということです。ふつう我々が初心に帰るというとき、たいてい「初めて経験したときの謙虚な気持ちやワクワク感を忘れないようにしよう」というような心がけだという解釈が一般的ですが、禅の「初心に帰る」とは、余計な考えが起きないレベルまで精進しろということなのだと言えます。

平常心是道

しかし剣術やスポーツならそれでいいかもしれませんが、怒りや雑念といった一般的な心のありようで余計な囚われが生じてしまうという場合は一体どうすればよいのでしょうか。日常のちょっとしたことでイライラやモヤモヤを引きずってしまうということは、誰しも心当たりがあるはずです。

厄介なことに、禅者というのは伝統的にそういった話題について細かいレクチャーをほとんど行いません。特に日本では、とにかく坐れ、作法通りに修行しろ、弟子が何か聞いてきたら怒鳴る(いわゆる"喝")かブン殴るというのが「伝統」ということになってしまっている。なので沢庵も「心を捨てよ」とまでは言うものの、どのようにすれば余計な執着を捨てられるか、ということに関してはほぼ何も言っていません。

柳生宗矩はどうしたのでしょうか。『兵法家伝書』の中で彼もやはり「心を留めてはならない」ということを再三に渡って書き記していますが、それを平常心是道という言葉で表している箇所があります。(ここでは "びょうじょうしんこれどう" と読み仮名がふってありますが、"びょうじょうしんぜどう" とも読みます。)

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(岩波文庫『兵法家伝書』p.55)

この「古徳」というのは、注によれば唐代の禅僧「馬祖道一」ばそ どういつのことです。前回の記事で登場した|臨済《りんざい》の師匠の師匠の師匠にあたる人物です。

我々が日常的に使う「平常心」というのは「いつもの落ち着いた様子」とか「当たり前の慣れた状態」のようなことを指します。禅でも同じような意味合いとして使われることはあるのですが、馬祖の語録を紐解くと、「平常心」は以下のように記されています。

何をか平常心と謂う。造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無し。経に云く、凡夫行に非ず、聖賢行に非ず、是れ菩薩行なりと。
(入谷義高『馬祖の語録』禅文化研究所 p.33)

「平常心とは何か。わざとらしい作為が無く、良いも悪いも無く、持つ持たざるも無く、輪廻の有無も無く、凡俗でもなければ神聖でもない。経典にもある、『凡夫の行いでもなければ聖人の行いでもない、それが菩薩の行いである』と」

これは明らかに以前の記事で触れた「中道」の姿勢であり、このような心構えであれば日常生活のあらゆることが「道」となる(同p.33)と馬祖は説いています。これは、評価や価値判断から離れて感覚を味わうというマインドフルネスの方法そのものです。余計なこだわりや囚われから離れてストレスを軽減しようというマインドフルネス瞑想の源流は、1300年ほど前にまで遡ることができる、というわけです。

余計な心から離れて「不動智」を発揮するカギは、マインドフルネスにあった。こう言えるのではないでしょうか。

集中力という幻想

さて、ここまで様々な資料を参照しながら「不動智」ということを掘り下げてきたわけですが、しかしどうにも納得のいかない部分がある。それは、坐禅でもマインドフルネス瞑想でも、実際のところは人に「集中」することを求めているように見えるということです。ここの連載でも呼吸の感覚歩行の感覚をしっかり味わうということをやってきていますし、マインドフルネス創始者ジョン・カバットジンも、受講者に呼吸の感覚や食べ物を味わう感覚について「注意を払う」ということを求めています。これらは、上で長々と述べたような「心を止めない」ということからは明らかに矛盾しているように思えてしまう。これはどう解釈すればよいのでしょうか?

沢庵は、心を集中させるのは初学者にとっては必要なこと、つまり基礎トレーニングの段階だと捉えています。

或人問ふ、我心を兎角余所へやれば、心の行く所に志を取止めて、敵に負けるほどに、我心を臍の下に押込めて余所にやらずして、敵の働きにより転化せよと云ふ。
尤も左もあるべき事なり。然れども仏法の向上の段より見れば、臍の下に押込めて余所へやらぬと云ふは、段が卑しき、向上にあらず。修行稽古の時の位なり。
(中略)
臍の下に押込んで余所へやるまじきとすれば、やるまじきと思ふ心に、心を取られて、先の用かけ、殊の外不自由になるなり。
(タチバナ教養文庫『沢庵 不動智神妙録』p.67)

「ある人は言う。自分の心をよそにやってしまうと、その場所に気を取られて敵に負けてしまうから、心をヘソの下に押し込めてよそにやらないようにして、敵の動きに合わせて変化させよと。
それもごもっともなことではあるが、しかし仏法の見地からすれば、心をヘソの下に押し込めてよそにならないというのは、レベルの低いことで、修行や稽古の段階のことである。
心をヘソの下に押し込んで、よそに行かせまいとすればするほど、そのことに気を取られてしまい、却って不自由になってしまう。」

心がよそに行って気を取られる、というのはまさに「雑念」です。刀の斬り合いで余所見をしていたら危険なのは当然ですから、これには一理あるように思えます。しかし、雑念を消そうとすればするほど、「雑念を消す」ということに心が囚われてしまい、それはそれで目的からは遠ざかってしまう。沢庵はそのような状態を「繋ぎ猫のよう」(p.74)だと評しています。飼い猫が心配だからといって縄で縛り付けていたのでは、猫は自由に動き回ることができなくなってしまう、というわけです。

私の記事でも、ジョン・カバットジンのトレーニングでもそうなのですが、瞑想中に雑念が生じることについては一切咎めていません。それを叱ったところで雑念は生まれてくるわけですから、無意味(というか有害)なのです
また、「呼吸の感覚以外を遮断せよ」といった無理難題も一切求めていないことに注意してください。雑念や他の気になる感覚があれば、そのことに評価や価値判断などはせず、それはそれとして、呼吸の感覚に戻るというプログラムになっています。これも、咎めたところで余計に囚われてしまう(猫をヒモで縛ることになってしまう)からそうなっているのです。

(補足:感覚の停止や遮断を求める仏教瞑想というのがあることも事実です(四禅)。しかし、ブッダはその瞑想で大悟したわけではありませんし、瞑想指導者ティク・ナット・ハンは「ありのままの現実から瞑想者を隠してしまう」「逃避」であるとしてそれらを退けています。(野草社『ブッダの〈気づき〉の瞑想』p.74-75)
そもそも、感覚を停止・遮断することと、人間が生きるということとは、どう考えても折り合いが悪いと言わざるを得ません。)

注意を払うということと、平常心であるということ。これは基礎と実践という見方もできますが、結局のところ、「心を自由に働かせる」という点から見れば、やること自体はどちらも大して変わらないのだということがお分かりでしょうか。というか、注意を払いながらも平常心である、ということが「不動智」のカギなのです。そして、それを実践するのに必要なのが中道の視点なのです。私はそう考えています。

さて、ここまで来たところで、この記事の冒頭にあった「集中」の例を見てみましょうか。
まず、歩きスマホというのは、心が余所に行った状態ですね。信号機を見落としてしまうのは、猫を縛ってしまった状態です。映画やスケベに熱中しているのは、心がそこに留まってしまい、快楽に囚われた状態といえます。
宿題が終わるまで机から離れないというのは、目的以外の感覚を殺して心をヘソの下に押し込めるような状態だといえますし、パチンコで勝つまで帰らないというのは、欲に囚われて視野狭窄に陥った状態だといえるでしょう。

だから、これらはすべて、まともな集中力ではないのです。というか、世間的な意味での集中力、つまり "気持や注意をある物事に集中することのできる力" というのは、禅の見地から考えれば、とても不自由な、あまり好ましくないものなのです。

そもそも仏法とは、人を苦しみから解き放ち、心を自由にするものです。ですから、瞑想もそういった心がけで行うべきでしょう。今回はそういうお話でした。

今回の参考文献:

(以下はお礼メッセージになっています)

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