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20031006 言葉は生き物

 「直截」は「ちょくせつ」$${^{*1}}$$、「消耗」は「しょうこう」、「膏肓」は「こうこう」、「早急」は「さっきゅう」と読むのだと力説すると、言葉というのは生き物なのだから変化して当たり前、そんな細かいことを言っても仕方がない、と言う人が時々いる。

 こういう人に限って本来の読みを知らない場合が多い。つまり「言葉は生き物$${^{*2}}$$」という表現を自分の無学の言い訳に使っているのである。

 もともと「言葉は生き物」という表現は、新語や死語を生物の生死に喩えたのだろう。上の言い訳ではそこに用法などの変化も含めてしまっている。「変化」を生き物に喩える例はあるのだろうか。生物は進化したり退化したりするが、その変化は緩慢すぎて目に見えない。従って「変化」の例えとして「生物」は相応しくない。

 「生物(なまもの)」ならば変化の例えとして成り立つかもしれない。一般的になまものは腐るものだから、言葉が死んでいく喩えとしてはいいかもしれない。が、単なる読み方や用法の変化を「なまもの」と表現するのはやはりおかしい。

 「なまもの」と同じように「生き物」も年を重ねれば変化していくので、これを言葉の変化に喩えているのだ、という考え方があるかもしれない。しかしどうして文法の変化や漢字の読みかえ等の変化を生き物の経年変化に喩えることが出来るのだろうか。生物は大抵必ず死ぬ。生物の成長は必ず死に向かっている。言葉の変化は死に向かっているのだろうか。むしろ変化する言葉は生き続けている。

 漢字の読み方が変化することを言おうとして「言葉は生き物」という表現は用いる人は、もともとの読み方も知らなかった上にそのことの言い訳にもなっていないのである。

*1 20031005 直截
*2 Google 検索: 言葉は生き物

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