釈迦はなぜ人生の苦しみから説き始めたのか?

僕が仏教を本格的に勉強していたのは今から10年以上前の大学生のときだったのだけど、

なかなか分からなかったことの一つが「人生は苦なり」であった。

今となって思い返してみれば、人生にはいろいろな種類の苦しみがあるのだなぁと理解できるが、当時はよくわからなかった。

こんな楽しい人生、なぜ「人生は苦しみ」なのか?と。

それはたぶん大学時代は、お金・時間・人間関係・体力・身分などに恵まれていたからだったと思う。

もちろん、10代のときには、いじめや受験勉強に悩まされたこともあり、

「学校に行きたくないなぁ」「つらいなぁ」「死にたいなぁ」

などと何度思ったことかしれない。

が、しかし、社会人になっても苦しみの種類は色を変え形を変えて出現した。

やはり、仕事をしてお金を稼いでいくことは大変だし、人間関係に悩まされることも多々あるし、体力の衰えも感じるし、自分の進むべき道に迷うこともある。

さらに、今はまだ30代であるけれど、これから先には確実に、老いや病気、そして死が待っている。

「自分が年を取って病気になっていくくらいなら、30歳くらいでキレイに死にたい」と言っていた生徒もいた。

それほどに、人生は(楽しみもあるが)苦しみが圧倒的に重さを増していく。

ならば、人生は苦しむための人生なのか?

仏教の開祖である釈迦は、人間が幸福になるための因果関係を正しく解き明かすために、まず人生が一体どのようなものなのかを徹底的に分析した。

その結果、人生には8つの苦しみがあることを発見。

いわゆる「四苦八苦」である。

<四苦八苦>

(1)生苦(しょうく)・・・生きる苦しみ

(2)老苦(ろうく)・・・年老いる苦しみ

(3)病苦(びょうく)・・・病気の苦しみ

(4)死苦(しく)・・・死ぬ苦しみ

(5)愛別離苦(あいべつりく)・・・愛するものと別れる苦しみ

(6)怨憎会苦(おんぞうえく)・・・嫌いなものとあわなければならない苦しみ

(7)求不得苦(ぐふとっく)・・・求めているものが得られない苦しみ

(8)五陰盛苦(ごおんじょうく)・・・心身が盛んであるがゆえの苦しみ(前の7つをまとめられた)

釈迦によれば、人生の実体は苦しみであり、苦しみに満ちている、と説かれる。

その苦しみをまぎらわせるために色々な娯楽で楽しもうとしている。

どんなにお金や名声や健康や人間関係に恵まれていても、最後は「死」によって総崩れになってしまうし、自分の大事にしている肉体も灰塵に帰してしまう。

そんな悲劇的な結末が待ち受けている悲劇的な人生において、幸福になれる因果関係(メカニズム)を発見したのが釈迦であり、その思想が仏教である。

だから釈迦は、その出発点として「人生は苦なり」をまず説き、最後に結論としてその解決策を提示している。

まわりからはどんなに楽しそうに見える人も、その裏では大変な苦労やつらい思いをもっていると思うし、一人ひとりが心の底で悩みを抱えているかもしれない。

苦しみを乗り越えるためには、その苦しみの状態をよく知らなければならないように、

人生を苦しみと説かれたのも、人生を幸福にするための必要なプロセスだったに違いない。

仏教は、ある意味で"危険思想"である。

教養程度では構わないかもしれないが、少し深く学んでいくと、人生や人間の実態を突きつけられることになり、絶望的に感じる。

ちょうどそれは医者が患者に癌の診断を下して診察が終了するようなもので、治療法を知らされなければ患者は余計に不安になってしまう。

仏教は初めから終わりまで順序正しく学んでいくことによって、はじめて全体像を理解することができる。

逆に言えば、人生が苦しみであることをよく理解していかないと仏教も幸福も始まっていかない。

釈迦が「人生苦なり」からまず説かれたのは、きわめて精緻な科学的手法であり、幸福への壮大な登竜門であり、解決に向けての凄い自信があったからと思わずにはいられない。

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