見出し画像

死んだら…

妻の叔父の死

先日、妻の叔父が亡くなった。
葬儀に参列した。
企業人としても影響力のある地位に就任していた妻の叔父。
親族だけで葬儀は静かに執り行われた。
65歳。あまりにも早い死だった。
火葬。納骨。いくら着飾っていても、名誉を手に入れようと、美男美女でも関係なく、さいごは一片の骨になる。
見詰めていて諸行無常という言葉が頭を過ぎった。

語られない人生

葬儀がおわり、同時にこんなことも思った。「妻の叔父は、日頃どんなことを考え、どう立ち向かっていったんだろう」
と。
彼は、昭和の男というか寡黙で多くを語らない人だったと思う。そう見受けられた。
当然、彼について何か記録に残っているものもないし、どんなエピソードがあるのかも詳細については伝承でしかわからない。
特に一般市民の人生やエピソードは記録されない。
幾通りもの多様な人生があり、エピソードがあるはずなのに。他界したら、あくまでも故人を想像するしかない。
そういうケースが多すぎるように思う。
一般人の人生は語り継がれない。

失敗のエピソード

以前にも書いたことがあるが、その語られない中でも「失敗エピソード」は特に表に出ない。
それでなくても、SNSを覗けば「晴れの日」「晴れ舞台」の記録が殆どで人生の「雨の日」を扱ったものはほぼ皆無だ。
そういう意味でSNSのシェアのカテゴリは多様なようで狭いように思う。

一般人が、どう失敗したのか?
どのように考え、迷い、解決していったのか。格闘したのか、あるいは逃げたのか。
多様であるはずの、市井の人たちの記録やエピソード、思考のアーカイブはほぼ残らず、淡々と時代は過ぎていく。
ボクは叔父の失敗エピソード、どう考え、立ち向かい解決したか。知りたいと思った。
しかし、それはボクがこの世にいる限り永遠に叶うことがないのだ。

決意

改めてボクは一般市民として、自身の「失敗の具体的なエピソード」に特化して公開し、記録に残そうと決意を強くした。それがいまマガジン形式で書いている、へっぽこぴーりーまん書紀だ。
正直に言うと書いていてとてつもなくカッコ悪い。情けなくて、恥ずかしい。
しかし、自己PR・成功事例の共有をするよりは多くの人の心を楽にするのではないか。と信じている。
特に実体験から照らし合わせると、成功事例の共有はうまく行ってないときはかえって「自分はそれに引き換え…」といった読み手に惨めな気持ちにさせることもあると思うのだ。
例えば家族団らんや、我が子の写真をアップして、万人の人が「良いな」と思うことはない。
中には、「あー。イイネ押せってことね 。良かったね。充実してて。自慢っぽいよね」てな感じで内心皮肉っぽく思ってしまう人もいるだろう。それがリアルな人間心理だと思う。

・ボクは追い詰められたときこんな葛藤があり逃げた。
・この場面ではこんなふうに考えていた。
これらの思考や感情を共有することで、反面教師でもいい。読んでくれた人のヒントに少しでもなれたら。特に自分より若い人が失敗を避けるヒントになれば。思考の癖の気付きなどになれば。
そう思うのだ。

子供へ

ボクにはまだ幼い子供が2人いる。
こうして記録に残すことで、将来「親がどう失敗したか。失敗に対してどう考えたのか。どんな対応をしたのか。」がわかると思う。
それらしく一般論を語るより、「父はこんなカッコ悪い失敗をしていたんだ。」
と話したり、読んでもらったほうが良いような気がする。
それにより困難にあたったときに、「アホな父がこんなふうに躓いてたって言ってたな…」と思い出したり、読み返したりしてもらうことで楽になることがあるかもしれない。
決して「私もこれで別にいいや」「親と同じで失敗する運命だ。」と思ってほしいのではない。
何より人の失敗から疑似体験で失敗のメカニズムを先取りで、具体例をもとに学んでくれたら嬉しいなということだ。

疑似体験

疑似体験。コーチング手法で成功や手にしたい結果を先取りするように、ありありとシュミレーションする。それに向けて行動を組み立てるというものがある。

それはそれで良いと思う。
実際ボクもクライアントとして経験したことがある。
しかし、実体験からの感想としては、いきなり成功をシュミレーションすることは難易度が高く、自分ごととしてやや現実味を感じにくいように思う。
コーチに誘導してもらうとスムーズなのだが、自分でこの手のイメージングは難しい。自走するハードルとしては高いのだ。
あくまでボクの個人的体験談としては、成功イメージ手法は、何かイメージして満足しちゃうデメリットもあり、持続性に欠ける部分を感じた。例えてみると小学校のときによく多くの人が、計画を作った時点でその気になり満足してしまう、「夏休み・絵に描いた餅計画」みたいに。

これとは逆のアプローチとして、具体的な失敗を想定した上で、失敗をしにくい自分、失敗をリカバリーするシュミレーションをする。対策に落とし込む。
このことで負けや失敗をまず防ぐシュミレーションをし、行動に移すことのほうがハードルは低いのではないだろうかと思う。
この手法に対し、ボクの多彩な失敗体験談が活用できないかと思うのだ。
失敗も含めてボクがどんな人間だったのか。振り返ってもらえるようにという個人的なエゴもある。
ボクがこの世から去るときが来ても、失敗体験が、世代を超えて学びとして活用されることになるなら最高に嬉しいことだなと思う。

♥やコメントで感想(一言)もらえると大変ボクの励み、喜びになります。最後まで読んでくれてありがとう。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?