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【短編小説】散歩というには


朝のルーティンをひと通り終え、すっかりぬるくなったコーヒーを飲みながらスマホの追跡アプリを起動する。そろそろだ。丸い点が動きはじめた。うなるようにため息を吐く。息苦しく、背後から追い立てられる焦燥感に思わず唇を噛み締めた。

浮気がバレた時、妻は声を荒げるでも、取り乱すでもなく、ただ淡々と事実確認をしていった。そして最後に貴方はこれからどうしたいのかと聞かれた。

もとより、妻に不満がある訳ではない、息子はかわいい。あくまでも浮気で本気なわけではない、だから頭を下げて、やり直してほしいと言った。なんとしてでもやり直したいと、どこまで強く思っていたのかは自分でもよくわからないが、家庭が一番であることが間違いないのだから、こうするのがセオリーであると思ったのだ。

妻は少し驚いて沈黙したのち、考える時間がほしいと言った。わかったという他なかった。

その後、妻はなにごともなかったように振るまった。家事に手を抜くわけでもなく、不機嫌さを現すこともない。寝室も今まで通り一緒に使った。

ただ、何度も寝返りをうっては、そっと起き出し、リビングのソファで過ごしていることに気づいてはいた。だからと言って何が言えただろうか。何かを言えば、決定的な事を言われてしまうかもしれない。だから気づかないふりをして、やり過ごしていた。

何故浮気がバレたのか、理由はすぐにわかった。浮気相手が一緒にいる写真やなんかを自宅に送り付けたのだ。

「だって慰謝料を請求されるかもしない、なんて知らなかったんだもん」

と泣きながら訴えてきた彼女を冷めた目でみていた。少し幼くそこが初々しくて可愛いと思っていたが、ただの世間知らずのコドモだった。

彼女が送り付けたのものの中には、LINEのスクショもあった。悪いのは自分と浮気相手なのに、無性に腹が立った。バカにされていると思った。恋人ごっこの甘ったるいやり取りを見られたことも、自分から不倫をばらす様な愚かな相手を選んだことも。

だから妻のスマホに追跡アプリを仕込んだ。妻の浮気を疑った訳では無い。家族に内緒でちょっと高いランチをしている、でも、パートに行くはずの日に趣味の事をしているでもいい、ただ、俺だってお前の秘密を知っているのだと思って溜飲を下げたかっただけだった。

パートに行く日の妻の生活は、判で押したようにいつも同じだ。朝の家事を終えてパート先に向かい、仕事が終わったら近所のスーパーで買い物をして自宅に戻る。そのルートだけを繰り返している。つまらないような、ほっとしたような気持ちで妻が帰宅するのを見届けるとアプリを閉じる。

妻がいつもと違う動きをみせたのは、パートが休みの日の午前中だった。

10時に自宅をでた妻は、パート先とは逆方向のバス通りを繁華街へ向かって歩いているようだ。息子の洋服や学用品でも買いに行くのだろうと思い、しばらく目を離す。1時間ほど経って見てみると、妻はまだ歩き続けていた。

繁華街はとっくに通り越し、一見すると何も無い住宅街を進んでいる。心臓がごとりと音を立てた気がした。迷うことなく進む丸い点はいったいどこへむかっているのだろうか、妻の秘密の場所だろうか。知りたいような、知りたくないような謎の高揚感に包まれ、スマホを握る手に力が入る。

出発から2時間後、県境を流れる大きな川にぶつかったところで丸い点はとまった。それから1時間、川の土手から少しも動かず、その後、きた道を2時間かけて自宅に戻っていった。土手での滞在時間を含めて往復5時間、移動距離約15kmの長い長い散歩だった。

それからも、パートが休みの日や息子の習い事のある土曜日に、同じルートで長い散歩に出かけていった。

時々コンビニやスーパーによる以外は、どこにもよらず、ただひたすら川をめざして歩く、歩く、歩く。毎回同じ時刻、同じ道を歩くので、今どの辺を歩いているのか、追跡アプリをみなくても分かるようになっていったが、答え合わせのようにアプリを見続けた。妻は今どんな顔をして、何を考えながら歩いているのだろうか。

外回りの昼、偶然妻の散歩ルートの近くにいることに気がついた。道端に停めた営業車に身を潜め、妻が通るのを待ってみることにした。アプリをひらくと丸い点がどんどん近づいてきて、道の端から妻の姿がみえた。

朝、家を出た時にみた服装とは違い、オーバーサイズのTシャツに黒いキャップ、マスクをしているとまるで知らない人のようだ。イヤフォンで音楽を聴いているのか、バス通りを通る大型車のクラクションを気にする様子もなく、前を向いて大股で歩いていく。ザッザッザッと足音が聞こえそうなほど勇ましく、一瞬で俺の目の前を通り過ぎて行った。

その日から、時間があえば散歩をしている妻をみにいくようになった。

妻はいつも周りの景色を一切気にすることなく歩く。たった1人、同じテンポで歩き続ける妻だけが切り離され、別の世界を生きているみたいで、見捨てられたような心細さを感じる。そのうちに、歩く妻を車で追い越してみたり、土手に座っている豆粒のような姿を対岸の土手からみていたりと、妻の散歩の景色に勝手に参加するようになった。

歩いている妻を遠目にみていると、プロジェクトを影から支えるサポートメンバーのような気持ちになり、壊れた関係を共に修復しているような気になっていった。

散歩を始めてから妻は、夜中に起き出すこともなくなり、日に焼けて少し健康的になった。楽しそうに好きな音楽をスマホにダウンロードしている姿を見て、俺は勝手にもう大丈夫だと安心していた。

ある日の風呂あがり、妻が薄い笑みを浮かべながらスマホをみていた。いつもの音楽アプリかと思ったら、チラリと見えた画面は万歩計アプリのようだった。

「今日: 歩いた歩数と距離」
「トータル: 歩いた歩数と距離」

頭の中で一気にアラートが鳴りはじめる。
その場凌ぎで飽きっぽい俺と違い、妻は目標を決めてそれに向かって努力を積み上げるタイプだ。そんな妻が目標を定めずに何かをスタートすることはないだろう。妻は何歩を目標にしているのだろうか、そしてその目標を達成した時、どうしようとしているのだろうか。

そもそも、俺はどうして「もう大丈夫だ」などと思ったのだろう。

妻との関係を修復するためにいったいどんな努力をしたというのか。俺がやったことといえば、無断で仕込んだ追跡アプリで妻の行動を監視しているストーカー行為だけだ。

なにがプロジェクトのサポートメンバーだ。己の愚かさに、浮気がバレた時よりはるかに絶望的な気持ちになった。

その日からアプリを開くのが怖くなった。
職場で丸い点が移動する様子をみていると、カチカチと時計の音が聞こえてくる気がした。

目標を達成したのが今日だったとしたら、うちに帰って誰もいなかったら。そう思うと居ても立っても居られず、残業も飲み会も出来るだけ断って真っ直ぐ家に帰った。

恐る恐る鍵を開け、家族が変わらずいることに安堵し、翌日家を出た瞬間からまた不安に駆られる毎日になった。妻の態度はあいかわらずなにも変わらなかったが、髪型をかえたり、新しい服を着ているのをみるにつけ、いよいよかと思い、今度は俺が眠れなくなった。

妻のパートが休みの日、俺は妻に内緒で休みをとりあの土手に向かった。

追跡アプリは開かなかったが、妻はいつもの場所にいた。川に向かって座る妻に後ろから近づいていくと、妻の鼻歌が聞こえた。妻の鼻歌はいつも同じ曲で、結婚前にそれを指摘すると、
「今、始めて気がついた」
と言って笑っていた。妻はそれを嬉しい時も悲しい時も口ずさむ。幼い息子の沐浴をしていた時も、妻の母が亡くなりポロポロ涙をこぼしながら遺品整理をしていた時も。

俺はだまって妻の横に座り、本当に久しぶりに真っ直ぐ彼女の顔をみた。


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