カールマルクスが渋谷に転生した件 14 マルクス、再開発を嘆く(前半)
マルクス、囲まれる
「あれは...」
会議室を出たマルクスが、窓際に立ち止まる。
「どうかしました?」さくらが心配そうに覗き込む。
「私が転生した時には」マルクスが指さす先に、巨大なクレーンが立ち並ぶ。「あの場所に古い建物が...」
「ああ」木下がスマホで確認する。「渋急の新再開発計画ですね」
「渋急?」
「はい」ケンジが説明を始める。「渋谷のほとんどの再開発を手がける私鉄資本です」
「ふむ」
マルクスが窓際から離れ、YouTubeの画面を開く。
「では、現地調査だ」
「え?」
「Das Kapital TV、渋谷再開発特集」マルクスが意気揚々と。「まずは渋谷カルチャーの歴史的意義から解説し...」
「ちょっと待って」木下が止める。「その前に企画会議を...」
「待つことなどない!」マルクスが鞄を掴む。「現場へ急行するぞ!」
「はあ」さくらがため息。「また突発ロケですか」
スクランブル交差点に到着したマルクスは、さっそくカメラの前で熱弁を振るい始めた。
「見たまえ、この光景を!資本による都市空間の簒奪!まさにこれこそ...」
「Oh my god!」
突然、若い外国人観光客の声が響く。
「Is that... Karl Marx!?」
マルクスの髭が一瞬ビクリと動く。
「Wait, what!?」
別の観光客が駆け寄ってくる。
「THE Marx? For real!?」
「ふむ」マルクスが少し困ったように髭をいじる。「確かに私は...」
「Das Kapital TV、英語字幕で全部見てます!特に賃金労働と疎外の回が...」
「おお」マルクスの目が思わず輝く。「君は私の理論を...」
「Can I get a selfie?」
「私も!」
「Me too!」
「ちょっと」さくらが困惑する。「こんなことになるなんて...」
「しかし」マルクスが意外な冷静さで。「これも現代の記録様式というべきか。」
「あの」ケンジがカメラを構え直す。「せっかくなんで、この人だかりも含めて撮りましょうか」
「なるほど!」マルクスの髭が誇らしげに揺れる。「まさに現代の祝祭的消費空間における...」
「Perfect!」金髪の女性が叫ぶ。「私のInstagramのフォロワーが喜ぶわ!」
「Instagram?」マルクスが首を傾げる。「それは新たな生産手段か?まさか承認欲求の搾取装置では...」
「マルクスさん」木下が苦笑。「また理論が始まりそうです」
「すみません」警官が近づいてくる。「こちらで撮影されると通行の方の迷惑となりますので…」
「なに!?」マルクスが振り返る。「これぞまさに資本の意向を受けた公権力による...」
「Amazing!」観光客たちが興奮気味に。「怒ってる Marx is just like in the memes!」
「しかし待て」マルクスが突然立ち止まる。「この警官も、実は賃金労働者として搾取される立場なのだ。我々は連帯すべき...」
「いや」さくらが慌てて腕を引っ張る。「それは後で動画にまとめましょう。とりあえず、近くの喫茶店にでも」
「やれやれ。どこか落ち着いた店で頼むぞ」
マルクス、懐かしむ
「こちらへどうぞ」
老舗ジャズ喫茶の店主が奥の席に案内してくれる。レコードプレイヤーからは、ジョン・コルトレーンの音が静かに流れている。
「撮影の方も、この席なら目立ちませんから」
「ほう」マルクスが店内を見回す。「この喫茶店、まるでロンドンのコーヒーハウスのようだ。定期的に通おうではないか」
店主の表情が一瞬曇る。
「ありがとうございます。ただ...」
「どうかされましたか?」さくらが心配そうに振り返る。
「来年の再開発で、この場所は取り壊しになるんです」
「なに!?」マルクスの髭が逆立つ。「この歴史ある喫茶店が...」
「息子が」店主が続ける。「新しい商業施設の一角に店を移すことには成功したんですが」
「ほう?」マルクスの眉が動く。
「渋急が『カルチャーゾーン』として、一部テナントを優遇して...」木下がタブレットで確認する。
「そう」店主が苦笑する。「家賃も抑えめで、設備も新しくなる。WiFiも完備で、予約システムも導入して...」
言葉が詰まる。
「実は、まだ悩んでいるんです」
レコードプレイヤーからコルトレーンの「My Favorite Things」が流れ始める。
「この音です」店主が静かに続ける。「このスピーカーは20年前に、常連さんと一緒に選びに行って。置く場所も、天井の高さも、壁の素材も、全部計算して」
窓際の老紳士が頷く。
「この音の厚みは、他じゃ聴けないよ」
「息子は分かってくれてるんです。でも...」店主がため息をつく。「新しい店は『モダンジャズ』がコンセプト。床も壁も、スピーカーも、全部新しくして。確かに、それも素敵な空間になるのかもしれない。でも...」
「この40年が、このままなくなってしまうんですね」さくらはどこか寂しそうだ。
「あ、そうだ」店主が思い出したように。「明日、商店街の会合があるんです。渋急の担当者も来て、他の店舗の移転について...」
「撮影させていただけませんか?」ケンジが食い入るように割り込む。「Das Kapital TVで。この店の歴史も含めて」
「ケンジさん」さくらが窘める。
「いえ」店主が手を振る。「むしろ、記録に残しておきたいんです。この店の空気を。このコミュニティを。新しい店も、きっといい店になる。息子は息子なりに、頑張ってくれる。でも、この場所での40年は...」
「交換価値と使用価値の矛盾だ」マルクスが珍しく抑えた声で言う。「使用価値の多層性という問題かもしれない」
「どういうことですか?」さくらが訊く。
「この店の価値は、コーヒーを提供する機能だけではない。音楽を聴く場所としての価値、人々が出会う場所としての価値、そして...記憶を紡ぐ場所としての価値」
マルクスはコーヒーを一口飲む。
「これらすべてが、資本の論理では計れない」
「はい」店主が少し明るくなる。「Das Kapital TVは私も常連さんに教えてもらって見てました。もし良ければ、明日の会合を...」
窓の外では、クレーン車が古いビルを少しずつ解体していく音が響いていた。
後半に続く