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20020906 文章力

 「文章力$${^{*1}}$$」という言葉がどうも気に入らない。自分には、文章による表現能力やその文章を構成する能力がないと思っているから「文章力」という言葉が気に食わないのではない。「文章力」という言葉そのものが嫌なのである。

 この「文章力」という言葉はいつ頃からある言葉だろうか。10年前にはなかったような気がする。新しい言葉だから気に入らない、と言うわけでもない。言葉の成り立ちが論理的でないからである。古い言葉はたとえ論理的でなくともその言葉に意味が染み込んでしまっているので違和感はない。山とか川を何故「やま」「かわ」というのか理由はよく判らないが、納得してしまっている。

 例えば「高川」という言葉を作ったとする。意味は「『高い』山の麓が源流となっている流れの速い『川』」としたらどうであろう。一般名詞としては不適当である。何故ならその意味が論理的に導き出せないからである。

 新しい言葉は既存の言葉の組み合わせしかあり得ない。そうでないと定着しない。固有名詞で全く新しい音のつながりでも定着することがあるが、これは既存の言葉と何となく似ている場合ぐらいしかないだろう。一般名詞ではこうはいかない。

 文章力の意味は論理的には類推出来ない。「文章」という単語を、「動作」を表す言葉として使う習慣がないからである。従って意味が判然としない。恐らく「文章を書く能力」という意味だろう。しかし小学1年生が作文する能力を「文章力」とは表現しないだろうから、ただ単に日本語の文章が書けると言う意味ではない。

 「文章」と「力」とを組み合わせて出来た言葉の意味を定義した時に論理の飛躍がある。「高川」の例と同じだ。「文章」を「文章を書くこと」と言う意味に捉えなければならない。短い単語の中に飛躍があると、もう論理的には意味を理解することはできない。「無洗米$${^{*2}}$$」と同じである。「無洗」を「洗わなくてもいい」とするのは無理がある。

 「老人力$${^{*3}}$$」という言葉は赤瀬川原平$${^{*4}}$$が作った。これは「老人」という動作を表していない単語と「力」とを組み合わせる面白さも狙って作ったのだと思う。「文書力」という言葉には面白みのかけらもない。

 ある日「馬鹿力」という言葉を見かけた。「老人力」「文章力」の次は「馬鹿力(ばかりょく)」か、と思ってしまった。「ばかぢから」は「あきれるくらいの力」であって「馬鹿さを露呈する能力(勢い)」ではなかった。

 馬鹿力を少し発揮してしまった。

*1 ホンモノの文章力-自分を売り込む技術
*2 20010328 無洗米
*3 この10年
*4 20000227 日本銀行券

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