『マネーボール』~俗世で生きる苦悩とその喜び~
いきなりだが、皆さんは映画『マネーボール』をご存知だろうか?
この映画は今や野球ファンにとってはおなじみのセイバー・メトリクス理論(ひと言でいえば、統計を駆使して勝利の確率の高い選手・戦法を使う戦略のこと)を用いて、弱小金欠球団であるオークランド・アスレチックスのGM(ゼネラルマネージャー)である主人公ビリー・ビーンが当時のMLB記録となる20連勝を達成し、リーグ優勝するさまを描いたドキュメンタリーベースの映像作品である。このように語られることが多い本作であるが、しかし、この作品が持つ凄みはそこだけではない。言ってしまえば、それは物語の表面上において起こっている出来事に過ぎない。私からみれば本作の奥深さは、セイバー・メトリクス理論を実践してみせたビリーとその参謀のピーターの手腕、弱者が強者にギャフンと言わせる気持ちよさ、でもなくビリーという人間の葛藤を克明に描くことによって、悩み・苦しみもがいた先で初めて己の感情を自覚し、自らの決断を下す姿(それは決して手放しで称賛できる美しいものではない)を丁寧に描写しているところにこそある。だからこそ、本作は多くの人(=野球にそこまで関心がない人)の心に響くだけの力を持っており、これこそが私がnoteを執筆するに至った大きな理由でもある。本エントリーでは、あまり表立って語られていない本作のすばらしさについて存分に語っていきたい。
マネーボールの魅力を語るうえで絶対に欠かせないのは、主演であるブラッド・ピットの演技力と製作サイドの意図である。これも意外と知られていないような気がするが、野球にさほど関心がないブラッド・ピットが本作の出演を決めたことには大きな理由がある。そのことを象徴するのが、日本での上映記念に来日した際の以下の発言である。
ちなみに、この会見時に「実は野球にそれほど関心がなかった」という発言もしているのだが、これは日本に来た彼のリップサービスでもなんでもなく、彼の本心と考えるべきだろう。ソースが見つからなかったのだが(確か、本作に関わるインタビューか何かだったはずである)、彼は幼少期にフライボールをキャッチする際に誤って頭にボールを当ててから野球が嫌いになった、とどこかで語っていた。それ以来、トラウマになって野球は全くしてこなかったブラッド・ピットが野球映画の主人公として出演するまでに至ったことにはそれなりの理由があってのこと、と考えるべきだろう。
また本作はある事情で一度制作が中止になってしまったらしいのだが、それでも多忙であろうブラット・ピットが自身のスケジュールを調整してまで出演を果たしている。彼のような忙しい人間はおそらく年単位でスケジュールが埋まっているはずであり、本作出演にあたってそれなりの苦労があったことは想像にたやすい。こうした背景からも、彼の本作出演に対する熱意がいかに強かったのか、ということがこのコメントからも見えてくる。
先ほど引用したブラッド・ピットのコメントは、私がマネーボールに感動した点をまさに端的に言い表しているのだが、本作のSNSでの感想をみてみると、彼の意図が全く伝わっていないような反応(セイバー・メトリクス理論がいかに素晴らしいかという感想)が多く、本作を統計理論を実践に持ち込んだ成功哲学として語られがちである。私の観測範囲ではこうした反応はいわゆる「意識が高そうな」ビジネスエリートの方に多かった。なお、海外の感想をみると本作の核心部分が胸に響いている人も多く、なぜ日本人にはこの作品の"よさ"が伝わらなかったのだろう、と個人的にはとても残念な想いが強い。この作品と主演であるブラッド・ピットのコメントが意味するものはそもそも一体なんであるのか、については後ほど語るとして、まずは本作の主人公ビリーの心情をくみ取ることの難しさについて少し考えてみたい。なぜなら、彼の心情をくみ取ることができたかどうかで本作の評価は180度変わってしまうし、何よりもブラッド・ピットのコメントが意味することにも大いに関係しているからだ。
主人公ビリー・ビーンの心情をくみ取ることの難しさ
このことについて語る前にまずは本作のあらすじを簡単に確認しておく。
基本的にはあらすじの通りであるが、すでに述べたように本作はマネーボール理論で弱者が強者にギャフンと言わせ、視聴者にスカッとするタイプの感動をもたらすような話ではない。実際にはそれとは異なることを強調しておく必要があるだろう。また、紹介文ではビリーの熱い信念と記述されているが、この信念もわれわれの多くがイメージしがちなスポコンの熱い信念とは全く異なるものである。
多くの日本人が懐く「スポーツ作品の熱さ」とはこの動画のような「ペップトーク」(指導者などが選手を励ますためのトーク)のようなものであろうが、本作のビリーの熱さはこうした判りやすい強い高揚感のある「熱さ」とは異なるものであることは強調しておく必要がある。われわれ日本人の野球ファンにとってペップトークといえば、2023年度WBC決勝(アメリカ戦)における大谷選手の「ペップトーク」が記憶に新しいところだ。彼のペップトークはアメリカのスター軍団(アメリカの野手に関しては本当にオールスターのメンツであった。なお、投手に関しては・・・)に対して意識の部分から引けをとることがないように、日本代表の選手達を励ます素晴らしいもの(海外メディアからも称賛されもの)であったことは多くの方がご存知の通りだ。)一言だけ添えておくと、本作にも主人公ビーンがペップトークらしきものをするシーンが一応存在するのだが、それはこのラグビー監督のような熱さではないし、その場面は本作の目玉のシーンでもなく、それは日常のGMの業務のひとつとして描かれているに過ぎない。
したがって、いわゆる「スポコン」作品を観るような気持ちで本作を視聴した方の多くが肩透かしを食らったような感覚を懐いただろう。また、(ここが重要なところなのだが)実際に作中のビリーの外側に映しだされた表面上の行動だけをみても、彼の心情を理解することは難しい。なぜなら、外側に見える彼の行為は社会人の一般常識からすれば、とんでもないものばかりであり、そこだけみると簡単に「ただのヤバいやつ認定」(ここでいう「ただのヤバいやつ」とは、あらゆる人間に(無意識に)火の粉を振りまきながら歩いていく存在のことである。さらに言えば、彼らと関わるだけで(自らに対して)危害(≒事故)が発生する可能性が高いために、関わるのをやめておこう、というわれわれの多くが生存戦略の為に無意識にやりがちな「アレ」の対象となる存在のことである。)ができてしまうからだ。例を挙げればきりがないが、ここで代表的なものを少しあげてみる。
基本的に選手とコミュニケーションをとらない(例:解雇、トレード等の連絡の際に事務連絡のみを選手にする。その理由は選手に話さない)
自チームの試合は球場で観戦しない(ジンクス)
試合を生で観戦することはしない(=ジンクス)代わりに試合中はウエイトルームで自分のトレーニング(ラジオで実況を聞きながら)。
自分の支持(選手の起用法等について)を聞かない監督に対しての強行的対抗(これに関しては是非とも実際に視聴いただいて確認していただきたい。)
癇癪持ちもビビって逃げ出してしまうほどの癇癪持ち(自分の思い通りにいかないことがあればすぐに物に当たる。そしてそのあたり方がすごい。私が今まで見てきた人物の中(創作、リアル両方含む)で一番の癇癪持ちである。)
娘に対して「自分以外の人間と連絡をとるな」と、到底実現不可能な無理難題を真剣な表情で伝える
全部解説するときりがないので、私のお気に入りの5.のシーンについてだけ一言。冒頭で前年度のPS(作中ではア・リーグのチャンピョンを決めるシリーズ)の対ヤンキース戦の録音を聞き、怒りのあまり車のドアにラジカセを6度ほどたたきつけた後、窓からラジカセを放り投げるシーンがある。物語冒頭から癇癪持ちが発揮されるほど本作のビリーは圧倒的な癇癪持ちであり、彼の性格がわかりやすく表現されている場面である。また、このシーンだけでなく作中の3割程度は彼の「怒り」の感情で占められているといっていいだろう。ちなみに、私もそこそこ頭のおかしい側の人間なのか冒頭のこのシーンが大好きである。またもちろん、この怒りの演出には大きな理由がある。これについては後ほど言及したい。
このように客観的に彼の外側に出ている行動を記述してみると、ただのならずものでは…というふうに見えてしまう。したがって、彼の外側に出ている行動ではなく、彼の心情(=内面)をくみ取ることができなければ、己のやりたいことを好き勝手やっている(ようにみえる)とんでもない癇癪持ちで負けず嫌いな見た目のいい中年おじさん(実際のビリー・ビーンさんの画像をみていただければわかると思うが、なかなかにイケメンである)の物語のように感じられ、「これの何がそんなに素晴らしいんだ」という感想を懐くことは必然であろう。こう改めて文章に書きおこしてみると、映画のビリーはとんでもない人物である(笑)。しかしながら後述する理由により、はたから見ると「どうしようもないやつだな」と感じてしまうビリーの気質を描くことによって、ラストシーンの感動がより一層ますわけである。
作中でのビリーの心情①
この映画をしっかりと視聴していればある事実に気づくはずである。それは、彼が常に「悩んで」おり、自分自身に対して「自信がない」ことである。そして、この映画が視聴者の胸に響くかどうか、そして冒頭のブラッド・ピットの発言の意味を理解できるかどうかはここに気づいたかどうかにかかっているといっても過言ではない。すでに映画を視聴済みの一部の方からは「(上述した彼の傍若無人な姿を思い出し)何を馬鹿なことを言っているんだ?」と言われそうであるが、少し待っていただきたい。後述する理由により、この映画を丁寧に観ていれば、こう解釈するのが自然であることがわかるし、そのように意図的につくられている。そして、こう解釈することで上述した一見すると異常にも思える彼の行動にも得心するのである。
ビリーは物語序盤で後に彼の右腕となるピーター・ブランドと出会い、貧乏球団であるアスレチックスが勝つための手段としてマネーボール理論(セイバー・メトリクス理論)に可能性を見出し、実践していくことになるのだが、前例のない理論を実践に移していく中であらゆる障害にぶちあたることになる。そして作中でマネーボール理論を実践に移していく中での障害に出会う度、ビリーが頭を抱える(一人で考え込む)シーン、一人で黄昏るシーンが頻繁に挟まれる。冗長なシーンが全くといっていいほどない本作では、セリフのないこのようなシーンは短尺となっており(ビリーが頭を悩ますシーンと対比するように、本作ではビリーの優れたGM手腕の象徴として描かれる会話による対人との心理戦の場面も多く、すでに述べたように視聴者の感想はこちらの方のばかりが目立つ。)、さらっと流して観てしまった方も多いかもしれないが、ここが本当に重要なシーンである。ちなみに彼の内面がはっきりと外に出ているのは、こうしたひとりで黄昏ているシーンと終盤のある場面くらいである。このような演出上の理由により、ビリーという人間について理解する上で、彼の一人で黄昏ている時の場面が本当に重要になってくるのである。そして、一人で黄昏ているシーンの後には、必ずと言っていいほど「大声で怒鳴る場面」や「他者に対して強く当たる場面」がまるでワンセットであるかのように続く。また、これは余談だが、こうしたワンセットのシーンの後に彼の娘と会う場面があり、そこで娘が開口一番に「Are you ok, dad ? (お父さん、大丈夫?)」と発言するシーンがあるのだが、このシーンを観るたびに私は思わず声を出して笑ってしまう。こうした己の反応を俯瞰してみると(どうしても俯瞰的に見てしまうのが私という人間である)、私という人間は本当に性格が悪いと心から認識させられる。では一体なぜ、傍若無人で暴力的(?)にみえる彼がひとりで黄昏るシーンがこれほど頻繁に挟まれているのだろうか。
察しのいい読者の方の予想する通り、作中のビリーが黄昏れていたり、一人で頭を抱えるシーンこそが彼の本心(心の声)だからである。こうした自らの本心に飲み込まれることを避けるため、自らの「悩み」や「自信のなさ」をごまかすように、そしてそのようにして自らの信念(セイバー・メトリクスの実践)がぶれることがないよう、意図して他人に対して強く当たっているのである。私も作中のビリーと似たようなタイプの気質を持つ人間なので、実感としてもとてもよく理解できるのだが、自分に自信がない人間が自分の信念を貫こうとするとき、自らの信念を貫く「恐怖」を拭い払うため、外部に対して強い言葉を放つことによって何とか己を奮い立たせようとする振る舞いは、よく使いがちな方法である。これはある種の処世術のようなものである。またこうした彼の姿から見えてくるのは、一見すると暴力的にも見えるシーンの多くが彼の「虚勢」からきているということである。自らの弱さを覆い隠すように、他者に対して(必要以上に)強く当たるという点に関して言えば、今のSNS社会において多くの人が「弱者」として定義している姿そのものである。ただし、ここで注意しておかなければならないのは、SNSでよく言われがちな弱者の自らの「満たされなさ」をなんでもかんでも他者に対してまき散らしているわけではない。彼の場合はマネーボール理論をいかに野球界に取り込み、弱小チームを勝利に導くのか、という目標を達成するために必要なことを実行するために動いている(論理的であるといってもいい)ことは間違いない。だからこそ、多くのビジネスエリートが本作を支持するわけである(こんなことは説明する必要はないかもしれないが、念のため)。このようなビリーの「弱さ」は私の以前のエントリーで言及した「育ちが悪い」(≒世界や他者に対する基本的信頼感が低い)人間が持ちがちな気質でもあり、ビリーほど「育ちが悪い」人間にはなかなかお目にかかれないほどである。
しかし、本作ではこうした彼の「弱さ」や粗っぽい姿がとても人間味があるものとしてうまく演出されており、だからこそ、傍若無人に見えがちな彼の振る舞いであっても、われわれ視聴者をビリーに感情移入させることに成功している。そして、なによりも彼のこのような「弱さ」を丁寧に描くことによって映画終盤における味わい深い感動的なシーンをより一層引き立たせている。これは、主人公ビリーの内面を直接語ることがなく、外側に映る行動や振る舞い、そしてブラッド・ピットの高い演技力によって彼の内面を丁寧に表現している本作だからこそだせるものであり、製作陣の演出力の高さには感服するものである。実際、本作は第84回アカデミー賞にノミネートされており、ビリー役のブラッド・ピットは主演男優賞を相棒のピーター役のジョナ・ヒルは助演男優賞にノミネートされている。こうした受賞歴が本作がビリーの心の機微を丁寧に描くことに成功していることの証明にもなっている。
作中でのビリーの心情②
既に述べてきたビリーの「虚勢」や彼の「勝利への執着心」(ビリーは映画冒頭からものすごい熱意で勝利にこだわっている。それは球団代表との一連のやり取りからも明らかである。)は過去の決断とそこから導かれた彼の強烈な挫折経験に由来している。それは、作中で何度も回想シーンとして出てくる「(スカウトに丸め込まれて)スタンフォード大学の推薦を蹴って高卒でプロに入団するという決断」の失敗によってもたらされた勝利への強い執着心であり、「現役選手時代に全く活躍できなかった」強烈な挫折経験である。これが彼の「育ちの悪さ」に拍車をかけただけではなく、彼の癇癪持ちをより一層強めたのだろう(現実のビリーも若い時から短気な性格の持ち主だったようだ)。ビリーは高校時代にニューヨークメッツ(MLBの球団のひとつ)から高額の契約金を伴うドラフト1位で指名され、そのオファーを受け取った過去がある。しかし、プロ選手としては全くと言っていいほど活躍できなかった。したがって、彼は当時のこの決断を深く後悔している。また、彼はスタンフォード大学からは奨学金付きの入学のオファーもきており、こちらを選択すればプロ選手になる前に学歴を手に入れ、大学野球の結果をもってプロ入りするか、サラリーマンとして就職するか決断することができた。本作ではこの2点がとても強調されて演出されており、その証拠にことあるごとに現役時代に活躍できなかったシーンとプロ契約を結ぶシーンが彼の回想として何度もリフレインされる。ビリーは物語終盤までこのトラウマに悩まされ続けることになる。
既に述べたように、ビリーはスタンフォードの奨学生の話もありながら、プロスカウトの甘い言葉に騙され(?)プロに入ることを自ら決断した。ちなみにこの際に両親を含めた場でスカウトと話をしているのだが、父親からは「Billy, this is your decision, and whatever that decision is......you know it's fine with your mother and I.(ビリー、これはお前の決断だ。どのような決断をしようと母と私は尊重するよ)」、と言われている場面はいかにもアメリカらしい子供の選択を尊重する場面である。こうして自らの意志でプロ選手の道を選んだビリーであったが、彼はプロ選手として大成することはなく、そこで活躍できなかった過去の自分の決断を振り払うかのように、自主的に選手を引退した(選手が自ら引退を申し出て、スカウトに転属することは通常あまり聞かない例(ただし、アメリカの場合はスター選手が40歳頃に家族との時間を大事にしたい、という理由で引退する例は最近は増えているが、それもレアケースであることには変わらない)である。それもそのはずで、彼らはプロ選手として活躍するために入団したわけで、球団からクビを宣告されるまでその夢に向かって限界まで挑戦する選手がほとんどだからだ。改めていうまでもことかもしれないが、多くのスポーツファン(野球ファンを含む)はその洗練されたプロ選手の技術を観るだけでなく、このように夢に向かって努力する選手のひたむきな姿に胸をうたれ、感動するのである。こうして選手を自主的に引退したビリーは必死になってスカウトとして結果を追求し、その成果として若くしてGMという球団編成の最高クラスの職にまで上り詰めた(時間軸としてはここまでが映画前の話である)。したがって、彼の今の地位(GM)を支えている結果主義ともいえる価値観を安易に捨てることはできないし、だからこそ、当時はまだ有名ではなかった低予算で勝利を獲得する見込みがあるセイバー・メトリクス理論に興味を示し、そこにかけていったわけである。実際、作中でも「これ(セイバー・メトリクス理論)にかけるしかない」とピーターに話すシーンがあり、彼の気質的な弱さを抱えながらも強い意志(セイバー・メトリクス理論の実践)を示している象徴的シーンである。
このような内面に基づく彼の行動を分析して見えてくるのは、彼は決して「強い人間」ではないということだ。彼自身が強い信念(マネーボール理論の実践)を持っていることは間違いないが、それと同時に、彼の弱さも確認することができる。
ビリーの癒しとなり、作品のキーパーソンである娘の存在
ここまで本作のビリー・ビーンに焦点をあてて述べてきたが、本作の魅力を語るうえで欠かせない人物がもう一人いる。それが彼の娘の存在である。本作においてビリーは離婚しており、娘は妻の側に引き取られているが、定期的に娘と面会している(現実のビーンも離婚しているが、すでにこの時には再婚していたようである。ただし作中では再婚はしていない設定である)。なお、彼の娘との面会にあたって前妻とその婚約者と談話するシーンがあり、12歳の娘に携帯を持たせていることについての一連のやり取りなどをみると、アメリカのこのような文化は本当に素晴らしいものだなぁ、と私などは思ってしまう。ビリーと娘とのやり取りのシーンは決して多くは存在しないが、この時間はビリーにとって、マネーボール理論の実践という大きな戦いの中でのつかの間のひと時を与えてくれるシーンであり(それ以外のシーンは殆どセイバー・メトリクス理論と既存野球界の常識に対する戦いの描写となっている)、彼女との交流が彼の心の大きな支えとなっている。
本作においてビリーの娘の役割は本当に重要であり、彼女が作中で『The Show』という曲を歌うシーンが何度かでてくる(そのいずれのシーンも作中において非常に重要な役割を果たしている)のだが、本作のメッセージはこの曲の歌詞の中にほとんど含まれている、といっても過言ではない。そして、それは私たち大人が忘れがちなことを子供たちは無意識に理解している、ということでもある。少しネタバレになるが、映画を最後まで視聴した方は作中でのビリーの娘の発言を思い出し、彼女こそがビリーの抱える問題の本質をつかんでいたことを知ることになる。この問題は社会で生活を営む多くの大人たちが抱えている問題でもある。この問題についても後程、丁寧に述べていきたい。
長々と説明してきたが、やっと前段が終わったといったところだろうか。ここまで長々と説明してきたのは、終盤における感動シーンと冒頭のブラット・ピットの言葉を理解するには本作の背景の説明が必要不可欠だからである。ここからは余すことなく全力全開で本作の魅力を語っていきたい。
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ここからネタバレを含みます。未視聴の方は視聴後に拝読してください!!
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さて、ここからはネタバレも含むということで全力で本作の魅力について語っていきたい。
本作の魅力を語るうえで、本作の中盤から終盤の物語を語ることが必要不可欠なので、少し長くなってしまうが簡単に説明させていただく。本来であれば、このようなシーンを語ること自体が野暮ではあることは百も承知なのだが、皆さんに本作の良さを知っていただくために、あえて言及することをご承知いただきたい。
まず注目していただきたいのは、20連勝のかかった試合でのビリーの行動である。そもそもの話であるが、娘から「You're not gonna jinx it (ジンクスは忘れて)」と指摘されているようにセイバー・メトリクスという統計学に基づいた合理的理論を支持し、作中序盤(マネーボール理論を知る前)から合理的判断の気質を強く見せていたビリーが反合理的であるようなジンクスを強く信じていることはおかしいだろう。ただ、これについても理由ははっきりしており、すでに述べたように彼が根本的には「自信のない人間」であることに由来している。自分自身に自信がないからこそ、何かに強くすがって脆い自分が崩れること(信念が揺らぐこと)を防いでいるわけである。そして、車内で20連勝のかかった試合の実況を聞いた後、車をUターンして急いで球場に向かうわけだが、このシーンは彼の心の中で20連勝を生でみたいという欲望がジンクスに打ち勝った、ということを意味している。しかし、この時点では彼自身はこの感覚については無自覚であった。このことが意味することは非常に重要である(これについては後ほど解説します)。
そして、ビリーが試合を視聴した途端にアスレチックスの雲息が悪くなり(実際に天候も怪しくなる)、彼はジンクスを思い出し、すぐに球場の裏側に引っ込んでしまう。しかし、ここで冷静に考えていただきたい。野球を知っている方ならすぐに同意いただけると思うが、11-3の時点でダグアウトに消えてしまうのはさすがに豆腐メンタルすぎるのでは(?)という気がするのだが、これもまた彼のトラウマの大きさ(=自信のなさ)を示しており、彼の自信のなさからもたらされる「不安」がとても素直に出ているシーンである。そして、なんとか無事に20連勝を決めたハッテバーグのサヨナラホームランの後にトレーニングルームで一人むなしく虚空にガッツポーズをする。ここのシーンの一人で虚空にむなしくガッツポーズをする映像は彼がいかに「孤独」であるのかを物語っており、個人的にとても好きなシーンである。このように、本作はビリーの内面がはっきりでるシーンにおいては徹底して言葉でその心情を語らない手法を貫いている。この高度な演出によって、映像を通して視聴者に彼の本心を伝えることに成功しているし、最後のシーンの感動をより一層ますことになる(くどいようだが、大事なことなので何度でも伝えたい)。さらに付け加えると、本作はハリウッド映画にありがちなド派手なアクションは全くない。登場人物の立ち振る舞いや演者の無言の芝居によって人間の心の機微を丁寧に描き、このことに成功しているという意味で、本作はとても上品な映画なのである(ビリーが癇癪持ちであるかどうかは関係ない、念のため)。今、このエントリーを書いている中で初めて気がついたのだが、私は実写映画においてはアクションものよりも人間のリアルな心情を描く写実的な映画が好きなのだろう。ここまで偉そうに本作の映画としてのすばらしさを語っておいていて何なのだが、私が最初から最後まで視聴できた実写映画は20本程度しかない映画難民である。なお、ドラゴンボール、ジブリ、ガンダムをはじめとするアニメ映画は30本以上みているが、アニメ映画と実写映画を同列にかたることは乱暴であることは、映画難民の私でも理解できる。今更ではあるが、このような映画難民が書いている映画感想という前提で読んでいただければ幸いである。
PS敗退後、ビリーはピーターとのやり取りにおいて、上述したように「お金で人生の決断をしないと決めた」「貧乏球団が金持ち球団に勝てば世界が変わる」「これこそが目標」というようなカッコいいことを言っている(実際、ブラッド・ピットの演技もあってカッコよく見えるシーンであるように演出されている)にも関わらず、レッドソックスから高額のオファーがくると天変地異でもおきたのか、というくらい深刻な表情で悩む姿をみせる。普通に考えてこれはおかしいことは一目瞭然だろう。お金で人生を決めないと決断した人間が、自分の目標を捨てて(金持ち球団でGMをやること)、お金に流れて金持ち球団に行くことは言っていることと、やっていることが余りにも乖離している。もちろん、ピーターの言うとおり「金額の示す価値(=ビリーの業績)」には意味があるが、そのことはオファーを受けることとイコールではない。お金が示す価値には意味があるが、それを受けとり、金持ち球団でGMをやることは彼の目標(貧乏球団でWS制覇)とは正反対の道にあり、その行動をとってしまうことは彼のトラウマを再び繰り返すことになることは想像にたやすい。
ではなぜビリーはこのように矛盾するような言動をしてしまうのだろうか。これまで述べてきたように彼の「自信のなさ」、「過去の挫折体験」なども当然関係しているが、何よりも彼が自らの心の声に気づいていない(自覚していない)ことが一番の要因である。それは、この前のシーンの20連勝のかかった試合で車で移動するシーンと最後の車で移動するシーンが象徴的に対比されていること、そしてBGMとして流れる娘の歌う『The Show』という曲の歌詞からもそう解釈することが自然である。前者(20連勝のかかった試合での移動シーン)のシーンではサングラスをかけているが、後者のシーン(ピータとの会話の後の帰路のシーン)ではサングラスを外している。有名人などがサングラスをして素顔を隠すように、サングラスには何かを隠す意図がある。そして、本作においてもサングラスによって何かが隠されていることを示している。では一体何を隠しているのだろうか。もうお気づきであると思うが、このサングラスによってビリー自身の心の声が隠れていることを表現している(本作は全編を通して、演出側のこうした工夫によって彼の心情が視聴者に伝えられれている。)。そして、言うまでもないことであるが、この場面においてビリーは勝利のジンクスではなく、その後(metaphorの動画を観る場面)のピーターのコメント「How can you not be romantic about baseball ? (どうして人は野球にロマンティックにならずにいられるだろうか?(いや、ロマンティックにならざるを得ない)」の方を選んだわけである。
繰り返しになるが、彼はこの時点では自らの心の声に気づいていない。そして、『The Show』の歌詞においてもこのことを強く示唆する部分がある。作中でも流れた歌詞の部分について引用する。
この曲はまさに本作のためにあるのではないか?(実際にはLenkaさんという女性シンガーの曲です。したがって、女性が主人公の歌詞となっていいます。)と錯覚するほどである。これ以上、私が何か付け加える必要もないような気もするが、説明を続けていく。確かに、ビリーは口では自分の目標についてカッコいいことを言ってはいるものの、ピーターとの会話の場面において放った彼の言葉(上述参照)はあの時点では彼の「虚勢」からくる言葉であった。つまり、あの時点では彼自身の自己認識としてはいつものように強がった振る舞いの中のひとつであり、だからこそさらっと語れているわけである(重みを感じず、軽い発言のように聞こえる演技をしている)。こうした態度をまさに適確に示しているのが「私は戸惑う女の子、怖いけど、すまし顔」という『The Show』の歌詞であり、それに加え、先に述べた終盤の移動シーンにおける象徴的に対比されたふたつのシーン(特に前者ではサングラスをかけており、自らの心の声に気づいていない)からも推察することができる。そして、このような背景があるからこそ、そのあとのレッドソックスからのオファーにあれほど深刻に悩むことになるのだ。
しかし、このように自らの「虚勢」からきている言葉で最期までわれわれは自分自身を騙しきることができるだろうか。われわれの人生が27歳程度で終わるのならばごまかし続けながら一生を終えられるかもしれないが、多くの人にとって人生とはそれよりもはるかに長いものである。このことを象徴するヨルシカのJ-popの歌詞がある。
こうした「虚勢」は他者(本作ではピーター)を騙すことはできるかもしれないが、人は自らの感情をごまかし続けることはできない。それはどこかで必ず無理がきて限界を迎えることになる。『八月、某、月明かり』の歌詞にもあるとおり、当然、人生は27歳で終わることはほとんどないわけで、考えるのもやめられないし、何もいらない、なんてことはないわけである。
さて、とてもながくなってしまったが、ここまで丁寧に考察してきたおかげで、読者の方にも彼の矛盾する発言の背景も十分に理解していただけただろう。そして、いよいよ最後の目玉である車を運転し『The Show』を聞きながら、ビリーが思わず目頭に大粒の涙をためてしまうシーンについて語っていきたい。このシーンの涙は何を意味するのだろうか。本作を既に視聴済みの方ならば、「直感的」にその涙の意味に気づいていると思われる(それは、私が言葉を通じて長々と説明してきたビリーの苦悩が伝わるように製作側が丁寧にビリーという人物を映しているからにほかならない)。そしてこの涙について、様々なアプローチから解釈が可能ではあるとは思うが、ここでは例に漏れず先ほどの『The Show』の歌詞の続きを手掛かりに考察していきたい。というのも、彼はこの曲を聴きながら思わず涙を流しているのだから・・・。
「答えが見えない、それって落ち込む」とあるが、それは本作でいえば、ビリーがレッドソックスの高額オファーを受けることだけを意味するのではなく、過去の決断を含めて(高卒でプロ入りすることも含む)のことだと解釈することができるだろう。それは「just enjoy the show(ただ、それを楽しもう)」の部分にも込められている。そもそもの話であるが、ビリーが高卒でプロ入りした時にはただお金に目がくらんだだけではなく、野球が好きで一流プレーヤーになる、という「夢」を持っていた部分は間違いなくあったはずであり、実際、彼がのちにスター選手になっていた可能性もあるだろう。それを夢見た想いがあったからこそ(スカウトからの甘い言葉があったとはいえ)、彼はプロ選手の道を選んだはずだ。そうでなければ、年間を通して休みのほとんどない厳しいメジャーリーグ(一般企業で考えれば、ブラ〇ク労働と言っていいくらいの連続労働(年間162試合存在し、20連戦という連続労働が普通に存在する世界)が続く厳しい世界である。)でプレーすることを選ぶことはないだろう。実際、このことを裏付けるように作中においてスカウトからもプロとして野球をすることは草野球で楽しむこととは違う道であることをはっきり述べているシーンがある。また、これは一般論としてもいえる話だろうが、特に大きな物事の決断の際に、わかりやすいはっきりした一つの明確な理由のみで何かを決断することはほとんどないだろう。複数の要因が複雑に絡み合いながら、その中で何かをきっかけとして人は選択をするものである。しかし、ビリーの場合はプロ選手として活躍できなかったトラウマの大きさから、自らの過去の決断について、(半ば無意識に)「お金に流されてしまった自分」という記憶の改竄を行い、過去の自分を否定することによって現在の(スカウトとして結果を残し、GMまで上り詰めた)自分自身を守っているのである。このように過去の自分を否定することによって現在の自分を肯定するためにも、作中のビリーにとって「勝利への執着心」を求めることは必然であり、マスト事項なのである。逆に言えば、こうした背景があるからこそ、彼はあそこまで(傍若無人にも見えるようなやり方で)マネーボールの実践をやりとげようと奮闘できるわけである。こうした彼の態度を評価するのはどのようなことに価値を置くのかによるとは思うが、私としては外側にでているこうした彼の強い行動が彼の内面の弱さからきている、という意味で彼のこのような態度を「虚勢」と評価する。
もちろん、ビリーに限らず人は弱いもので、とてもつらく壊れてしまいそうな時には、自らを守るために、自らの心の声を誤魔化さなければ生きていけないような場面もあるだろう。しかしながら、既に述べたように(ほとんどの場合において)自分自身の感情を死ぬまでごまかし続けることはできないし、さらに言ってしまえば、それは自傷行為を続けるようなものであり、殆どの人にとってそのような拷問に耐え続けることは不可能である。そして当然のことであるが、ビリーもまたその例外ではなかった。長い人生の中で人は自らと向き合わなければならない時がやってくる。本作はこうした当たり前の話を、ビリーの苦闘し、奮闘し、もがき続ける生きざまを描くことによって視聴者に伝えているのである。
『The Show』の歌詞に戻るが、プロ選手として成功するかどうかはやってみなければわからない(=I can't figure it out)。実際にビリーと違いドラフト下位指名であってもプロとして活躍している選手はアメリカ、日本双方においてたくさん存在しており、ピーターのビデオの比喩(metaphor)も同様のことを示している。つまり、こうした演出によって、本作は合理的に野球をすることによって勝つことができる統計物語を描いているのではなく、人はスポーツに夢を見る(そしてその力の大きさが多くの人を魅了してきた)という部分をはっきりと描いているのである。そして、この大事な部分を忘れてはならないことを、一見すると相反する価値観で合理的な野球をしている(ように見える)ビリー達の姿を通して描くことによって、視聴者の心に響くラストシーンをうみだしているのである。そもそも、エンディング前においてマネーボール理論の限界を示唆するテロップも流れ、本作を素直に観れば、セイバー・メトリクス理論の素晴らしさを語る映画ではないことは明らかである。これが、私が冒頭で述べた統計物語として語られがちな本作について、忸怩たる思いを懐いている大きな理由である。
そして、ビリーがピーターとの会話の後の帰路の途中で娘の歌う『The Show』を聴きながらレッドソックスからのオファーを検討しているとき、歌詞にある通り、現在、人生の迷子になっている自分(高額オファーに迷っている、という意味ではない。念のため)、そして自身の心がマネーボール理論で貧乏球団が金持ち球団に勝つ、という強い想い(夢)を持っていること、そしてそれが何を意味するのか、ということを初めてはっきりと自覚した。それだけではなく、これまでの彼の半生が走馬灯のように頭を駆け巡った結果、思わず涙がこみ上げてきたのである。これは、何も手放しで喜べるようなタイプの感動ではないことは、ここまで読んでくださった読者の方なら理解いただけるだろう。この時、ビリーは自らの半生だけでなく、彼自身の気質(「自信のなさ」「虚勢」「過去のトラウマ」)についても瞬間的に理解しており、だからこそ作中で時間をかけてブラッド・ピットの表情をゆっくりアップしていきながら(同時に顔をゆがめながら)思わず目頭に涙をためたのだ。彼はあの瞬間、自らの感情とその半生を噛みしめるように味わっていた(より正確に言えば、味わわされていた)のである。あのシーンにおいて彼はこれまでの人生の辛さ、自らの気質、(忘れていた)「just enjoy the show(ただ、それを楽しもう)」の大事さを理解した瞬間であり、彼の自身の情けないと言っていいような気質(「自信のなさ」「虚勢」「過去のトラウマ」)を許すことができた(=受け入れることができた)瞬間でもある。このなんともいえないような喜怒哀楽のすべてが混じりあったようなビリーの感情が画面を通して視聴者にも伝わってくるのである。私などは、このシーンを観るたびに自らの心が激しく揺さぶられ、彼と同じように思わず涙が込み上がってしまう(完全な蛇足であるが、本作を視聴して涙をながした人間は、私の周りには皆無であったことも一応伝えておく)。
このラストシーンのビリーに至るまでの過程(己の感情に自覚的になり、彼のこれまでの人生を受け入れること≒彼の半生すべて)が冒頭でブラッド・ピットが発言した「負け犬というレッテルをはること、失敗や成功といった価値観(で単純に判断するの)は正しいのかどうか、そういうことを問う映画なんだ」が示すものであり、本作の一番のメッセージである。
また、それだけでなくこのラストシーンでは視聴者もビリー同様にその生きざまを問われていることも忘れてはならない。それは最終場面の車の移動シーンでビリーを映しているピントが急にボケて、画面がブレるシーンが長く続くことからも明らかである(このラストシーン以外でピントがここまでボケて、画面が揺れるシーンは存在していないことから、映画から視聴者の意識を離そうとする製作側の意図があると理解することが自然であろう)。この瞬間、視聴者は強制的に映画から心をはずされ、余白の時間が生まれる。その時、われわれ視聴者はビリー同様、思わず自らの人生を振り返らされることになる。それはまるで製作側によって「あなたたち、今までビリーの物語だと思って油断していたかもしれないけど、そういうあなたの人生はどうなんですか?」と言わんばかりである。
私がこの映画を観た時は20歳過ぎくらいの時であり、ちょうど自らのモラトリアムの終了時期と被っていた記憶がある(ちなみに、以前感想を書いた『そこのみにて光輝く』を勧めてもらった方と同じ人物から本作の視聴を勧められた)。ここで少し個人的な話をさせてもらいたい。非常に恥ずかしい話であるのだが、当時私は、自らのおかれていた状況と自らに対する周囲の評価の低さ(これはどちらも思い込みの部分が非常に強いわけだったのだが)にとてもいらだっていた。今思えば、この時の私の心情を本作のビリーの姿を通して強制的に思い出させられるために、私にとって本作は特別な作品になっているのかもしれない。しかしながら、よくよく振り返ると、自らの状況を打開するために何か努力をしていたわけでもなく、よくいるだらけた大学生の一人であった。つまり、あえて強い言葉で言ってしまえば、この時の私は承認欲求に飢えていた単なる子供だったのである。そして、ふとしたきっかけでこのまま(あらゆることを他人のせいにしていては)では自分はダメになってしまい、永遠に自分の人生を生きることができないこと(≒あらゆる責任を外側に押し付けるような態度)、一言でいえば、自分の情けなさを強烈に自覚させられる瞬間があった。この時の感覚がラストシーンにおけるビリーの涙と同じような感覚であったことが私に本エントリーを執筆させる強い動機の一因となっているのだろう。この感覚とは、あえて言葉にするならば、自分自身のある側面(私の場合で言えば、あらゆることを他人のせいにし(他律)、自分の生を全うしていない状態)について瞬間的に理解し、そのことによって喜怒哀楽のすべてが混在するような形容しがたい感情に胸が強烈に締め付けられる体験のことである。それは、ある種の回心(conversion)体験と言ってもいいかもしれない。そして、恥ずかしながら私もこの時、ビリーと同じように目頭に大粒の涙をためたものである。
よく言われることであるが、私のこのようなモラトリアムの期間は私以外にも多くの人にも存在し、これが大人になるための第一歩なのであろう。つまり、これは私たちの人生のスタートライン(≒通過儀礼)のようなものだ。
少し話はそれるが、Twitterで言われがちな(私のTLの観測範囲)「年をとればとるほど人生はきつくなる。覚悟をしておけ。」というSNS格言のようなものがあるが、30年弱の私の短い人生の中では、生まれてからモラトリアム期が終わるまでが人生で最もつらい時期であった。それは、先の見えない真っ暗な森の中をなんの手掛かりもない中、手探りで進んでいくような状態であった、と記憶している。また、とある方から聞いた話で非常に納得した表現なのだが、この時の私は、何を打っても自らに返ってくる感覚が全くなかった。つまり、何をやっても自らに響いてくるものがなく、何をやっても空虚さだが残るような状態だったのである。最近、何故か私のこのような恥ずかしい話をする機会が何度かあったのだが、意外と周りの方に理解を示してもらえることが多く、こうしたタイプの人たちは必ずしも少数派ではないだな、と痛感している。したがって、今ではこうした状態は誰にでも起こりうるものであることをもう少し強調してもいいのではないだろうか、というお気持ちになっている。もし10代で人生が辛くてたまらない人がいれば、先の未来が必ずしもこれ以上辛くなるとは限らない、というケースもあるということだ。このような心持ちをしておけば、多少は日々の生活のハードルは下がるはずだ(生きやすくなるはずだ)。また、たまたま先日ネットであるインタビューを再読していたのだが、そのインタビュー(おそらく18前後の時の話)においてある人が入水自殺をしようとしたところ、おじいさんに止められた経験を語っており、インタビュワーの方が「でも、死ぬのをやめても苦しいままですよね。(真顔)」と返している文言を読んだ。改めて読むと、この返しもたいがいぶっとんでいるな(笑)、と感じるものである(なお、初めて読んだときは私も該当部についてさらっと流してしまったので、私もたいがい(ry)ということなのかもしれない)。また、その方は過去にそんなこともありながらも、(当然、紆余曲折もありながら)現在では楽しく生きていると語っておられたので、若い時の辛さが年をとってさらに辛くなる、というのは案外そうでもないケースも存在する(?)ということは強調して伝えておきたいことだ。
もちろん、われわれが感じる「つらい」という状況がどのようなタイプのものであるのか、ということが大きい問題である。もし自分の外側にある具体的な何かが成し遂げられていないこと"自体"が当人にとって問題ならば、それを達成するために努力することが大事だろう。私が伝えたいことは、もしそれ以前の段階(外側の「何か」でないこと)につまずいており、それが当人にとって問題であるならば、異なるアプローチが必要であって、それは年をとることで問題を正確に認識する能力が身に付き、その対処法が見えてくる時は訪れる、ということである。抽象的な言い方になってしまったが、「要は自分にとって何が本当に問題であるのか?」ということをしっかり認識することが何よりも大事であり、そのことを認識できれば、必然的にその対処法も見えてくるということである。
なぜこんな話を急に持ち出してきたかというと、インタビュワーの方が言っている通り、「でも、死ぬのをやめても苦しいままですよね(真顔)」ということ(問題は解決していませんよね?)が本作のテーマにおいても関わってくることだからだ。ビリーは自らの過去のトラウマについてはっきりと自覚し、彼自身のそれまでの人生を受け入れ(=自らを許し)、「just enjoy the show(ただ、それを楽しもう)」という精神を思い出し、目標に向かって自覚的に歩みをはじめた。そして、ビリーの場合は「The Show」がアスレチックスでWS制覇を目指すことであり、そのことをenjoyすることこそが、本作における「just enjoy the show」が意味することであろう。しかし、これはある意味で「人生のスタートライン」でしかない(スタートラインにたつことは本当に重要ではあるのだが)。いかにして社会の中で「just enjoy the show」を維持し続けていくのか、という問題の解決にはなっていないのである。(私を含む)多くの人にとって、こちらの方がはるかに難題ではないだろうか。われわれは得てして「just enjoy the show」の精神を忘れてしまう。しかしながら、この大事な精神を思い出した後でさえも、同じように苦しみは何度も襲ってくるのである。本作のビリーがまさにそのことを証明しているだろう。10代のビリー少年はプロとして活躍すること、またそれに向かって努力することが「The Show」であった。しかし、彼にとってそれを現実にすることが難しいと分かった時、彼にとってそれは「The Show」ではなくなってしまったのである。そして、その「The Show」を探す長い旅路を描いたのがまさに本作であろう。ただ、いかにして「The Show」を見つけるのか、という難題に加え、いかにそれを維持していくのか、というこの問題について語るには本エントリーでは字数の関係上(私の実力的にも)難しいのでまたの機会とするが、一言だけそえるならば、本エントリーのタイトルを「俗世」で生きる苦悩とその喜びとしたのはこうした背景があるためである。本作のビリーのように社会的なものが「The Show」にあたるならば、それ以上幸福なことはないだろう。しかし、そうでない人にとっては...。また、私のこの見解に対して想定される反論として本作の「The Show」を人生そのものととらえることもできるだろう。しかし、われわれの多くが「人生そのものを楽しめ、と言われても・・・」となるのは目に見えている。
少し話がそれてしまったが、この当時の私と違い、当然ビリーは自律した一人の人間であり、私の場合は学費も自分で払っていないただの学生で状況は全く違う。そこは大いに考慮しなければいけないところだ。しかしながら、われわれは油断するとすぐに「just enjoy the show (ただ、それを楽しもう)」の精神を忘れてしまう。そして作中のビリーの娘のように子供たちと関わることによって、大人であるわれわれが忘れがちなその精神の大事さを改めて教えてもらうこともある。よく言われることであるが、日本人はとても生真面目であり、時にはうつ病になってしまうまで(自らの心の声を無視して)懸命に働いてしまうことも多い。これはもちろん、われわれ日本人がいかに勤勉であるか、ということのひとつの証左でもあるが、それに加えて、われわれが自らの心の声を聴くことができていない(無視してしまう)ことも同時に表しているだろう。ビリーのような自律している社会人ですら、いや、むしろ、こうした責任感の強い人間であればあるほど(日本人の多くが責任感が強い傾向を備えていることは多くの方に同意いただけるだろう)、自らの心の声を聞くことができなくなり、社会人として求められることを追求することこそが、価値あることである、と無意識に内面化してしまう。このように視野狭窄になってしまえば、本作のビリーのように苦しむことになるのはある種、必然であろう。ビリーは社会人としてはGMとして結果を出しており、社会人として求められることをかなり高いレベルでこなしている。それにも関わらず、彼は常に満たされておらず、つらそうな姿をみせていることはこれまで述べてきた通りだ。
そして、私自身も社会人生活を続けていくうえで、ビリーほどのレベルには全く達してはいないが、ある程度の年月が経てば仕事はそこそこできるようになり、周りからもある程度評価されるようになったものの、例に漏れず全く心が満たされない状態がおとずれた。先ほど、20歳前後の時にモラトリアム期を終了し、自らの不甲斐ない人生を受け入れ、社会で生きていくことを誓った私の恥ずかしい話をしたが、上記のような体験をとおして、私の中ではこれだけでは生きていくことができないな、と実感したものである。当時の私は、ビリーのように「社会の中で」自らの「just enjoy the show」を達成することこそが、自分のやるべきこと(生きがい)だと信じて疑わなかった。それくらいスタートラインに立つことは心を動かすものである、ということなのだろう。しかし、サラリーマンとして求められる仕事をこなすことは私にとっての「The Show」ではなかった。より正確に言えば、私のようなタイプの人間にとっては「just enjoy the show」をするためには「外側の何か(≒社会で評価されるもの」だけでは不可能だということなのかもしれない。あの20歳頃の私の感動は自律した大人になるための第一歩に過ぎなかったわけである。あの当時の私は自らの生を受け入れ、この社会で生きることを自らの意志で誓ったという意味で、大人になるためのスタートラインには立てたのであろう。ただし、それは私にとっての「just enjoy the show」とは完全に結びつけることはできなかったということだ。当たり前だが、われわれは自らの手で自分なりのやり方で「just enjoy the show」を実践(≒発見)していかなければいけないのである。今回、このエントリーを書いていく中で、改めてこうした大事なことに自覚的になる機会をもてたことに大いに感謝したい。
なお、ここで誤解をされたくはないので急いで補足をするが、実際、社会人として評価されることで満たされるものは決して少なくない。いや、むしろ多分にあるといっていい。それは私の実感としてもそうであるし、一般論としても多くの方に同意いただけるだろう。ただし、私の場合はそれだけでは心の栄養(MP ※メンタルポイント)は満たされなかった、ということだろう。われわれはマシーンではないのでHP(ヒットポイント)が残っているだけでは充実した人生を営むことはできない。人生に彩りを与えるにはMPが不可欠なのである。このことを端的に示す名言として個人的にいつも思い出すのが、私の人生のバイバルのひとつである『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のアムロ・レイの以下のセリフである。
目の前のタスクをやらなけばいけない状況があり、自らの意志とは関係なく仕方なくタスクをこなす、こうした行為を続けることはMPを消費し続ける行為に他ならなく、自傷行為をしているようなものだ。このアムロ・レイのセリフはそのことの危険さを端的に示している。
また、本作における「The Show」とは「MPを回復させる」役割を果たしている、と言えるだろう。そして、これまで見てきたように「どういったもの/こと」が当人にとっての「MPを回復させるもの/こと」になるのかは、まさに個人の気質次第である。そして、このようなもの(/こと)は歳月とともに変化する可能性を多分に含んでいる。だからこそ、作中においてビリーは自らにとっての「The Show」を発見するために、これほどまでの苦悩を抱えているのであり、「The Show」がこうした性質を含んでいるからこそ、われわれの多くが懐きがちな「年を取るごとに生きていくのがどんどん辛くなっていく」というSNS格言の要因にもつながっているのだろう。
ビリーの場合は幸運にも「just enjoy the show (ただ、それを楽しもう)」の対象となることが社会の中での達成すること(貧乏球団でのWS制覇)と被っていた。これは彼にとって、とても幸運なことである。そして、本作では「The Show」は社会の中で見出すこととしており、やはりまずはそこを目指すべきである、と私も思う。つまり、本作のテーマを私なりの表現でいえば、社会の中でいかに「just enjoy the show」の精神を持って生き抜いていくのか、ということであり、だからこそ多くの人の心に響く作品となったわけである。このような背景のために、本作は野球に興味がない方にも、心の底からお勧めできる作品となっている。
とても長くなってしまったので簡潔にまとめるが、本作はわれわれがついつい忘れがちである「just enjoy the show(ただそれを楽しんで)」の精神、そして社会の中でこの精神を忘れることなく実践すること(≒見出すこと)、この難しさをビリーという一人の男性の苦悩する人生を通して思い出させてくれるものである。そして、これこそがブラッド・ピットの言う「負け犬というレッテルをはること、失敗や成功といった価値観(で単純に判断するの)は正しいのかどうか、そういうことを問う映画」という発言が意味するものである。したがって、ビリーがWS制覇できた(できるか)かどうかが問題なのではない、ということである。作中の表現を借りて言い換えれば、あなたにとっての「The Show」とはなんですか?というのが本作の問いかけである。視聴者の方には『マネーボール』の視聴を通じて、みずからの「The Show」を改めて考える機会としていただきたい。私自身も自らのとっての「The Show」は何であるのか、どうしたら「just enjoy the show」の人生を過ごせるであろうか、ということを本作を通して考えさせられた。われわれにとって、必要不可欠ではあるがついつい忘れてしまいがちな問題について考えるきっかけを与えてくれる本作は、私にとっては福音のような作品である。最後に、われわれにとってついつい忘れがちな「人生のスタートライン」を改めて思い出させてくれる本作に大いなる感謝と最大限の敬意を表して、締めの言葉とする。
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