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どんづまりの楽園

 皆さんは「どんづまりの楽園」をご存知だろうか。それはどこにでもあって、どこにもない場所。知っている人と知らない人がいて、人によってはいくつも持っていたり、一つも持っていなかったりする。え?なにを言っているかわからないって? それじゃあ特別にわたしのとっておきの「どんづまりの楽園」を紹介しよう。

 それは、とある町の一角に存在する。無料案内所のある角を右に曲がり、大手カラオケ店の入ったビルの裏手に回った場所にある。木製の重たいドアを開けると「おはよう」と何度来ても変わらない笑顔で勝さんが出迎えてくれる。お決まりのカウンター席に座ると、隣にはここで知り合った山さんがいてもうすでにデキアガッテいる。

「やあ、ノッポくん。最近調子はどお?」山さんは真っ赤な顔をして僕に尋ねる。ノッポくんとは山さんが僕につけてくれたあだ名で、文字通り背が高くてひょろっとしているからノッポくんなのである。僕はこのあだ名がとても気に入っている。特徴を捉えているし、なによりこのあだ名のおかげでここにいる間は普段の僕とは違う僕でいられる。どういうことかというと、ここにはここにいる僕しか知らない人達しかいないのだ。ノッポくんという名前で呼ばれる僕のことしかここにいる人たちは知らないのだ。だから、ここにいる間だけ、僕はノッポくんなのである。

 山さんにいじられながら一杯目を終えた頃にミカさんがあらわれた。ミカさんは夜の街で働いている年齢不詳の美女で、仕事を終える朝方か、休みの日にこうしてあらわれる。大抵は勝さんに愚痴をこぼしにきて、山さんに誘われるのをうっとおしそうに片手で払っている。今日も早々に惨敗をした山さんが憂さ晴らしに僕をいじる。サッカー日本代表がコロンビアに予想を覆す勝利を収めることはあっても、山さんがミカさんと夜の街に繰り出す奇跡的勝利は決して訪れない。

 ここでは本当にいろんな話をする。好きな音楽の話、本の話や映画の話。時には付き合っている異性の愚痴であったり、仕事の愚痴だったりもあるけれど、基本的にはとりとめのない話ばかりする。常連の噂話だったり、トランクス派とボクサーパンツ派の話だったり、恐竜や川辺の話だったりする。こうやって列挙してみると、なんのことだかわからないものも多くふくまれているけれど、それはその場にいた人にしかわからない。それがよくわからないけれどとても心地よかったりするのだ。

 さて、ここはどこかというとこれはとあるBARのことを書いたお話だ。僕にとっての「どんづまりの楽園」第一号のお話だ。じゃあ、BARが「どんづまりの楽園なのかって? それはちょっと違う。間違ってはないけれど、ちょっと違うと思う。歯切れが悪くて申し訳ないけれど、これはどうにも説明しにくいものなのだ。「どんづまりの楽園」はどこにでもあって、どこにもない。時にはこうして場所として存在している場合もあるけれど、時には音楽の中にあったり、本の中にあったりする。場合によっては数式の中にあったり、愛する人との逢瀬の中にあったりする。道端にあったり、行きつけの珈琲ショップにあったりする。会社にある人もいるだろうし、文房具の中にある人もいるだろう。

 ここまで語れば、皆にもどんづまりの楽園がわかってきただろうか。きっとどんづまりの楽園はみんなが持っているけれど、孤独を感じているときはどこかへ行ってしまう。だから、どこかで今日も「どんづまりの楽園の話」をしよう。


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