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つまり、そういうことだ⑪

人生をゲームと考えたときプレイヤー(主人公)は、おまえ自身。つまり存在そのものだ。
存在は歓喜(よろこび)を求めている。
おまえは歓喜を感じるために、存在がかりそめの姿として現世に置いたアバターだ。
主人公だって、完全に自由に動いているわけではない。
主人公は、仲間が裏切っても、改心して戻ってきたら、許さなければならない。
主人公なら、絶望的な局面になっても絶対に諦めることはない。
主人公だけが魅力的な誘惑に打ち勝って、ストイックな正義を貫く。
存在の方で「そんなこと言いたくねえ」と思っていても、アバターの設定により、選択が限定されている。
画面の中のゲームでは、主人公の台詞は決められているが、人生というゲームにおいては、主人公らしい選択を、自律的に行わなければならない。
誰も見ていないところで、本当に「主人公」で居られるか。
それをクリアすることこそ、存在の遊戯なのだ。

仏典(法華経 如来寿量品)に「衆生所遊楽(〓しゅじょうしょゆうらく)」という一節がある。
衆生、つまり人間に限らず、生きとし生けるものに限らず、すべての生命(仏法では無機物にも生命があると説く)は、本来、仏なのだが、遊楽をするために娑婆世界にやってきた存在であると説かれている。

「存在の遊戯」とは、何か。
人間がバーチャルで遊ぶゲームは、「自分が得たい快楽(味わいたい感情)」を得るためにある。
フラクタル構造の上の次元で、この人生をゲームと見立てたとき、これは存在が遊戯していると感じられる。
存在が人生というメタバースで、おまえというアバターをまとって体験するのは「歓喜」だ。
快楽と歓喜という言葉を使い分けたのは、次元の違い、つまりスケールの違いを表現するためだ。

おまえの身体も性格も家庭環境も生まれた地域も、すべては存在が遊戯するために、好きに選んだアバター。
「好きに選べるなら、もっとカッコ良いのを選んだ」
そう思うかもしれないが、フラクタル構造で下に位置しているバーチャルのゲームでは、あえて不格好なアバターを選んだり、ハードモードを好んでプレイするプレイヤーがいる。
遊びだと分かっているから、変なアバターでも、ハードな条件でも、楽しんでプレイできる。
そのアバターがどんなにツラい想いをしても、おまえ本体には何の痛痒も無いからだ。

存在の視点から見れば、足が短くても金が無くても、心身や環境に障害があったり家族に難があったとしても、それは面白がるために選んだアバターなのだ。
存在が感じたいのは、歓喜だ。
歓喜と快楽は、別のものだ。
正確に言えば、快楽は歓喜に含まれている。
歓喜とは何か。ひとことで言えば、この世界で感じられる、すべてのことだ。

(つづく)

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