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〈キューバ紀行10〉周回おくれの、トップランナー。

 美しいって、なんだろう。

ハバナは美しい。スペイン占領時代からのコロニアルな建物は、ピンク、水色、ライムグリーンと色鮮やかに目を楽しませてくれる。道ゆく人々は陽気で闊達だ。なのに街は、どこか静けさを感じさせる。
 その理由が、ハバナで撮影した写真を見返して分かった。広告だ。広告がない。街のどこにも宣伝が見当たらない。

 日本はどこへ行っても、宣伝だらけだ。「お得」だの「便利」だの「今だけ」だの「ライバルに差をつけろ」だの、かまびすしい。
 スマホにはびこる宣伝にうんざりして目を上げると、そこにも宣伝。ニュースやバラエティ、ドラマも、中身は宣伝。宣伝が悪いわけではないが、情報が多すぎて疲れてしまう。
 飛田新地のやり手ばばあでも、茶屋の前を通り過ぎた男には声をかけないのに、宣伝はスマホやパソコンで我々を監視し、追跡する。エンタテイメント化し、愉しませながら消費を推進する。
 勤勉な日本人の努力を受けとめるのに、頭は忙しい。

 キューバに宣伝広告が少ないのは、社会主義で経済競争が無いからだ。
 どれだけ売っても生産しても、利益は社会全体のもの。給料はみんなと同じ。
 どこになんの店があるか知りたければ、その辺を歩いている人に聞けばいい。誰でも親切に教えてくれる。
 必要なもの以外、必要ではない。使える物を捨てない。足りないものは柔軟に融通する。
 どこで何を買っても、同じ価格。国民の9割を占める公務員には「何かを買わせよう」「より多く売ろう」というモチベーションが無いのだから、宣伝広告が見当たらないのも、自然なことに思える。

 宣伝の無い街で、鮮烈に憶えているポスターがある。それは、そこかしこに貼られていた。およそ全ての家屋の壁に貼られていると言っても過言ではないほどだ。
 YO SOY FIDEL.
「私は、フィデルである」
 そう書かれたポスターが、ストリートを3歩進むごと目に入る。宣伝ではない。フィデル・カストロの死(2016年に逝去)を悼んで貼り出されたのだ。
 政府が制作したものの他に、共産党発行のもの、まだ共産党に入られない若者(35歳以下)のユニオンでつくったもの、いくつもパターンがあるが、どのポスターにも「YO SOY FIDEL.」と大きく書かれている。
 心は、ひとつだ。

 ハバナでは、昼でも夜でもすべての家のドアが開いていて、大音量で音楽を流している。ミラーボールがある家も珍しくない。このバー、楽しそうだなと思って入ったら、普通の家だったなんてことが、よくある。

 その街から音楽が消えた9日間があった。
 キューバには家族を亡くしたとき、9日間、喪に服して音楽を鳴らさず静かに暮らす土着の風習がある。
 キューバ革命の指導者フィデル・カストロの死が伝えられた時、キューバ全土が自主的に喪に服した。
 フィデルは革命のリーダーであると同時に、国民全員の父親だ。喪が明けてもポスターは残り、フィデルへの表敬はやむことがなかった。

 キューバの社会主義が大きな貧富の差も生まず、ほどほどに全員が頑張る態勢を保っているのは、この連帯感によるところが大きい。
 頑張った分だけ革命ははかどり、国は良くなる。疲れたらちょっと休んで気分転換し、またマイペースで頑張る。
 日本人の感覚からすれば、ペースはかなりユルいが、みんな概ねマジメにやっている。
 競争に勝つこと、大きな結果を自分が手にすることではなく、「頑張ることそのもの」の充実感を、みんなで享受している。
 国全体が「学園祭実行委員」みたいなものなのだ。

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