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【ss】銀河売り #シロクマ文芸部

「銀河売り〼」

張り紙を見て思わず足を止める。
近づいちゃいけない、気付かない振りをして通り過ぎなくちゃいけないのに、『ただ、見るだけだから』と自分に言い聞かせて店に入ってしまった。
見てしまったらもうダメだ。
僕は『銀河』を買った。

シルバーヒカリヒレ長
通称『銀河』と呼ばれるそれは、パールブルーの体にイエローの長いヒレをもつ美しいメダカだ。

店を出ると、「体調不良のため早退する」と会社に電話し、そのままアクアリウムショップに向かう。

久しぶりのショップでは、『銀河』の入った袋を持った僕を店長が複雑な顔をして迎えた。1年前の騒動を彼はよく知っているから。

***
数年前、これまで何の趣味もなく生きてきた僕が突然メダカの飼育にハマった。

王道の幹之メダカ、朱色の楊貴妃、黒いオロチから始まり、ヒカリ体型、アルピノと新しい品種を手に入れるたび水槽は増えていった。水草を育て、水を換え、水槽を整えては美しく泳ぐメダカの動画をアップする。繁殖した卵や増えた水草をネットで売り、飼育方法をまとめてSNSにあげる頃にはどっぷりとハマっていた。

学生時代から付き合い、結婚の話が具体的になっていた彼女も最初のうちは笑っていた。

「そんなに何かにハマるの珍しいね」
「将来子どもができたら、生き物好きな子になるかな」

でも、寝る場所もないほど水槽が増え、休日が全てメダカに費やされるようになると喧嘩が絶えなくなり、メダカのために頻繁に仕事をサボるようになった頃、最終勧告を突き付けられた。

お互いの両親を巻き込んだ話し合いの末、僕は全ての水槽を手放すことにした。

水槽がひとつもなくなると、執着は呆気なく消えた。『何故あんなにハマっていたのだろう』

それからは真面目に仕事をし、休日は彼女と過ごした。彼女はよく笑うようになり、楽しそうに式場や指輪の話をしているのを見ると、愛おしさで胸がいっぱいになった。
『ああ、これでよかったのだ』と。


部屋に入ってきた彼女は水槽を見て立ち尽くし、喉の奥で声にならない悲鳴をあげた。そしてその夜のうちに荷物をまとめて出て行った。長い付き合いだったのに、一言も交わさず、目も合わさないまま。

僕と『銀河』だけになった部屋で、もう何時間も寝転んだまま水槽を見ている。僕を見ない丸い目と光って揺れるヒレをずっとずっと。
心はどこか遠いところにあって孤独で穏やかだ。


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