2つ目の「勉強する意味」
大きな地震が起きた年の3月、僕はまさに大学を卒業しようしていた。
当時は、真面目であり不真面目でもあったので、卒業するまで就活をまったくしなかった。
いや正確には、1社だけ興味半分で説明会に参加したことがあった(教育関係の会社だったと思う)。
1次試験も兼ねていたらしく、説明会のあとに小論文みたいなものを急に書かされてびっくりしたのだが、そのテーマは『生きる意味について書け』という唐突かつ深淵なものだった。
無論、それを学ぶために文学部に入ったのだし、4年間そのために哲学や宗教を学んできたので、「これぞ我が意を得たり」とおあつらえ通り、数々の倫理と論理をほどこし、平成のソクラテスよろしく魂をたっぷりと注ぎ込んだ"世紀の大論文"を書き上げたのであった。
結果は、みごとに不合格だった(笑)
(その会社には是非つぶれてほしい)
まぁそれはそのような語り草として…
就活をしなかった理由については改めてくどくどと書きたいと思うが、
いずれにせよ、震災後、僕の胸中にあったのは、十代の自分を形成してくれた東北に何か恩返しのようなものをしたい、それだけだった。
自分にはいったい何ができるだろう…?
そのとき思い浮かんだのは、やはり「教育」だった。
以前noteで書いた、あの予備校の先生の影響もきっと少なからずあったのだと思う。
大学時代はずっと塾講師をやっていたので、そして自分自身も2回大学受験を経験しているので受験勉強くらいなら役に立てるかも…という想いだった。
そのようにして学習塾で働くことになり、そこで出会った一人のある女子高生がきっかけで、NPOへの転職を決意することになる…(これは本当に長くなるので「NPOに転職した理由」編に続く)。
それからは、自分にとって「勉強する意味」が一変した。
今までは自分が知識を蓄え、視野を広げ、仕事やお金や名声を得るためだけに学んできたけれども、
震災を機に、人のためにもっと学びたいという気持ちが心の隅の方から密やかに芽生えてきた。
高校までの単なる受験ゲームでは決して気づきえず、社会で働くようになってから初めて立ち現れた、2番目の勉強する意味であった。
今は、自分の知識欲を満たすためだけの勉強はもったいないと思っている。
それよりも、何か人が幸せになれるような「知」というものの存在を誰かから引き継ぎ、誰かに引き渡すという「知」のバトンパスをしたい。
そのような「知」を探す旅の道中の一里塚に、僕は今、たどり着いたばかりだ。
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