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20041007 明日の命(2)

 徒然草$${^{*1}}$$に「いつ死ぬか判らないのに、たわいない事にうつつを抜かしている愚かさ$${^{*2}}$$」について書かれている文章がある。

 この文章で吉田兼好$${^{*3}}$$は、そう言ったことは誰でも感づいていることだが、何かをきっかけにして、改めて自らの愚かしさを考えてしまうと結んでいる。

 長年生きてきて、今は大人になったので「いつ死ぬか判らない」ということや「自分が死ぬということはどういうことか」ということは十分理解できている。できているつもりである。しかし子供の頃はそんなことを考えたこともなかった。来年も再来年も夏や冬が来れば、学校が休みになり、一日中遊べると思っていた。

 上の娘の同級生$${^{*4}}$$に、来年、再来年の夏や冬を迎えることができる確率が他の児童に比べはるかに低い子がいる。彼がこの状態をどのように思っているのか私には知る由もない。もし「いつ死ぬか判らない」ということを理解しているのならば、彼にとって「たわいない事」と「そうでない事」との違いはなんだろう。

 おそらくそんな区別はないだろう。全てのことが大切なことであると考えるに違いない。これは、経験が少ないから取るに足らない事かどうかの判断ができないためと考えることもできるが、むしろ自分の生活全てにおいて無駄はないという確信があると考えるべきだろう。まぁ、そんなに難しく考えているとはとても思えないが、とにかく「詰まらぬ時間を過ごした」などと少しでも悔やむことはないだろう。

 「たわいない事にうつつを抜かした」と思うのは自分の行動に責任や自信がないからである。いつ死ぬか判らないのにそう言った行動をするのが愚かなのではなく、自分の行動に責任や自信が持てないことそのこと自体が愚かなことなのである。いつ死ぬかは関係ない。

*1 徒然草(日本文学大系)1/4
*2 徒然草 第四十一段
*3 吉田兼好
*4 20041006 明日の命

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