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瞑想の考え方①物事に固有の本質は無い…「諸法無我」について

諸行無常しょぎょうむじょう」という仏教用語は有名です。あらゆるものは時間経過とともに状態を変化させるので、永遠不変なものは存在しない、という意味です。知っている人も多いのではないでしょうか。

諸行無常 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E7%84%A1%E5%B8%B8

しかし、もう一つ重要な諸法無我しょほうむがということについては、説明できる人はあまり多くないように思われます。「無我の境地」と言って「心を無にする」というようなことはよく言われますが、けど「諸法」って何?みたいな感じではないでしょうか。実は、諸法無我というのは「心を無にする」といったこととはあまり関係がありません。(というかそもそも心は無になりません。無になったらそれは意識不明とか気絶とか死というものです)

諸法無我とは、あらゆる物事には「我」となるものは無い、ということを表しています。

では、その「我」とは何でしょうか?
我とは、「アートマン」というものを指す言葉です。アートマンとは古代インドから続く言葉で、人や物事が持っている永遠不変の本質であり、輪廻転生の主体....より簡単にいえば、我々が想像する「」だとも言えるでしょう。
(※注:輪廻転生とは仏教独自の考え方ではなく、仏教が生まれた当時のインド社会で広く当たり前に考えられていたものでした。バラモン教(のちのヒンズー教)やジャイナ教といった他のインドの宗教でも、死後の魂が他の生き物に輪廻していくという同じ世界観を持っています。(参考:岩波新書『初期仏教――ブッダの思想をたどる』,岩波仏教辞典第二版)

では、アートマンが無いとはどういうことなのでしょうか?順を追って説明していきます。

この世に存在する物質は、それより小さなもの同士の組み合わせで出来ています。例えば「家」とは、柱とか窓とか屋根とかの建材を、家の形になるように組み合わせたものです。それらの建材もまた、それ自身の材料(木材やプラスチックやガラスなど)によって作られたものですね。そうしてどんどんどんどん細かく見ていくと、最終的には電子とか陽子とかクオークといった素粒子のところまで行き着きます。(古代インド社会では風・火・水・土という4つの属性のエネルギーに分解できると考えられていました。我々にも馴染み深い組み合わせですね。)

それは人間などの生物にも同じことが言えます。この身体は内臓や皮膚や筋肉や骨などによって出来ています。それらはタンパク質やカルシウムや水分やミネラル分などの物質によって出来ています。そうしてどんどん細かく見ていくと、最終的には電子とか陽子とかクオークといった素粒子のところまで行き着きます。

つまり、この世の全てのものは、素粒子のレベルで見れば、全く同じもので出来ているということです。(全てのデジタルデータが最終的に"0と1が並んだもの"になるのと似ています)

私専用の電子とか、消しゴム専用の電子というものはありません。位置やエネルギー量などに違いはありますが、全て同じ粒子です。私と消しゴムの違いは、粒子同士の組み合わせ方や配合パランスが多少違う程度に過ぎません。つまり、モノそれ自体にはそのモノを決定づける本質というものは無い、ということ。あるいは、我々が本質だと思っているものは、モノ同士の組み合わせ方(相互作用)によって生み出される錯覚であるということ、これが「諸法無我」ということです。
(※注:素粒子そのものの本質についての結論は大統一理論というやつの完成を待たねばならんようですが、いずれにせよ我々の日常で出会うモノの範囲内では特に関係ありません。)
(※注:モノ同士の相互作用のことを仏教的に言うと『縁起』ということになります)

ときに瞑想指導で「みんな同じだよ」みたいな綺麗事はよく言われます。「人類みな平等」とか「地球の仲間だよ」とか「絆が大事」とか、あるいは「宇宙と繋がっている」といったようなことです。しかし、平等とか仲間というのは、生き物がそう認識しているだけの仮想的な概念に過ぎません。「宇宙と一体になる」? 最初からそうなっています。「我々は全て同じモノで出来ている」という事実は、仲間とか絆とか云々言い出す以前の段階で厳然と存在しているものです。事実でないものに捉われると、智恵が鈍るのです。

あるいは、「私という感覚は錯覚である」「私というものはない」というようなことも言われます。(これらは『無我』の考えを行き過ぎたのかもしれません。)しかし、私という個体と、あなたという個体は明らかに別のものです(材料は同じですが確かに違う組み合わせで出来ています)。私の形に人間の材料が集まって、その内側の領域で生命をやっている、神経ネットワーク上に生まれた現象、それが「私」です。同様に、あなたの形に人間の材料が集まって、その内側の領域で生命をやっている、神経ネットワーク上に生まれた現象、それが「あなた」です。だから、私の命はあるし、意識がある。あなたの命はあるし、意識がある。それは別のものですが、同じもので出来ています。あなたと私が同じ個体だと勘違いしたまま瞑想を続けていれば、事実と違うことを志向しながら進めていくことになるわけですから、いつか破綻してしまうでしょう。
自他の境界が無いというのは、多様性ではありません。結晶のように均質で平坦で、異物を排除しようとする世界です。我々は同じヒト同士ですが、同じではないのです。しかし、確かに同じもので出来ています。それが「同じ」だということです。

瞑想に諸法無我が必要な理由

さて、ここまで諸法無我ということについて説明してきましたが、私が瞑想には諸法無我の感覚が必要だということを知ったのは、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)という本でした。
著者の一人、山下良道氏は曹洞宗寺院での修行を経てからビルマの寺院で正式に修行を積んだ人物です。そこには日本人だけでなく多くの西洋人も訪れて瞑想修行をしているのですが、現地の人たちに比べるとどうしても進み具合が悪いというのです。ある段階までは来るんだけど、どうしても行き詰まってしまう。

それはなぜかというと、みな「我」の意識が強いからです。
特に西洋の哲学では理性によって人格を統制することが尊ばれます。なので、例えば瞑想の中で「光を見よ」と言われたら「(特別なこの私が)よし見てやるぞ」と躍起になってしまう。例えるなら、一生懸命に網を構えて獲物が来るのを待ってしまう。そういう所には獲物は出てきません。見ようとすると見えてこない。評価や判断をするような意識や理性が生まれる前の段階に秘密があるのです。

これは私の経験なのですが、評価や判断などの理性無しに瞑想をしていると、諸法無我ということを実感として気が付く瞬間が来るのです。これを読んでいるあなたはおそらく「知識として」知っている状態なのですが、自分の中の体験として「ああ、そうだったのか!!」と納得する瞬間というのがあるのです。それは、宇宙ナントカとか引き寄せ等の余計なものを付け足して、永遠不変な宇宙の真理とかを求めてしまうような瞑想では決して訪れない。私はそう考えています。

....なんだか長々と難しい話をしてしまいました。次回はちょっと簡単な瞑想について書く予定です。

今回の参考文献:

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