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私の名は「おしん」から「長野」に! LOLOのチェコ編③

 プラハに到着した2,3週目のこと。

 勤め先のオフィスがある近くのヴァーツラフ広場付近の駅に降りました。
その日は午後出勤でした。

 都心部のその広場がある地上に出た時です。

「えっ?」

 目を丸くしました。大勢の群衆でごった返して熱気が異常です。
「なんだ、なんだ?」

 人々が集結し興奮し騒ぎ、広場の像の上に乗ったりし、雄叫びを上げ、国旗を振り回してもいます。

「テロか革命か!?プラハの春再び!?」

 またか、と思いました。
 カイロのエジプト考古学博物館前でドイツ人たちがテロリストに殺された時、私はたまたまその現場に居合わせたのですが、その時もまさにこんな感じでした。高揚した人々の乱痴気騒ぎ。同じです。

 その時でした。
 そばにいた興奮しきった金髪青い目のチェコ人青年が、いきなりくるりっと私に気づき、まじまじとこちらの顔を凝視してきました。

 ドキッ。
 ネオナチという、若者たちで構成された新たな人種差別グループが問題になっており、
「アジア人だから、気を付けて」
 と会社には注意されていましたし。

「ま、まさか。何かされるのでは?」
 心臓がバクバクです。

「一先ずどこか店の中に入ろう」
 瞬時にこのように頭が回るところが、我ながらさすがエジプト帰りです、テロ慣れしています。

 だけども、あまりの人混みで身動き取れません。しかしその金髪青い目君は仲間らしき金髪青い目2号、3号、4号君たちにも声をかけ、全員でぐいぐいとこちらに近づいてきます。

「まずい、まずい」
 全身の震えが止まりません。

 ところがです。
「NA・GA・NO」

「?」
「ナガノ、ナガノ、ナガーノ、ナガノ!グレードナガノ!」
「???」

 なんとその金髪青い目集団君たちは私を取り囲み踊りだし、拍手をし、さらに握手を求め、私の頬にキスしてだきついてきました。でもいやらしい感じではありません。
「???」

 気づくと私を囲んでナガノコールは広がっており、そばにいた他のチェコ人たちも
「こんなところにナガノが!」
と言うように私を見て喜び、握手を求めてきました。

「いつ私は有名人になったんだろう?」

 ナガノが長野県と気づくこともなく、まさに狐につままれた思いで、人々に握手、嘆きキス、ハグ、挨拶をされながら会社に向かいました。

「おお、ミス・ナガノ!」
 会社の中に入ると、そこのチェコ人たちまで、私を見て満面の笑顔で迎えました。いつもは私が出社してもツレナイ人々なのに。

(基本的にスラブ民族はフレンドリーではない人々で、チェコ人はそれでもポーランド人よりはまだ友好的、というのが私の意見です)

 ルーシーさんという、東京で面接官だったチェコ人マネージャーがいたので、「全く訳が分かりません。何が起きているのでしょうか?」と聞いてみました。

「ああ、テレビを見なかったのね。長野オリンピック真っ最中でしょ、さっきね、チェコのアイスホッケーチームがロシアに勝利を上げたのよ、チェコチームが長野オリンピックで金メダルを取ったのよ!」

 チェコがロシアに勝ったのは何十年ぶりだが、初めてだがのことだったといいます。

 ちなみに、チェコではアイスホッケーは国民的スポーツで、北欧やカナダに匹敵するくらい、この国ではアイスホッケーは大人気でした。寒い国だからでしょうね。

「そうだそうだ。長野オリンピックがまだ開催中だった」

 お金がないエジプトはオリンピック中継ができないので、地上波テレビではオリンピックの開催の年でも中継されることがなく、ましてやエジプトは(出場しているのかもしれませんが)基本的に「冬季」オリンピックなど全然関係ない国です。

 だからオリンピックそのものの存在を忘れていましたが、それにしても、よく理解できません。
「金メダルをひとつ取ったくらいで、なぜまた革命か?というくらいの大騒動になるのでしょう?」

 たかがスポーツで勝利したぐらいで、チェコ人も幼稚だな、と呆れましたがこの数年後、日韓ワールドカップで日本のサッカーチームが勝ち進み、スクランブル交差点に若者が集結し大騒動になりました。
「あ、日本も同じだ…」

 会社の外ではまだ人々の興奮した叫び声やラッパや笛の音も聞こえてきています。警察は何やっているのか、といえば彼らと一緒になって歓喜の声を上げ、騒いでいました。

 ルーシーさんはふっと笑いました。
「そうじゃないのよ。オリンピックで金メダルを取ったから喜んでいるというよりもね、チェコの国民的競技であのロシアに勝った、というのが重要なのよ」

 そして、ざっくりとチェコがいかにロシアを憎んでいるのか、その話をし始めました。まわりにいた他のチェコ人社員たちも真剣な顔で一緒になってロシアを罵っています。

  1968年のプラハの春のことも知っていましたが、ここまでチェコ人がロシアを嫌悪しているとは分かっていなかったので本当にびっくりしました。

 余談ですが、国民レベルではシリア人もエジプト人を嫌っており、いっときは両国は手を組み、一つのアラブ連合共和国になっていたのに、、、。こういうことは現地に住まないと見えてこないことですね。

「日本人はロシアを好きなのか?」
 突然、社員の一人が私に聞いてきました。

 普段の彼らは非常に用心深く、決してこのような話題を持ち出しません。しかし、この時ばかりはアイスホッケーでチェコがロシアを破り優勝したということで興奮していたので、いつもとは違い、ここまで立ち入った質問をしてきたのでしょう。

「私の父親は、ロシアは火事場泥棒だ、第二次大戦の時のことを怒っていました」

「…」
 しいんとしたのは、彼らは私の英語が分からないからです。べらべらのルーシーさんがチェコ語に通訳し、私の言ったことを伝えると、一気に爆笑の声が上がりました。

「君も僕たちの仲間だ。今夜みんなで飲みに行こう!」
 誰かがそう言いました。ここでも例のアレです。敵の敵は友…。

 そうしてその翌日以降ー

 外を歩けば見知らぬ人々に
「ナガノ、ナガノ」
と呼ばれ、社内でも「ナガノ」と声をかけられるようになり、
私の名前は「ナガノ」になりました。

               §
 
 二、三週間前に遡ります。

 日本を発ってウィーン経由でプラハ空港に到着したのは夜でしたが、空港を出てバンが走ると、おや?
 まだそんなに遅い時間帯ではないものの、どの店もシャッターが閉まり、道を歩く人々の姿もほとんど見かけません。田舎町ではなく、首都なのになぜ?

 その理由は共産時代の名残です。
 いくら都会でも、特にやることもないし娯楽場もなかった。なので夜早く寝て朝は早起き。その習慣が続いているのだといいます。

 かたや、暑い国のエジプトでは真逆でした。夜が更ければ更けるほど街は賑わっていました。
 きらびやかな眩しい電球だらけで、深夜近くでも子供たちが外で遊び、どんなに遅い時間でもファストフード店も営業して賑やかでした。

 東京だって、この時間はまだまだ明るく人が大勢騒いで歩いています。第一、夜九時は日本では二軒目に飲みに行く時間です。

 それなのに、プラハの街を走っていても真っ暗闇が続くだけなので、バンの車窓の眺めは全然おもしろくなくありません。

 車に揺られている最中、ふとあることが気になりました。それは車内でオットーさんと運転手がずっと無言でいることでした。

 エジプト人ならば例え初対面同士でも、運転手とアシスタントはずうっとべちゃくちゃ喋っています。延々と喋り通しています。

 それなのに、どうでしょう。オットーさんと運転手は一切口を開きません。だから狭い車内はしいん。

 これも前述のとおり、共産時代の時の習慣のせいです。

 人前や公衆の前では黙っているもの、余計なことを一切口にしないものという暗黙の掟が残っていたので、家の外であまり人々がべらべらお喋りをすることがなかったのです。

 社会主義寄り政策が続き、軍事国家だったエジプトでも公の場で政府批判やテロについて意見を述べるものではない、という風潮がありました。

 にもかかわらず、エジプト人はおしゃべりでどこでもかしこでも、初対面同士でもすぐに会話に花が咲いていました。しかしチェコ人はそうではない。
 よってこれはもうアフリカ人とスラブ人という、国民性の問題もあるのだと思います。

 それにしてもです。
 いくら走れども、相変わらず車窓の眺めはひたすら続く「雪景色の闇光景」。暗い、淋しい、辛気臭い。

 やっと目的地の私の住む場所に到着しました。
「ここですか?」

 ぽかんとしました。だって、雪の中、バンから降りると、無機質なソ連建築の建物群がぎっしり建っているではありませんか。しかもまだ深夜前なのに、どの窓も真っ暗で、やはり明かりがついていません。

 それに同じ外観の建物がぎっしりあるので、これは絶対迷いそうです。しかしまあ、なんと無機質なことでしょう。カイロにもソ連建物はあり、無個性だなと思っていましたが…。

「嫌だなあ、ここに住むのか」

 エジプトの砂漠団地時代を思い出し、「ふり出し」に戻った感じがして、嫌になっちゃいました。何となく、プラハの住まいはもっとこじんまりしたオシャレなアパルトマンであろう、と思い込んでいましたし。

「しまったなあ。住宅のことを事前にもっと確認したり、リクエストを出しておけば良かったなあ」

 気が滅入る見た目のソ連建築団地の中に入る時、ぽわんとした顔のオットーさんはにこにこしてこう言いました。

「この建物にはインターナショナルで、外国人が大勢住んでいるんだ」
「インターナショナルな住民たち?例えば?イギリス人やアメリカ人とか?」
「ううん、ユーゴ人、サラエボ人、ウクライナ人とかだよ」

 そういえば、カイロの住まいもクウェート人、ヨルダン人、リビア人、モロッコ人などが住んでおり「インターナショナルだったな」というのをぽわんと思い出しました。
 「インターナショナル」というのは、処変われば定義も異なるものです…。

                §
 翌朝ー
 慣れないベッドで眠り、時差や気持ちの高揚もあるため、自然と明け方に目が覚めました。
 
 住まいはベッドルーム3つにリビングルームとダイニングルームがあり、オール電化。
 
 このように中は案外、モダンで広いなあ、とちょっと喜びましたが
「もっと日本人スタッフを採用した時のために」
ということで、最初から複数人が住める住居をを会社が契約したとのことでした。 

 ちなみに、このソ連建築団地棟の建物のどの部屋も間取りは全く均等。例えば東棟203号室の方が西棟の704号室より広いということなど、一切なく、合計何百はあるであろう部屋は全て同じ広さの同じ間取り。

 光熱費も建物全体で割り出し、「平等に」同じ金額請求されるとのことでした。301号室が毎日24時間電気をつけっぱなしにしていて、101号室では逆にほとんど電気をつけていなくても、支払う金額は同じなのだそうです。

 確かにこれなら日本のタワマンであるという、どの階に住んでいるかによって「マウント」が起きるというトラブルは起こりえません。

 暖房は床下の温水によるもので、室内は半袖生活です。テーブルもソファーもベッドもシンプルで普通。

 キッチンの冷蔵庫と棚には沢山の食料品を用意しておいた、とオットーさんに言われましたが、ピクルスの瓶詰めがいくつも買ってくれていたことに、すごく「東欧」を感じました。
 ナンノコッチャですが、日本やアラブではピクルスの瓶を大量に買っておくなんて、絶対ないですから。

 さて、まだ日の出間もない薄明かり時間です。ところが、カーテンを開けて窓の下を見ました。
「えっ?」

 驚きました。通勤ラッシュの時間なのか、大勢が最寄り駅の方角へ向かって歩いています。でもまだ早朝です。東京では始発の時間にこんなに人々を見ることはありません。
「なるほど、本当に日の出と共に行動し、日没と共に就寝なんだな…」

 その2,3時間後、会社からお迎えのスタッフがやって来ました。

 今度はレジーナという名前の女性でした。
 愛想が全くなくて、やはり英語もカタコト。そして前髪がバブル時代のボディコン女性のように、鶏のトサカのようになっています。前髪を巻いて立てている。ああなんて懐かしい髪型…。

 外に出ると、やはり通勤者たちが多かったのですが、男性たちの髪型はリマール(カジャグーグー)のようで、後ろ髪だけちょこっと伸ばしている上、雪で濡れないようにとのことだそうで、ズボンの裾が異様に短い。 

カジャグーグーのリマール

 レジーナとは一緒に歩きましたが、なんだか気まずい空気でした。彼女は全然フレンドリーではない女性で、しかも言葉もほとんど通じないので困ります。

 その上、歩調が速い。レジーナは脚が長い上に雪道に歩き慣れているので、スタスタ歩くのです。一方、こちらは経験したことのない寒さに身がすくんでいます。

 そもそも、私はマイナス0度以下の道を歩くという経験をしたことがありません。外に出た数秒後にまつ毛が凍り、凍てつく厳寒で耳も顔も「痛い」。冷えると「痛く」なるのだというのを生まれて初めて知りました。

 
 凍え死ぬと震えながらも、何とか最寄り駅に到着しました。キオスクもなければ広告ポスターの類も特にありません。地味で質素な駅です。
 しかし地下鉄ホームは奥深いので、長いエレベーターで下りていきましたが、しいん。

 通勤者が大勢いるのですが、誰ひとり喋らず咳もせず、走ったりもせず秩序を保ちながらしいん。まさに「未来世紀ブラジル」の映画の通勤シーンと同じです。

 メトロ列車に乗ると、つり革の手すりが高くて頑張らないと、それをつかめません。背丈のある私でもそんな有り様です。

 また、やはり車内もしいんとしています。誰一人口を開きません。喋りません。

 そうそう、携帯電話はチェコではすでに普及していました。エジプトは無線で、携帯はまだだったので、チェコの方が進んでいますが、のちに出会ったチェコ人の元共産党員のおじいさんによると
「携帯電話は盗聴が簡単なので、実は独裁国の方が携帯の普及が早いんだよ」

 ところで、チェコの携帯は全部ノキアで、着音がクラシック音楽だらけというところにも「ああヨーロッパ」を感じました。だけども、地下鉄の車内で誰も携帯電話をいじってもいません。

「東京の朝のラッシュアワーの車内もしいんとしている」
と言われれば同じなのですが、それでも日本の電車ではその他の時間帯によっては結構賑やかです。特に子供や学生の多い時の車内では、雑談や笑い声が聞こえてきます。

 昨日の◯◯線の車内で、私の眼の前に立っていた高校生たちよ…
「動揺するって英語でなんていうんだ?」
「shakeじゃない?」

  堂々とそんな会話をしています。周りはみんな聞き耳を立てており、upsetした人々が私も含め、そろってちらっと彼らの校章チェックし
「ああ◯◯高校(←お察し…)だから仕方ない」
という空気になったのが笑えます。

 とにかく日本の電車は賑やかな時間帯もあるのですが、プラハの地下鉄はいつだってしいんとしており、世間話など何も聞こえてくることがありませんでした。

 会社の最寄り駅はバーツラフ広場付近でしたが、うってかわって宮殿のような駅でした。モスクワやブカレストの駅と同じです。シャンデリアや素晴らしい彫刻に絵画…。

チェコ人が怒りそうなことを書きますが、これはモスクワの駅の写真だったかも。でもプラハの駅もこんな感じでした。


 問題は改札を出た直後に起きました。突然、ガタイのいい怖い人相の男たちが私の前に立ちふさがったのです。2メートルぐらいの背でマッチョです。

「キセルをしたわけでもないのに何?」

 するとレジーナがチェコ語で何か話をし、私に
「パスポートを彼らに見せて」
と言いました。

 意味が分からないまま、そうしましたがふと横をみると、観光客らしき日本人たちはパスポートを携帯していなかったので、同じような人相の悪い巨人たちにどこかで連行されていました。

 ベトナム人とおぼしき人々はもっと気の毒なことに、囚人のような扱いで顎で命じられ蹴っ飛ばされていました。

 外国人の不法滞在者チェックだったのですが、アメリカやイギリスなどから来た白人の観光客はノーマークです。明らかにアジア系だけがターゲットでした。

 共産時代にベトナムや北朝鮮、中国から不法入国者が大勢入ったからだ、といいますが、それにしても、突然命令口調で威嚇してくるとは、失礼極まりありません。せめて、丁寧に「身分証明書を見せてください」とお願いできないものでしょうか。
 
 非常にもやっとした気持ちで、駅構内から地上に上がっていったのですが、街に出るとはっと息を飲みました。
 ここは旧市街そばの都心部なのですが、第一印象が
「モーツァルトの街だ」

 一気に嫌な気持ちが吹き飛びました。この時の感動は一生忘れません。
 雪景色の中、美しい中世の建物がずらりとあり、まさにモーツァルトの世界ではありませんか。私の頭の中では「フィガロの結婚」が流れ出しました。

 そして口をあんぐりあけて、360度の景色を見渡しました。
「すごい、すごい、すごい」

 バロック建築、アール・ヌーヴォー建築、ゴシック建築、モダン建築がぎっしりひきしめあっているけれども、ちゃんと調和が取れており、独特の風情を作り上げています。奇跡です。すでにヨーロッパ各地を見ている私でも感動しました。

 やっと、やっと
「プラハに来たんだ」
という実感がここで初めて湧きました。

 プラハ国際空港に到着した時も、景色も何も見えない夜道をバンが走った時も、ソ連建築の住居に到着した時も沸いてくることのなかった感動です。


 会社は古いアール・ヌーヴォーの建物でした。
 何の会社かといえば、広告代理店だとか撮影コーディネートなどを手掛ける会社です。私はエジプトでわりとその類の仕事も経験を積んでいたので、それを買われました。
 こういった仕事経験がのちにアメリカのIT企業の通りの地図コンテンツの仕事に繋がりますが、それはいずれ、インシャアッラー。

             §

 長野オリンピックでチェコのアイスホッケーチームが宿敵ロシアに勝利を上げて金メダルを獲得した夜(翌日夜だったかも)ー

 会社の人々とパブに飲みに繰り出しました。
 当然、ダウンタウンのパブはどこも大混雑で、どこのパブでも長野でのアイスホッケーの試合のVTRまたは再放送を流していました。

 プラハですでに数回パブに訪れていましたが、いつもはとても「辛気臭い雰囲気」でした。楽しそうに盛り上がっているのは間違いなくアメリカ人たちです。

 余談ですが、プラハには結構米兵がおり、よく声をかけられました。カイロの米兵たちもしょっちゅう声をかけてきていましたが、きっと「アレ」なんだと思いました。
 アレとは「日本人=アメリカの子分」的な…。だから声をかけてあげよう的な…。

 パブで見かけるチェコ人たちが「物静か」で、仲間同士で来ていてもあまり会話に盛り上がっていません。
 これもそれも、こういう場でも気を抜いてはならない。決して余計なことを発言して、秘密警察に密告されては大変だと。

 だけども、観光地などでは「I LOVE KGB」と書かれたTシャツやスターリンTシャツ、レーニン似顔絵Tシャツなどが売られており、社会主義時代のことを「お笑い」にできるようになってきていました。

 長野オリンピック開催の年のチェコは、まさに民主国へすっと移行し、社会主義時代が過去のこと、とがらりと変わろうとする時期だったのだと思います。

             §

  翌朝、またいつもの時間に起床し、外に出ました。
 積もる雪の上にはずいぶんとゴミが散乱しています。こんなこと初めてです。
「そうか、チェコ優勝で浮かれた人々が放り捨てたビールの空き缶とかなのか」

家のそば。2月なのにショーウインドーにまだサンタが偉そうに立っていました。

 地下鉄に乗ると、これまた普段と何も変わりません。大勢乗っているのに静寂だけが流れています。咳払いも独り言も何も聞こえません。

 会社最寄り駅に到着しました。
 ホームに降りると私は唇をかみしめ、胸を張りました。

 この街に住み始めて2,3週間が経つと言いましたが、毎日毎日いかつい巨人役人に仁王立ちされ、顎でぐいっと「身分証明書見せろ」と偉そうに命令されていたからです。

 こういう時、本当にエジプトが懐かしく、エジプトではどこもかしこも荷物検査がありましたが、「日本人特権」があり、日本人は顔パスでした。

 オウム真理教が日比谷線で起こした犯罪はエジプトでも大きく報道されましたが、それでも日本人のどこでも全部顔パスは継続しており、私は一度たりともエジプトで「身分証明書見せろ」と言われたことなどありません。

(アメリカン大学に入る時だけは除きます。爆弾をしかけられた大学なので、通学するのに必ず入口で荷物検査と身分証明書(学生証)提示がありました)

 少なくとも、エジプトではこんな風に横柄に指図されることなど、120%ありませんでした。

 でもエジプト人もスーダン人やフィリピン人に対しては横柄だったので、私も自分がされる側になって、やられる気持ちが分かりました。

 東京で、普通に歩いているだけで毎回職質されていた、私のアメリカ人の黒人女友達もそういえば
「アメリカでのメキシコ人の気持ちが分かった」
と言っていました。

「よし。今日こそ言うぞ。今日こそ、
『言い方を気をつけろ。毎朝会っているんだから、人の顔を覚えろ。毎朝毎朝犯罪者扱いするな』
と言ってやるぞ」

 どう言えばいいのか、昨夜パブでオットーさんにそのチェコ語の言い方を教わり、丸暗記していました。一応、手のひらにはカタカナで「カンニングペーパー」も書いています。

 改札を出ました。いました。案の定、改札の出たところにいました。おなじみのメンバー…鬼にそっくりな大男の役人数名が立っていました。

 流れて出てくる乗客は白人のチェコ人だらけですから、私の姿は目立ちます。

 いつものように瞬時に見つけられ、ぬっと目の前に彼らが現れました。
「よし、今だ。例え警察に連行されることになったとしても、文句言うぞ!」

 と、その時です。鬼役人のうちのひとりがぼそっといいました。
「ナガノ」
「えっ?」
 もうひとりの鬼役人がいいました。
「ナガノ…。ナガノナイス」

 そして彼らはすっと私を通しました。道を空けたのです。まるで紅海のモーゼです。

 初めて、初めてです。初めて「身分証明書出せ」と言われず行かせてもらったのです。

 その後、二度と邪魔されることはありませんでした。ミラクルです。

 エジプトでは「おしん」人気に色々助けられ、チェコでは「長野」ブームに助けられた…。

 ほっこりしますが、今でもテレビでお笑い芸人の永野という人が
「ナガノ」と呼ばれていると、うっかり、自分のことかと反応してしまうのがああ嫌…。

 ナガノの…じゃなくLoloのチェコ編、続きます。次はチェコ語学校に通う編

※ヘッダー画像は顔見知りだった老夫婦。きっともうお亡くなりになっておられると思います。
 おばあさんはいつもベンチに座り、縫物をしながら
「社会主義時代の方が良かった」
ようなことをぼやいていました。

真ん中が私。会社のチェコ子さんたちと郊外へ。アラブ時代の反動で、二の腕や脚を出して歩けるのが嬉しかったので、チェコ時代の自分の写真を見せていると、肌を出しまくっています。笑


§追記
 前回、当時の氷河期であり男子優先&男子限定採用だらけだった時代の就活のことを書きましたが、KAZさんがこんな記事に上げられていました。

 2008年リーマンショック時代も特に女学生がいかに就活に不利で苦労していたかという、貴重な証言です。読み物としても感動しました。

 ちなみにKAZさんが長野の方というのに、今プロフィールを見直して気づきました。ウケました🤣👍



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