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ダイアナが死んだ(東京/ミラノ/カイロ)

これは、noteで繋がった、シオミンさん、ケンイチさん、そしてローロー(私) 三人の不思議な"巡りあわせ"の話です。

三人とも、本当にnoteのコメント欄でやり取りをしているだけなので、実際に互いに会ったことはありません。だから、それぞれ相手の顔も年齢も名前も、何もかも知りません。

本当にシオミンさんは女性なのか、ケンイチさんは男性なのか!?それすらも確証ありません。(もし性別すら違っていたら、それはそれで面白い)

あくまでもnote上でニックネームで呼び合う仲です。

そんな私たちがイギリス王室の、あの"ダイアナ"の件で、東京/ミラノ/カイロでシンクロニシティを共有したお話です。


👑シオミン inアンゴラ


1997年2月

ブラジルで育ち、ポルトガル語を話す日本人女性のシオミンはアンゴラに訪れた。通訳の仕事のためだ。これは彼女の初めてのアンゴラ入国だった。

このひと月ほど前、ダイアナ公妃がシオミンと全く同じアンゴラを訪れ、世界中で話題をさらっていた。イギリス王室の元妃が、声高だかに反地雷を呼びかけていたからだ。


🐫ローロー in カイロ


シオミンがアンゴラにいる頃、同じアフリカ大陸のエジプト、カイロに住んでいたローロー(私)は、アラビア語クラスで、ある新聞の翻訳に悪戦苦闘していた。

その記事は一ヶ月ほど前のもので、アンゴラでの、ダイアナ公妃の地雷撤去アピールについて書かれたものだった。

「"地雷"とか"撤去"とかそんな単語なんて知るわけないじゃないか。そもそもアンゴラってどこなのかしら」

とぶつぶつ言いながら、アラビア語辞書をひいていた。(※アフリカ大陸にいるとはいえ、全てのアフリカ諸国を把握していない)


 🐫ローロー in カイロ


エジプトの観光シーズンのピークは冬だった。1997年に入っても、日本からは相変わらず次々に、ツアーグループがエジプトに到着していた。

観光ガイドをしていたローローと組む添乗員の顔ぶれも、おおかた決まっていた。

彼女たちは毎回、日本の新聞、週刊誌を持って来てくれた。

エジプトのような秘境地に住む日本人は、"日本の情報"に飢えているのを知っていたからだ。

文字数の多い週刊誌が一番嬉しかったが、それでもオバサン向け女性週刊誌からは、日本の旬の俗っぽいゴシップが仕入れられるので、それはそれで面白かった。

女性自身やセブンといった週刊誌には、毎回ダイアナ元妃の記事が必ず載っていた。

日本の皇室ネタとダイアナ元妃の記事が抜けている号は皆無だったほど、絶対に皇室、そしてダイアナは登場していた。

それらのいくつかは、なかなか面白かった。

イギリス王室からは苦情が来ないのをいいことに、レディースコミック仕立ての、ダイアナの伝記漫画の連載や、

ダイアナ専属記者を名乗る、梨本勝氏のイギリス取材(ダイアナがだれそれとデートしたとか)など、愉快だった。


ちなみに、エジプトのメディアには、ほとんどダイアナ公妃に触れる記事はなかった。

まずイギリスまで飛ぶ取材費がない。(ビザも下りない)

二に、離婚後色々なデートを重ねる彼女の私生活を、イスラム教国としては、とても紹介できない。また、肌を露出した服装やビキニ姿の写真も載せられない。

三に、エジプトは王制を廃止し、共和国にもなった。他国のロイヤルファミリーを取材するなど、そもそもなかった。理由は多分、だが王制に憧れを抱かせないためではないか、と思う。

だから日本の雅子妃(当時)が中東を公式訪問された時も、エジプトではそのニュースをほとんど取り上げていなかった。(エジプトご訪問はなかったせいもあるが)


少なくとも、ローローがエジプトに住んでいる間、エジプト人と会話をしていても、王室や皇室のことなど、話題に上がることは全くなかった。

ダイアナ公妃の話にもなったことはない。誰も関心すら持っていないように見えた。


 🍣シオミン in 東京


同年の1997年8月30日-

ポルトガル語通訳のシオミンは、東京のA町にいた。家でくつろいでいると、すぐ近所に住む母親が突然やって来た。

「ダイアナ妃が死んだってよ!」

と大声を出した。唐突だった。

シオミンは

「えっ?」

慌ててテレビを付けた。

しかしどこのチャンネルでも、そんな速報など報じていない。

「どこもそんなニュースやってないわよ」

しかし母親はむしろ訝しがった。
「えっ、何の話?」


「さっき『ダイアナ妃が死んだ』」って言ったじゃない!」
「ええ~っ、そんなこと言ってないわよ~」
「???」
「空耳?」

母親はそんなことを言っていないの?、気のせいかな、とシオミンは思った。


🍝ケンイチ in ミラノ


1997年8月末日

サッカー試合観戦のため、ミラノ行きの鉄道に乗り込む、
ケンイチという名の、サッカー好きのひとりの日本人青年がいた。

しかし、ケンイチは妙な胸騒ぎを覚えていた。

これから本番の試合を見に行くというのに
この何かザラッとした、
得体の分からない不安感は何だろう。

しかし、列車は近代的なミラノの駅に到着した。

ブラジルのスター、ロナウドが
インテルに移籍し迎えたシーズンの開幕戦。


イタリア中がセリエAの
開幕の熱気に包まれていたミラノ。

ケンイチの心はいつの間にか、晴れていた。

そして、ユースホテルで知り合った仲間と
インテル開幕戦を一番安い席で観戦した。


小さいロナウドが綺麗なインテルカラーの
ユニホームでピッチを走っている。


彼は興奮した。

ゲームをも終わり、夜9時にホテルに戻った。

でもまだ、興奮はまだ冷めやらない。

「日本の友達に
生でロナウドを見た事を教えてやろう!」

ケンイチは電話をかけた。しかし繋がらない。


国際電話は当時、かなり高額だった。カードを買って電話BOXで
1分数百円する電話をかけていた。


しかし、どににかけたのか間違えたのか繋がらず。

「国際電話代高いのになぁ」。

ケンイチは知らなかった。彼が繋がらない国際電話をかけて

「おかしいな」

と思っていた同時刻、地中海を渡ったエジプトのカイロの、

とあるアパートで、しつこい国際電話の呼び出しベルが鳴り響いていたことを。


 🐫ローロー in カイロ


ジリリンジリリンジリリン。

1997年8月も終わる日-

カイロのアパートに間違い電話がかかってきた。

ジリンジリンだと、市内からの電話で

ジリリンジリリンと長いコールだと、市外または国際電話がかかってきくる時のものだった。

カイロは間違い電話が多かった。

交換手が手動で操作しているためと、電話回線自体に問題があって、さらに政府や軍の盗聴も日常茶飯事だったからだ。

間違い電話のほとんどは海外だった。


あーあ、どうせまた間違い電話だ。

ローローは出なかった。もしこの時、受話器に出ていたら、もしかしたらそれはミラノのケンイチだったかもしれない。


 🍝ケンイチ in ミラノ


翌日夜-

ユースホテルの食堂で、ケンイチはバックパッカー仲間たちとサッカーの話で盛り上がっていた。


その食堂に置かれているテレビは、サッカー関連ニュースを流していた。

突然、サッカー関連ニュースが切り替わった。
ダイアナ公妃の事故ニュースが流れだした。

ダイアナが死んだ!

と誰かが叫び

皆、初めはどのダイアナ?と
よく分からなかった。


サッカー熱で興奮している
ケンイチらは別の人と勘違いした。

しかし、
ニュースを見てイギリスの元王妃
あの有名なダイアナ妃と知った。

           

 🐫ローロー in カイロ


翌日-

カイロのアパートにまたジリリンジリリンがなった。

どうせまたまた間違い国際電話だ。

そう思ったが、気まぐれと何となく"胸騒ぎ"を覚え、でちょっと受話器を取ってみた。


エジプト人の電話交換手オバチャンの声がして

そして日本の母親の声が聞こえてきた。

それまで一回も国際電話をかけてきたことのない、母親だ。

「どうしたの?」

「ダイアナが死んだのよ!」


ローローがアラビア語学校に行くと、人種国籍、職業性別関係なく、全員がうつむいていた。誰もがダイアナの突然死に動揺して気落ちしていた。

放課後-

茶店に寄ると、エジプト人のオッサンたちも泣いていた。

オッサンたちが、ダイアナを知っていたことに驚き、彼女の突然の事故死にショックを受け悲しんでいることにも驚いた。


エジプト人のオッサンたちは

「エジプト人のモスリムと仲良くしていたから、殺されたんだ。十字軍の時から、キリスト教の連中何も変わっていやしない」。


カイロの街角の新聞売り少年から、アルハラムの新聞を購入した。

ダイアナ元妃の死亡はトップ記事だった。あとで思えば、暗殺説はエジプトでいち早く出たと思う。

恋人のエジプト人の父親がどれだけ億万長者なのか、しかしモスリムで武器商人なので、イギリスの国籍を取得できない、

ということもエジプトのメディアでは、早い段階で議論がなされていた。


🍣シオミン in 東京


カイロの茶店で、ローローがエジプト人のオッサンたちから、ダイアナへの哀悼の意や暗殺疑惑をじめじめと聞かされている時、

東京のA町にいる、シオミンはア然としていた。

何故なら、テレビや新聞ではダイアナの死を報道しているからだ。

おかしいのは、

母親が「ダイアナが死んだ」と大声を出した(少なくともはっきりそう聞こえた)のは、実際にダイアナが事故に遭ったという報道すらされる"前"だった。

「一体、どういうことなのだろう、あれは何だったのだろう」。

             

🍷ケンイチ in パリ


さらに同時刻、ミラノにいたケンイチはイタリア新聞を

手にとっていた。

ダイアナの死は本当だった。衝撃を受けたが、ケンイチは予定通り旅を続ける。

旅の終わり11月だった。


最後はパリ戻って来ていた。

ふと思い立ったケンイチは、

ダイアナが事故した現場に寄ってみた。

そこは橋の下がトンネルになっており、
その狭いトンネルの中でダイアナの事故が起きた事を知る。

橋の上にはフランスがアメリカに送った自由の女神が持つ松明の
レプリカオブジェが飾られ、その周りに花がぎっしり置かれていた。

皆 ダイアナ妃をしのんでいた。


ケンイチは、何故かトンネルを歩いて見たくなった。

本来は歩行してはいけない、そして歩行する歩道はない。

壁際に少しだけ段差がついており、なんとか歩く事ができる幅だけがあり意思に関係なく、事故現場に入ってしまった。

            

🐫ローロー in カイロ


ケンイチが、ダイアナ事故現場で、何とも表現しにくい感傷に浸る中、ローローはそこから歩いて数分にある、アパルトマンの部屋にいた。

彼女はカイロを急遽離れていた。

いずれ書く予定だが、その年の9月、カイロのエジプト考古学博物館前で大きなテロ事件が勃発していた。そこに居合わせており、命が間一髪だったことがあった。

そしてその直後、

「年内にもう一本、大きなテロ事件の計画がある」

という"噂"を耳にしていた。

真偽は分からないが、大規模なテロを目の当たりにすれば、さすがに「これは!」と身がすくむ。

取り急ぎ、未払い分だったお金も全額、勤務先の旅行会社から受け取り、エジプトを出た。

パリに飛んだのは、エジプトで知り合い交際を続けていた人がそこに戻っていたのと、あとルーブル美術館のエジプトコーナーを見たかったからだ。

🍷シオミン in パリ


シオミンは、また仕事でアンゴラに発つことになった。パリ経由だった。

11月2日に成田を発ちシャルル・ド・ゴール空港へ向かった。そしてそこに2,3泊した後の11月5日にアンゴラへ入国した。

入れ違いだった。ローローは11月4日にカイロ国際空港を発ち、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着。

二人はミスミートでヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を横断したのだ。


🍷ローロー in パリ


ローローは、ダイアナ事故現場のすぐそばのアパルトマンに滞在させてもらっていた。

すぐそばの事故現場には、まだ献花を捧げにくる人々が途絶えていなかった。

「ダイアナは、王制のない共和国のフランス人にもこんなに愛されていたのか...」

11月だったので、パリの観光シーズンではなかったが、日本人もちょくちょくやって来ていた。彼らもまた、ちゃんと手を合わせ頭を下げていた。

ローローが事故現場トンネル付近をうろうろしたのは、ケンイチの前だったのか後だったのか、分からない。

             

🍣三人 in 日本


パリに滞在した後、ローローは一旦日本に戻った。

シャルル・ド・ゴール空港発の、成田行きの便には日本人ばかりだった。ケンイチも同じ便だったかもしれない。


東京では、ローローは近所のアンゴラ大使館の前をいつも通った。

一回だけ、日本人女性がアンゴラ大使館の大きな門から出て来た。アンゴラ人職員とべらべら外国語で会話をしていた。(ポルトガル語とは気づかなかった)

その女性がシオミンだったのかどうか、ローローは知る由もない。(←これも実話)


🍣🍝🍷🐫


そしてダイアナの死から25年。

何となく、自分の様々な海外話でもネット上で書いてみたいなと思った。

やはり、まずは一番思い出もあり、繋がりも深いエジプトのことを書こう、と思った。

一発目の投稿はピラミッドの何か話にしようと決めた。やはりエジプトといえばピラミッド。非常にとっかかりが良い、キャッチーだ。


ところがタイトルに「ピラミッドツアー観光ガイド..」と打とうとしたその瞬間、テレビが

「そろそろダイアナ公妃の命日ですが、ヘンリー王子とメーガン妃は...」と言い出した。

ダイアナ?

メーガンはどうでもいいけど、ダイアナ?


気づけは、私のnote初回投稿タイトルは、

「ダイアナが死んだ」になっていた。


でも、エジプト留学連載の一発目がダイアナの死亡!

どうかなと思ったが、あげてみた。もちろん、全然閲覧されなかった(苦笑)が、しかし..

ハッシュタグでダイアナ、を付けたからだろう。

私(ローロー)のこのダイアナ記事が、シオミンさんの目に留まった。

「私もダイアナの死んだ時には、奇妙な経験をしていて、それを記事にしているんです」。


さらにもうひとり、同じことを言い出した人物が現れた。それがケンイチさんだった。


1997年8月末、地球上の全然別々のところにいた面々が、みんなそれぞれ奇妙な感覚に襲われ、その直後にダイアナ公妃の死亡ニュースが舞い込んだ。

何となく、不思議だなあと思っていたところ、noteでその赤の他人三人が繋がった。びっくりです。


あなたは1997年8月31日、何をしていましたか?あなたも私たちに繋がるかもしれませんヨネ...



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