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   散歩と雑学と読書ノート

千歳川

風景に接するときに、自分がどのような視点であるいはどのような立ち位置でそれを見ているかによって、見えてくる風景の質や量や見ることで引き起こされる感情やあるいは身体的な状態に違いが生じるものだ。

たとえば、平地にたたずんで風景を見ている場合と、高層ビルや山頂から眼下に広がるパノラマを見ている場合はおのずと違いが生まれる。あるいは、散歩のように歩きながら、時に立ち止まって見ている場合に見えている風景の細部を、自転車に乗っている場合は見落としてしまうことがあるだろう。しかし自転車では歩くよりは同じ時間内でより多くの風景に接することが出来る。走る車の窓から眺める場合は一層速度を増して風景は通り過ぎていく、しかし、その際には歩行や自転車の時のように自分の体を使って直に風景に接しているという感覚は十分に生じない。

汽車になるとどうだろうか、車よりも通常は空間の移動速度は速く、それだけ多くの風景が車窓を素早く通り過ぎていく。それでいて、なぜなのかうまく説明がつかないが、私は車よりも汽車のほうがいつも落ち着いて物思いにふけりながら風景を見ることができる。また列車内で本を読むのが私の楽しみの一つであるが、車では私の場合は、酔ってしまって駄目である。車よりも汽車の振動のほうが私の三半規管にはやさしいということだろう。

汽車の旅はこれまで多くの作家の重要な素材であった。川村湊が今年の4月19日付の北海道新聞文化欄に書いているとおり、たしかにレールの上を列車が走ることによって、詩が生まれ、文学作品が出来てきた。文学の揺籃としての汽車の旅があった。宮沢賢治はオホーツク挽歌のなかで、青森や噴火湾やオホーツク海岸の列車の旅を書きとめている。松本清張や西村京太郎のミステリーは鉄道での移動がなければ成り立たない。文学だけではない映画や歌謡曲にも汽車の旅の心境風景が様々に描かれてきたのもたしかだ。

鉄道という交通システムは重要なコミュニケーションシステムであり、思うに重要な 国家経済安全保障システムでもある。鉄道は陸路で最も大量に人や物を運ぶことが出来る、つまり情報を大量に運ぶことが出来る。そして文化形成の重要な一翼を担ってきた。ところがそのシステムが経済的な理由でいたるところで廃線が検討されている。北海道はその現象が特に著しいのは残念なことだ。考え直すことはできないのだろうか。

次に視点を陸から空に上げてみよう、飛行機の窓から雲ではなく陸や海上の風景を見る体験はとても興味深い。特に地図で描かれている形態の一部がありありと眼下に現れてくるのを眺めているときは私はいつも不思議な感覚に襲われる。リアリティー感覚にゆさぶりをかけられるような感覚と言ったらよいだろうか。

私がこれまで機窓から眺めた風景で美しいと感じた風景を三つ上げておきたい。一つは沖縄の海と島、二つ目は日本アルプス、もう一つは東京の夜景で、ネオンや家々の明かりや車のライトが織りなす光の風景を暗闇に宝石をちりばめたように美しいと感じる時があった。なんとも平凡だが、美しいという感じは平凡なほうが良いのではないかという気もする。

我々は簡単に体験はできないが視点を飛行機よりさらに上空の人工衛星にまで上げてみよう。そこから眺める青い地球の風景を体験者はさまざまに語っている。人工衛星は搭載されているAIの機能を駆使しながら、気象観測をおこない、GPS機能を提供し、地表の風景を遠景としてだけではなくまるでドローンのように信じがたいほどの近景としてありありと映し出す。映し出された地表には地図にあるような国境線はない、しかしそのことが平和への礎となるといったきざしは見えない。逆に偵察衛星がとらえた地表の風景は、政治や軍事上の重要な地政学的情報として活用されている。残念ながら今のところ人工衛星はサイバー戦争とも絡み合って、平和のイメージからは遥かに遠い軌道を周回しているように私には思える。

機窓より撮影した日本アルプス(1)
松本市浅間温泉から帰る途中に撮影
(なお前回のnoteには間違えて浅野温泉と書いてしまいました)
機窓より撮影した日本アルプス(2)

              
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「読書ノート」

★「北海道文学の系譜」、北海道大学放送教育委員会編
   1984、北海道大学

古い本であるが、私はこの本を数年前に手に入れた。本著は11名の著者によって書かれている。始めに和田謹吾先生が「北海道文学の成立」というタイトルで総論と言ってもよい論文を書いている。私は大学一年目の時に和田先生の授業を受けている。60年近くも昔のことである。その時に受けた授業の中で、バスを借り切って札幌の街を移動し、主に文学碑めぐりをしながら北海道文学の解説を受けたことが強く印象に残っている。もっともその内容は全く覚えていないのだが。

ここでは、和田先生の論文にもとづいて、北海道の未開の大自然や風景が北海道文学の成立や発展にあたえた影響を見ておきたい。和田先生はそれを次のように4項目に分けて説明している。

(1)単に北海道を舞台にするだけの作品群
明治2年に蝦夷地が「北海道」と改称されてから北海道文学が始まると考えると、それはまず旅人として来道した文人たちの文章(主に紀行文)から始まった。明治18年に硯友社の石橋思案が来道して(たぶん)紀行文を書いている、同じ年に幸田露伴が余市の電信局に着任、19歳から21歳まで勤務している。露伴は「雪紛紛」を書いて「小説界の北海道を開墾」しようとしたが掲載した新聞が発行停止となり、中断せざるを得なかった。文豪露伴が北海道を描いて明治文壇に影響を与えたのは、北海道からの脱出を扱った紀行文「突貫紀行」(明治25)によってである。

さらに、当時の人気落語家三遊亭円朝が明治19年に来道し、明治初期の北海道の話題や新開地の様相を伝える紀行文にストーリーを仕込んだ連作を発表し話題となった。

ところで北海道文学全集第一巻のなかでの円朝の紹介文に、坪内逍遥が円朝のはなしの調子で小説を書けとすすめて二葉亭四迷が「浮雲」を書いて近代文学のスタートが切られたと記述されている。

(2)北海道の植民地的な異国情緒を主とする作品群
露伴や円朝にもすでにその傾向があったが、北方的な異国情緒を生かした作品としては、石川啄木の「標伯」(明治40)、徳富芦花の「寄生木」(明治42)、岩野泡鳴の「放浪」(明治43)、有島武郎の「或る女のグリンぷス」(明治44)、長田幹彦の「零落」(明治45)などがあり、単なる旅人としてではなく、そこには北海道の自然を写しながら、この地になにがしかの生活の拠点を求めようとした作家の心の色が染みこんでいる。

しかし和田先生は、人間が自然を染めてしまうのではなく、北海道の自然が人間に影響するという形こそ北海道の文学と呼び得るのではあるまいかと述べる。

(3)北海道の地理的自然環境に育まれた作品群
津軽海境を境にして、北海道は動植物の分布がまず異なる。それは風景が本土と全く異なるということである。しかもそこには人間を束縛する歴史も伝統もなかった。そうした自然の特性をいち早く文学に定着させたのは「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」を書いた国木田独歩であった。

独歩が北海道に足跡を印したのは明治28年(1895)9月のことである。移住を考えての来道であったが、結局のところ滞在はわずか10日間に過ぎなかった。しかしその間に独歩は単に通過するだけの旅人としてではなく、自己の生命を託する場として北海道の自然を見ていた。
「空知川の岸辺」で独歩は次のように書いている。

余は時雨の音の淋しさを知って居る。然し未だ曽て、原始の大深林を忍びやかに過ぎてゆく時雨ほど淋しさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語(ささやき)である。深林の底に居て、此音を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。……
社会が何処にある、人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。此の場所に於いて、此の時に於いて、人はただ「生存」其者の、自然の一呼吸の中に託されておることを感ずるばかりである。

「空知川の岸辺」


ところで内村鑑三は「自分は札幌農学校の産であるとの称を拒む」「北海の天然の子なりの言は否まない」と述べている。
その内村が「地理学考」(のちに「地人論」と変更)を書いたのは明治27年(1894)で、同じ年の5か月後に志賀重昂の有名な「日本風景論」が出版された。

近代文学での風景の発見者とみなされる独歩の「空知川の岸辺」が書かれたのは「日本風景論」の9年後の明治36年(1903)である。また内村の「地人論」は和辻哲郎の「風土」(1935)の先駆けともなる書物であった。

志賀は内村の2年後輩にあたる札幌農学校の卒業生である。同じ年に二人が地理学的な書物を書いた背景には、内村が「遥か北方から、原始林と熊と狼とのなかから」(「余は如何にして基督信徒となりし乎」)と書いた北海道の自然や風景に接した体験が影響していたのではあるまいか。

和田先生の本文からはそれるが、すこし「風景論」に関して。みておきたい。

ここで十分に触れる余裕はないが、大室幹雄著「志賀重昂『日本風景論』精読」(岩波書店)に、内村の「地人論」との比較を含めて「日本風景論」の内容が詳細に解説されている。

「日本風景論」のなかで、志賀は日本の美しい風景の基準をこれまでの名所旧跡や日本三景などから富士山に変更した。そして「日本アルプス」や「木曽川のライン下り」などの命名をし、登山を推奨した。

このことからも、志賀の「日本風景論」は、明治という時代らしくヨーロッパの風景論の影響を受けて書かれていることがわかる。

ヨーロッパの風景論に関して、ここでは、小林敏明著「風景の無意識
C・Dフリードリッヒ論」を参照にして簡単にふれておくことにする。

近代的な自然の概念が成立し、近代的風景画が描かれたのは18世紀後半から19世紀前半のロマン主義の時代である。当時の代表的な風景画家としてC・Dフリードリッヒがあげられる。

自然認識の転換と新しい風景画の重要な舞台となったのはそれまではおどろおどろしい悪魔の住処とみなされていたアルプスの山々であった。アルプスの景観はまずハラ―やルソーなどによって驚嘆と感動を引き起こす美的対象として表現された。ハラ―は1729年に詩集「アルプス」を書き、ルソーはアルプスの自然との合一の体験を告白している。新しく発見されたアルプスの美は多くの画家たちを魅了した。同時にアルプスは当時の自然科学的な探求の対象でもあった。その際の最も重要な人物としてジュネーヴの植物学者オラース=ベネディクト・ドゥ・ソシュールがあげられる。彼は有名な言語学者ソシュールの曽祖父にあたる人物で、1779年に「アルプス紀行」を出版し、1787年にモンブランの登頂を果たす。モンブランの初登頂はその前年ガブリエルとバルマによってなされていて、それが近代的な登山(アルピニズム)の始まりと言われている。

ソシュールの「アルプス紀行」はアルプスの学術的な探索記録で、登山ルートに沿って地質学的および動植物学的な観察記録がなされ、さらに気象状態、岩石の成分分析、氷河の状態などが記されている。この「アルプス紀行」は、生涯に4回のアルプス越えをしているゲーテがいち早く注目した書物である。このようにアルプスの美の発見や登山熱の高揚には当時の発達著しい自然科学が並走していた。ルソーはリンネの「自然の体系」を小脇に抱えて散策をしていたと言われている。またロマン主義の時代はフランス革命とその後のナポレオンの時代であり、産業革命が進行していく時代でもあった。アルプスの崇高な光景はフランス革命の自由の概念と結合するものであった。

18 世紀末に始まる近代的な風景画のブームは画家の世界にだけ収まるものではなく、先に触れたゲーテを始めシュレーゲルやヘンダーリンのような文学者や、ショーペンハウアー、シェリングなどの哲学者に、また美術評論家、自然科学者などに幅広い影響を与えていった。

和田先生の本文に戻ろう。

(4)北海道の歴史的社会環境に育まれた作品群
北海道の開発は農業開拓から始まった。それは、未開の原始林、やせた火山灰地、きびしい冷害との戦いの歴史でもあった。さらにそうした悪条件のなかで<植民地>の悪徳企業家と官僚が立ちはだかった。そうした農民の苦悩を表現する余裕は開拓者第一世代にはなかった。

そこに、札幌農学校出身の有島武郎の登場の意義があった。彼こそがこの土地に生きる人間の真実の声を表現できる最初の人物であった。特に「カインの末裔」(大正6)は開拓者第二世代に強い衝撃を与え、やがて道産子自体による文学表現を見ることになる。

「カインの末裔」の系譜につらなる作品として、小林多喜二の「防風林」や有島の北大時代最後の教え子早川三代治の「処女地」「土と人」や本庄陸男の「石狩川」などがある。


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2020年 自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


「風景」をめぐる読書ノート

私が「風景」に関する書物に関心を向けるきっかけとなったのは、1967年に「ノスタルジーの概念」という論文を読んでからである。ここでは、その論文を始め、いくつかの書物に触れながら、風景と人とのかかわりについて考えてみたいと思う。

その前に一人の哲学者の文章を引用しておきたい。

      私たちが意識的に生きている限り、私たちはいつも環境の風景の中で
  考え、かつ行動している。風景のない生活というものは考えることが
  できない。自然を破壊することの上に人間の物質的豊かさを誇ってきた
  近代西洋文明のあり方が、一つの危機として具体的に私たちに迫ってく
  るのは、そのような環境の風景を前にしてであって、決して抽象的な
  言語や数字をとおしてではない。……私たちは私たちの風景に改めて眼
  を向け、人間の風景の基本的な連関を探りながら、これから私たちがつ
  くり上げていかねばならない新しい風景を思い浮かべねばならない。
  この総合的な作業にこそ、真の意味での哲学的活動が必要であり、哲学
  とは風景の創造と構成であるとさえ言えるかもしれない
       ( 沢田允茂 「九十歳の省察 哲学的断章」より)


「ノスタルジーの概念」
 ジャン・スタロバンスキー、ディオゲネス2、年刊・日本版、1967年



「ノスタルジーの概念」をめぐるスタロバンスキーの論文は当時の私にはなかなか衝撃的であった。ノスタルジーが、精神科的な病名を示す言葉であったことはこの時に初めて私は知った。以下では、この論文の中身にふれながら少し考えてみたい。

懐郷(Heimweh)は、1688年スイスのヨハネス・ホーファーにより、ノスタルジアと命名された、帰郷と苦痛の意味を持つギリシャ語から巧みに合成された医学用語である。

著名な精神科医ヤスパースは学位論文である「懐郷と犯罪」でノスタルジアを取り上げている。そのなかでヤスパースは、奉公に出されて、保護的な親や故郷から突然引き離された10代の少女が、このメランコリーの亜種としてのノスタルジアに罹患し、憂鬱となって、不眠や不安が出現し食欲が減退、さらに不機嫌で攻撃的となって、家に戻るためにと短絡的に奉公さきの家に放火をしたり、子供を殺したりしてしてしまった20例ほどの鑑定例を分析している。彼らの犯罪の多くは懐かしい故郷の風景や出来事の幻想に後押しされたものであった。
ヤスパースはピネル、エスキロール、グリージンガーの教科書には記載されているものの、その後病名として触れられることの少ないノスタルジアに言及した最後の大物ともいわれる。

ここではノスタルジアをめぐる歴史的なエピソードを二つだけ挙げておきたい

 一つは、ロシア遠征のナポレオンの軍医がたくさんの兵士がノスタルジアで故郷の風景を思い浮かべながら食事もとらず衰弱し感染症などで死亡したと記録していること。

 もう一つは、ゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」にもノスタルジアのため路傍で倒れて死んでいく人物のことが描かれている。当時ノスタルジーは死に直結する、恐ろしい病気だったのである。
 
さて本論文では、病としてのノスタルジーが時代の流れの中で、いかに様々な学問的パラダイムのもとで語られ、研究されてきたかが述べられる。ここでは、その件については深入りしないが、それはシゾフレニー(統合失調症)の研究の歴史と重ねてみると特に興味を駆り立てられるものがある。シゾフレニーはいまだに様々なパラダイのもとで語られているが、スタロバンスキーも述べているとおり、シゾフレニーという病名もいつかノスタルジーと同じ運命をたどるのかもしれない。近年シゾフレニーの病状の軽症化がみられるのは、そのきざしかもしれない。

論文の後半ではノスタルジーの概念がしだいに変貌し、精神の病に関する専門用語としては消滅していき、他の新たな言語に置き換わっていったが、日常語としての使用は残り、次第に言外に軽蔑した意味を帯びるようになったとスタロバンスキーは述べる。後半の一部をすこし引用しておこう。

精神病理学においては、いくつかの概念がノスタルジーという観念の代わりをつとめてきている。…強調されるのは、もはや帰郷の欲求ではなく、適応の欠如である。社会的不適応による抑うつ反応が重視される、…ノスタルジーという概念は、もとの環境(故郷)にアクセントを置いていた。不適応の概念は一方的に、現在の環境に融合することの必要性にアクセントを置く。」「カントはすでに、ノスタルジーにかかったものは、故郷の風景よりも、自分の幼少期の感覚を再び見いだしたいのだと説いている…フロイトが固着あるいは退行という概念を展開させても、かれはカントによって示唆された解釈を、新しい専門語を用いて再び取り上げ、明白かつ綿密にしているにすぎないであろう。」さらに、「ノスタルジーが具体的な空間と風景を指示していたのにたいして、現代の(ノスタルジーに変わる)諸概念は、個々の人間を、また、かつて生きた過去が今にとどめている主観的な磁場を指し示す。社会的適応という至上命令が強調される今日では、ノスタルジーはもはや失われた祖国を示さず…土地に根を張らぬ文明人にとって重要であるのは、大人の世界への統合の要請と、子供の状態の特権を保持する誘惑とのあいだの葛藤である。

私はこの論文で、病を表現する言葉の概念が変遷していく問題や、環境と適応の問題、家族が人の心に与える長い影響力の問題と共に、人に与える風景の影響に関して興味を駆り立てられた。
                   *
「ノンヒューマン環境論-分裂病者の場合―」
   ハロルド・F・サールズ、1988、みすず書房

サールズは統合失調症のすぐれた治療者として高名なアメリカの精神科医・精神分析医である。本書は彼の処女作であり、評判通りの名著である。人間の精神は自己の内面や対人関係などヒューマンな環境の影響下で成立していくのと同じく、ノンヒューマンな環境の影響を受けそれを取り入れて成立していくものである。一方でそのことが精神を混乱させるもとにもなりうる、その環境の影響をどのように受け入れながら自立していくかを統合失調症にかんして精神療法のプロセスを交えながら本書では論じられている。

サールズは65歳になって書いたフランス版の序文のなかで、当時(40歳)考えていたようには、ヒューマンとノンヒューマンな環境がはっきりと区分けができるものではないこと、両者が絡み合っているものであること、またそうした環境の影響から完全に離脱できるものでもないことを強調したうえで、自分のなかのノンヒューマンな一面を以前よりずっとうけいれることができるようになっていると述べている。そして、自分のなかではずっと現実性をもつ問題であったとして、本書のなかの次の一文を引用している。

人間はその生涯の間ずっと、自分を取り巻く人々からだけでなく、ノンヒューマンな環境からも次第に分化しようと絶えず闘い、他方この分化がなされた程度に応じてノンヒューマンな環境とも、仲間の人々と付き合うのと同じように、次第に意味深い関りをするようになる。

ところで、サールズが取り上げるノンヒューマンな環境とは何を指定しているのだろうか。そこには、たとえばウィニコットが取り上げた移行対象としての、乳幼児の身近にある物品も含められているが、それよりは広範囲に渡るもので、そのなかに、風景も含められている。また猫や犬あるいは馬のような動物、樹木、機械などがあげられている。サールズは心の健康にとってノンヒューマンな環境と関わることがいかに大切かということを示す身近なデータは豊富なのに、そのことに関する精神分析理論がほとんど未発達であることは驚くべきことだとしたうえで、身近なデータとして思い浮かぶことを次のように述べている。

庭作りが好きなこと。よく訪れる見慣れた自然を愛すること。ゴルフ、ボート、ハイキングなどの活動的なスポーツを楽しみ、肉体を通じて自然に接近すること。多くの人間の生活の中にペットが本当に重要な位置を占めていること。子供も成人もたくさんの人々が動物園に行って魅了されること。映画や絵や文字で表現された美しい風景に引きつけられたり、心の奥底からわきでてくる夢のなかの美しい景色に稀ならず魅惑されることなどがうかぶ。

サールズのフランス版序文より、もう一か所引用しておきたい。

チェスナット・ロッジにおける最も障害の重い患者たちと過ごした日々を思い出させる次のくだりは、私の心を強く動かした。
 治療期間中、彼女には、自動車が衝突したり列車がゴーゴー走り飛行機が墜落して、診察室の外の風景はもうメチャメチャに混乱していると体験する機会が、明らかにたびたびあった。それから何カ月も過ぎて、ある朝、私たち二人は肩を並べて椅子に座り、窓の方を眺めていた。その時のことは忘れられない、私が何かしゃべろうとすると、彼女は静かに制して、きっぱりと言った。「静かに!景色を見ていましょう。」そして、かって二人がもっていたあの静かなくつろいだ連帯感が戻ってきた。この患者の治療にたずさわって初めてことであるが、この時、ついに今私たち二人は窓の外の同一の静かな景色を見ているのだ、と私は感じた。


この文章は、風景が病的な展開のもとで、時に凄まじい変貌を生じて、自我侵襲的、破壊的に作用することがあることを、他方では自我保護的、自我生成的に作用するものでもあることを明示している。
                   *
サールズと同様に、自然や風景が人間の感性を形成する基本的な要素であることを論じているのは、アラン・コルバンである。コルバンはフランス歴史学のアナール学派に属する学者で、感性の歴史家とよばれる。「浜辺の誕生」、「音の風景」、「風景と人間」、「空と海」(いずれも藤原書店刊)などの著書で風景の歴史を論じている。

コルバンは、風景とは見られるものであると同時に読み解かれるものであるという。つまり、風景はそれ自体で美的な空間として存在しているのではなく、人間の欲動と関係して歴史的に読み解かれ、意味を付与されて構築されたものである。視覚だけでなく、聴覚や臭覚、触覚など、人間の身体や欲動の変化と連動して風景は変化するものである。というのがコルバンの風景に対する認識である。つまり風景はただ見られるというものだけではなく、それぞれに色があり、形があり、匂いがあり、音がある、そうして五感のすべてに訴えかけてくるものである。

彼は近代人がリゾートとして発見した浜辺の風景や音の風景を浮き彫りにする。特に浜辺は、1775年から10年ほどでイギリスのラッセル医師によって、治療目的での海水浴が推奨され、フランスへと広がっていった。さらに娯楽としての浜辺での滞在が一般化して、危険視されていた浜辺に風景の美が読み解かれていった。

「空と海」でコルバンが提唱している「気象的自我」「微小気候(地上1.5メートル位の接地気層の気候)」という概念に私は関心を持った。「気象的自我の形成は、風景画が感性の近代的な形式として、また空間との関係における主体の場として出現したのと同時期のことなのだ。」とコルバンはのべている。近代的な風景の発見と共に、気象的自我も成立しているのである。

その近代的な意味での風景は18 世紀末から19 世紀の前半のロマン主義時代に流行した風景画の中に見いだすことができることはよく知られている。

ジャン・ジャック・ルソー「孤独な散歩者の夢想」(1780年)のなかに天候に関する感性が洗練されていく様子が描かれている。ルソーは自らの精神状態と天候の変化を並行して観察している。それは、自我の不安定さ、その不均衡と空模様の間に相同性があるという考え方にもとづく現象である。なおこの時期に日記をつけることが広く流布していた。コルバンはその営みに関連して次のように述べている。

日々の季節の移り変わりによって規定される日記という形式そのものが、天候に関する記述を要請する…空模様と精神状態の絡み合いを把握することは、プライベートな領域を限定し、その内面を構築し、歴史の舞台から身を引き、時間を世俗化するための助けになる。

「空と海」より

                *

「H・NAKAI 風景構成法―シンポジュウムー」(中井久夫著作集、別巻1)
     1984、岩崎学術出版社

精神科医の中井久夫は気候を表わす言葉を用いて精神の状態を表現し、気象学をモデルに精神医学を語っている。同時に中井は風景構成法の創案者である。私はまったく勝手に、気象と風景を結び付けて中井久夫を捉えてみたいという思いがあるのだが、どうもうまくいかない。私の思いこみだけでおわりそうだ。

1969年に、中井は絵画療法の一技法あるいは、描画心理テストの一つとして風景構成法を創案した。それは、枠づけされた紙の上に、川、山、田、道、家、木、花、草、動物、生き物、岩、石、砂の十の項目とその他に付け加えたいものを順に描いて、一枚の風景画を構成してもらうものである。ここで描かれる風景は里山の風景とみなして良いだろうと私は思う。

先にタイトルをあげた著書は、山中康祐による編集で、多くの著名な論者による風景構成法に関する、すぐれた案内であり、論表であり、応用編である。中井は風景構成法が生まれたいきさつを述べている。

「空間の表象の精神病理」(伊集院精一著、2017、岩崎学術出版社)という、さわやかな読後感を与えられた書物のなかの「拡大風景構成法―統合失調症のおける空間表象の病理を交えてー」という章を面白く読ませてもらったのでふれておきたい。私は伊集院が風景構成法の一部として空を描かせる手法を考え出したことは知っていた。そのことに関しては、漠然と空が気象を表現するのには最も適したアイテムで、コルバンのいう気象的自我が自然と表現されるのではないかと考えていた。しかし、伊集院の試みはその点にあるのではないことが、この章を読んでわかった。

伊集院は、絵画療法の導入として「空」の風景と、「星空」の風景を描いてもらい、そのあとで、地上への回帰として風景構成法を描いてもらうようにしているとのことである。精神的視野を天象に拡げ、地象との関連を意識化させることによって、風景を包む天象・地象表現を探るとともに、重力感覚や上下左右感覚の回復などを促進させ、風景構成法で形づくられる構成的空間のもつ治療的側面を強化することを意図して作られた手法であると伊集院は述べている。
              *
「里山を宮崎俊で読み直す 森と人は共生できるか」、小野俊太郎、
  2016、春秋社

私は宮崎俊のファンである。宮崎俊の代表的なアニメの幾つかには里山や里海の風景が色彩豊かに描かれる。そしてその風景やそれを包み込む環境が、人間の欲望によっていかに破壊されたかを描き出す。各物語の展開の中で、人間の欲望が排泄したゴミによって大気や海の汚染が生じたり、森林の過剰な伐採が環境を破壊してしまった様が描かれる。

そのために我々は、里山や里海の問題点を物語の中だけでなく現実の事として引き受けなければならないという思いを喚起させられる。我々はなにをすれば良いのだろう。こういういい方はアニメに対する思い入れが過剰すぎると笑われそうだが。

宮崎俊もさすがにそれに関する展望を指し示しはしないが、かすかな希望は伝わってくる。もちろん描かれる問題点がゴミだけではないが、ゴミと侮ってはいけない、核のゴミをはじめ、海を漂うプラスティックのゴミ、大気を覆う過剰な二酸化炭素も人間の作りあげたゴミである。

小野俊太郎は、宮崎俊のアニメから、ゴミの問題も含め、里山や里海がはらむ問題点を読み取り、その背景を考察して、人間が森を中心にした里山や里海とどうすれば共生できるのかを論じている。

参照として、取り上げられたアニメの主なものは、「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「崖の上のポニョ」である。その他には「ルパン三世」「天空の城ラピュタ」、「千と千尋の神隠し」などがとりあげられている。

小野は本書のサブタイトルに「森と人は共生できるか」と掲げている。森は大切な人間の資源である。森は酸素を作ってそれを大気へ送り込む。森は貯えた水を浄化し栄養を与えて川の流れへと送り込む。川は田畑を潤し、海を豊かにする。そして、水は蒸発して風をはらむ大気へと上昇し雲となって雨を降らし森を育てる。水は里山と里海を結び付ける循環の働きをしている、また言うまでもなく水は生命と直結する大切な物質である。水がなければ生命は生まれなかった。水がなければ地球という惑星に現在のような独特の風景を生み出すことはなかった、そしてその風景を美しいと感じると同時にそれを破壊する人間という厄介な存在を生み出すこともなかった。

「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」、そして「となりのトトロ」でも森は重要な位置を占め、風や水や雲が重要な役割を付与されている。我が国はそうした大切でしかも豊かな森の管理に成功してきたとは言えない。むしろミスを重ねてきた、これからもそれを続けるのではないかとの心配もある。今後は真に人間の生きざまとマッチして持続性のある形で森を含めた自然を管理し、新たな里山や里海の風景が生まれてくることを期待したいものだ。その意味で「里山資本主義」(藻谷浩介、NHK広島取材班、2013、KADOKAWA)がうまく定着できるかどうかが問われることになるだろう。

ところで、1990年代に里山という言葉が復権し、里山ブームと言った様相を呈することとなった、その火付け役は、金森光彦の写真集「里山物語」(1995年)であると言われている。そうした関心の高まりを受けて、里山をめぐる学問的な研究も21世紀になってますます活発になっている。私はそうした研究の一端にも触れられている「里山という物語 環境人文学の対話」(結城正美・黒田智編、2017、勉誠出版)を面白く読ませてもらった。

里山に関してはもっと多くのことが語られる必要があるだろうがこのくらいにしておいて、私が一つ問題と感じていることを書き加えておきたい。それは若い世代が里山にどのような思いを抱くのだろうかということである。私のような年配者にとって、「里山の風景」はとても懐かしく、ノスタルジーを誘われて、もう一度その風景にじかに触れていたいという思いを抱かせるものであるが、いまの若い世代にとってはどうであろうか。彼らにとって生まれてこのかた最も身近な風景は「里山の風景」ではなく「都会の風景」であって里山は懐かしくも馴染みやすいものでもないのではあるまいか。。

 都会には高層ビルが立ち並びオフィス街やホテルや高級商店街や官庁街があり、コンビニやスーパーや商店やパチンコ店があり、病院や学校があり、住宅街があり、繁華街があって、物や人であふれている。ところどころに、狭い緑のオアシスがあり、街路樹が電柱と一緒に申し訳なさそうに立ち並ぶ。縦横に走るアスファルトの道には様々な車が行きかい、行きかう人々の目には色鮮やかなネオンや広告が飛び込んでくる。そして、聞こえてくるのは鳥の鳴き声ではなく街の騒音である。若い世代が生まれてこのかた彼らの生活の場として接してきたのがこのような都会の風景ではあるまいか。

そうだとすると、彼ら若者たちは中井久夫の「風景構成法」にすら戸惑いを感じるかもしれない。そのことは風景と精神の在り方の問題を考えるうえで、無視できない問題を投げかけることになるだろうと私は思う。しかも今や都会の風景の重要性は若者だけでなく多くの年配者に取ってもそうである。都会が示す風景にはジャングルや砂漠にもたとえられる厳しさもあるし、人や物が包み込んでくれる優しさもある、また目まぐるしく変貌する風景もある。

その都会の風景の中を歩き回る人はそこから深いインスピレーションを与えられる。街の風景に思い出を刺激され、あるいはありえたかもしれない過去や未来の記憶を夢想しながら歩き回ることも可能である。たとえば、「悪の華」のボードレールはパリという都会の風景から、「荒地」のエリオットはロンドンから、「ユリシーズ」のジョイスはダブリンの風景からインスピレーションをうけて創作をおこなったと言っても良いだろう。

ボードレールは背の高い、華奢な喪服姿の女とパリの路上ですれ違い、(彼女とは)もう二度と会えないだろう。(もしかすると)さぞ深く愛しただろう女なのに、そうとお前も知っていたのにと「悪の華」に記した。そうしたパリの街の遊歩者ボードレールを念頭に、ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論、第3巻」(2003、岩波書店)で次のように述べている。

 パリを遊歩者の約束の地にしたのは、あるいはホフマンスタールがかって名づけたように「まったくの生活だけからつくられた風景」にしたのは、よそ者ではなく、彼ら自身、つまりパリの人々なのだからである。風景―実際パリは遊歩者にとって風景なのだ。あるいはもっと正確に言えば、遊歩者にとってこの町はその弁証法的両極へと分解していくのだ。遊歩者にとってパリは風景として開かれてくるのだが、また彼を部屋として包み込むのだ。

パサージュ論、第3巻

おそらく遊歩者はその包み込む部屋のなかでもまた新しい風景を発見することだろう。部屋としての都会の風景、あるいは「生活だけからつくられた風景」にもう少し思いを凝らしてみる必要を私は感じる。
                  *

近年風景をめぐる考察は様々な形で活発になされている。ここでは、私が読んで印象に残ったいくつかの書物のタイトルと著者名をまずあげてみる。哲学的な視点の書物が多いのは、私の好みの反映である。

「風土の日本」(オギュスタン・ベルク)、「風景の論理 沈黙から語りへ」(木岡伸夫)、「新・風景論 哲学的考察」及び「風景の終わり」(思想、2010年2号)(清水真木)、「生命と風景の哲学」(桑子敏雄)、「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」(小林敏明)、「日本近代文学の起源」(柄谷行人)、「日本風景論」(加藤典洋)、「里山資本主義」(藻谷浩介、NHK広島取材班)、「ゲンロン0 観光客の哲学」(東浩紀)、「風景論 変貌する地球と日本の記憶」(港千尋)等である。

すべての書物についてのコメントはできないが、簡単に幾つか感想を述べてみたい。哲学者である清水真木の風景論はなかなか個性的である。ここでは彼の風景論を一つの物差しとして書かせてもらおうと思う。筆者の好みを表現しやすく思ったからでそれ以外の他意はない。それぞれ不十分な紹介であることを含めてお許しいただきたい。

私は清水の風景論を読みながら、共感とかすかな反発がないまぜとなる感情をあじわった。とはいえ、私は彼の基本的な風景の見方には賛成である。彼の見方からみた、人にとっての風景とは、その人の環境の中で地平としてあったものが意識の対象として認識され解釈されることで成立してくるものである。

雑誌「思想」に掲載された論文で、清水は「風景は老年のためのものかもしれない」と述べる。人生経験のすくない者にはかなわないものだとして、その意味を、「人生経験を積み重ねた者に対し、風景は、思いでの再生を可能にするばかりではない。ときには見るもの一人ひとりに思い出の本質を告げるからである」というのである。確かにそうであろう。しかし一方で私は若い人が彼の風景体験から得られるものも大きなものがあり、それがその後の人生に与える影響も無視できないことがあるだろうと思う。

恵庭公園を流れるユカンボシ川、水源も公園のなかにある
私が子どもの頃に遊んだ川である
今回訪れたのは中学時代以来のことで
川は当時と変わらない姿で流れていて
懐かしい思い出がよみがえった

清水はまた、ベルクや木岡の風景論に対して否定的な見解を述べている、彼の風景に対する感覚からすると分からないでもないが、私は賛成ではない。私はベルクの著書も木岡の著書も面白く読んだ。

東浩紀「観光客の哲学」(ゲンロン0,2017、株式会社ゲンロン)では風景のことが直接触れられているわけではいないが、観光はその一部にいやおうなく風景との出会いが含まれる。私は観光客と観光される現地で生活を営む人間が同じ風景をどう受け止めているかといったことや、観光の一つのあり方として現地での生活を体験することが近年では試みられていることに興味を惹かれる。東浩紀の記載からは少し離れるが、清水真木は観光に求められる美しい風景(ピクチャレスクな風景)を、否定的に評価している、その点に関しても私は別な見方もあってよさそうに思う。観光客は確かに絵葉書と同じ風景を、あるいは自分の観念の中の風景を見たがるものだ。しかしそこには風景の持つ一つの役割があり、あえていえば風景の一つの真実がある。しかも、観光客が求める風景に感じる美意識は時代とともに変化してきている。近年では旅人は旅先のごく普通の風景を楽しむようにもなっている。ともあれ、東の試みた観光を題材に哲学的考察を行うということは極めて現代的で意義深い試みである。

柄谷行人は、定本柄谷行人集1「日本近代文学の起源」(2004、岩波書店)の第一章で「風景の発見」について論じている。柄谷は国木田独歩が「武蔵野」や「忘れえぬ人々」において日本近代文学で初めて、ただの人が見るただの風景を描き、それを内面化したと評価している。このようなかたちで風景に向かう視線は清水真木にも見られるものである。
柄谷は近代文学の上での風景の発見に関して次のように書いている。

私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治20年代である。むろん見出されるまでもなく、風景はあったというべきかもしれない。しかし、風景としての風景はそれ以前には存在しなかったのであり、そう考えるときのみ、「風景の発見」がいかに重層的な意味をはらむかをみることができるのである。

柄谷がいう「風景としての風景」や、「風景の発見の重層的な意味」をここで十分説明することは難しいが、不十分ながら柄谷の説の要約を試みてみたい。柄谷は夏目漱石が「文学論」で取り上げている、文学と風景画の歴史を手掛かりに考察していく。

漱石は「文学論」のなかで、当時のネオ・ロマン主義的文学の内面性や自我を強調する文学と、対象の写実を重んじる自然主義文学との間で自分の文学がどうあるべきかを悩んだすえに、西洋的な近代文学の認識のあり方に問題があると考える。漱石はロマン派とリアリズム(自然主義)を対立的にとらえることに疑問を呈し、文学には西洋文学がたどったとはまた別な文学の可能性があってよいのではないかと考える。それは絵画史において絵画の歴史が無数無限にありうると言ってもよいのと、同じことだと漱石は述べる。

柄谷は漱石の「文学論」をもとに、風景画の歴史をひもときながら、風景にかんする認識の変化と文学の認識の変化を併行させて考察する。そのうえで国木田独歩によって、風景としての風景が内面化した形で描かれたこと、そこには一つの価値の転倒があり、近代の日本文学が風景を発見した起原があると述べる。
 
独歩が「忘れえぬ人々」で描いた風景は孤独で内面的な状態と密接に結びついている。この作品での忘れえぬ人々とは、「人」というよりは「風景」としての人間である。主人公にとってこれまでの重要なかかわりのある忘れてかなうまじき人物ではなく、風景のなかの顔もよく知らない人物が忘れえぬ人々として浮かんでくるのである。独歩は「ただの風景」が実際の風景の対象に関しては無関心な内的人間において始めて見出されるという転倒した様子を表現したのである。このことは、人々が美しいと描く風景の対象にリアリズムを感じていても、美そのものが対象の風景の中にあるのではなく、それはもともとロマン派的な転倒の中で生じたことなのだということと同じである。つまりロマン主義時代の風景画も風景としての風景が内面化して描かれたものなのだ。このように私は柄谷の説を理解した。

柄谷の「風景の発見」を受けて、加藤典洋「日本風景論」(2000、講談社文芸文庫)の中で「武蔵野の消滅」という一章をもうけて論じている。

加藤は柄谷が内面化したという風景も目を開けていればそこにその風景は確実に存在している。また漱石は西洋の文学を疑いながら、文学から離れたのではなく文学に従事した。ロマン派でも自然主義でもない漱石の文学という第三の文学がある。そういう視点から考えたいと述べている。

加藤は独歩が内面化した「ただの風景」がその後どのような展開を示したかと問いかける。

独歩が「忘れえぬ人々」を書いた4年前に志賀重昂が「日本風景論」を書いている。この本は、日清戦争に勝利した直後の日本人に熱狂的に支持されてベストセラーとなった。志賀が提示した探勝的風景は「日本三景」的な名所的風景から富士山を中心に「日本アルプス」のような西洋的風景へと転換するものであり、多くの若者を登山に誘うものであった。

「ただの風景」はそうした「探勝的風景」の認識の変化のかたわらで、少しずつ人々の間で広まり、「生活的風景」として観光旅行者のための風景でなく、定住者的審美の対象として受けとめる態度を人々に要請するようになる。

加藤はその「ただの風景」が「日本風景論」から四分の三世紀をへて、日本にもう一つの大規模な景観意識の変化を起こすことになるという。

それは高度成長時代をへた1970年の秋から始まる旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンによってもたらされた。「生活的風景」とみなされていた「ただの風景」の「探勝」化として、奇異な事態を進行させたというのである。
キャンペーンは都会の若い女性を地方への旅に誘った。その旅は探勝化した地方の「ただの風景」を前にして自分が深く変わってしまっていることを確認することになるものであった。

地方の「ただの風景」の発見の次に続いたのが,都市の風景の発見、特に東京の発見であったのは必然であると加藤は述べる。
1980年代に「東京の発見」がふいになされたと加藤は主張する。地方人の視線にさらされてきた東京は、探勝的風景でもなければ、見慣れた生活的風景でもない、未知の風景となっていることを、そこに居住している都市生活者が発見したのだという。加藤はそれを表現しているものとして、歌謡曲では糸井重里が作詞し、加藤邦彦が作曲して沢田研二が歌った「TOKIO」があり、小説では田中康夫の「なんなく、クリスタル」や日野啓三の「夢の島」があると主張して分析している。私は沢田研二が歌った「TOKIOが空を飛ぶ」というフレーズを思いだして、加藤の主張が少し腑に落ちる気がしている、しかし未知の風景とは何か、東京に住んだことのない私にはやはりわかりずらい。

「文学」や「絵画」に関して門外漢の私はこれ以上のコメントをすることは避けたいと思う。ただあえて国木田独歩が触れていた風景も現在は極めて様変わりしたものなっていることについて触れておきたい。

国木田独歩は北海道にわたり空知川の岸辺に大自然を発見して感嘆している。私はその地に30年近く住んでいたのだが、その地、あるいはその地の周辺は現在ひいき目に見ても北海道らしい雄大で崇高な原始林が織りなす風景の面影はわずかしか残っていない。その地での主な風景は、日本のどこにでも見かける少しさびれた小都市の風景であり、過疎にあえぎながらも、見た目は都会化した農村や元炭鉱町で生きる人々の風景である。

このような言い方で、もちろん私は今の空知川周辺の風景を貶めようと言うつもりは全くない。そこは私にとって第二の故郷と言える大切な場所であり、その風景は私にとってはあえて言えば「ただの風景」であると同時に「特別な風景」である。

空知川の岸辺の風景が様変わりしたように、武蔵野の風景もまた様変わりをしている。武蔵野の昔の風景の面影は「となりのトトロ」に描かれていると言われている、そのようにして接する風景もある。

風景は発見されるものであり、消滅したり変貌したりするものでもある。しかし、同時にまた新たに発見され続けられるものでもある。特にこの人新世と呼ばれる、人間の影響が及ばない野生の自然が消滅した、ポスト自然の時代の風景はますますめまぐるしく変貌していくことだろう。風景は変貌しながら人と共にずっとあり続けるものである。しかし、現在は地球の温暖化の影響でその変貌が人間の生活を脅かすまでになってきていて、そのことに対処する行動が要請されている。
温暖化の影響が最も見やすい形で表れるのは身近な風景の変化である。

写真家である港千尋「風景論 変貌するは地球と日本の記憶」(2018、中央公論新社)は東日本大震災後の日本や世界の風景の再発見ともいえるもので、たくさんの素晴らしい写真と共に考えさせられる見事な文章によって、私はまた良書と出会えた喜びを味わった。

最後に大岡信「日本の詩歌 その骨組みと素肌」より、日本の和歌のなかでとりわけ重要な恋歌と風景に関する記述を引用させてもらって、このノートをいったん閉じることとしたい。それは柄谷行人とはまた異なる視点からみた日本の文学的風景論である。
これまで見てきたように、風景が多彩であるようにその見方もまた多彩である。

 まさしく一民族の文化を最もよく要約して示すのは、その民族の詩歌です。それが日本の場合には、他の何にもまして、恋の詩歌であったわけですが、すでにくり返し触れているように、日本では、恋歌がそのままの姿で風景詩でもあれば自然詩でもあったところが、たぶん世界のどこにも見られない独自の性格だったのです。
 これを裏返して言えば、日本では、風景や自然を歌う「叙景歌」は、じつは本来恋心を歌う「抒情詩」として機能すべきものである場合が多かったのです。「万葉集」や「古今集」のごとき、最も古い、それゆえ最も基本的な和歌の選集において、とりわけその性格は顕著です。
  こういう叙景と抒情の一体化時代は、古くは七世紀ごろの和歌以来大いにさかえ、十二世紀末までの平安時代を通じて、衰えることはありませんでした。
 
 風景を純然たる風景としてとらえ、その動きや静止、光と影の多彩な変化、季節の推移その他を、まさに十九世紀印象派画家の先駆者ともいうべきみごとな自然把握によって示してくれた一群の自然詩人たちが現れるのは、平安時代が幕を閉じ、武士を新しい主人公とする鎌倉時代が始まって約一世紀が過ぎた十三世紀末、十四世紀前半の時代です。

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