「西成のチェ・ゲバラ」20 警察が取り調べでイチャモンつけてきた件
夜が更けていく。
診療所の窓にけたたましいサイレンが響くたびに、待合室の人々が息を飲む。
「先生は、無事やろか」
魚屋の若い衆の母親が、
落ち着かない様子で立ち上がる。
「タンのお母さんと、連絡が...」
バンの妹が、携帯を握りしめている。
診療所には街の人々が次々と集まってきていた。
逮捕された者の家族。
心配する住民たち。
途方に暮れた技能実習生たち。
誰もが不安げに、まちを見つめる。
彼女は、ぎこちない日本語と片言の中国語、それに身振り手振りを交えて、できる限りの説明を繰り返す。
「先生なら、きっと...」
その言葉は、いつも途中で途切れた。
窓の外では、機動隊の装甲車がまだ街を巡回している。
催涙ガスの匂いが、どこかに残っているような気がした。
十二時間。
連絡は何もない。
まちは何度目か、スマートフォンの画面を見つめる。
通話履歴に並ぶ発信記録。
どれも、応答はない。
*
府警本部。
深夜の取調室前の廊下。
白木康二は、分厚いファイルに目を通していた。
京都大学法学部卒の警視。
最近、この管轄に異動してきたばかりだ。
「西成で暴動か」
ファイルをめくる指に力が入る。
工場での事故。
二十歳の技能実習生の死亡。
その後の混乱。
そして、診療所。
最後のページに、キューバ発行のパスポートのコピー。氏名は、エルネスト・ゲバラ。
「...」
白木の目が冷たく光る。
中庭では、連行されてきた者たちの声が響く。
市場の面々。
実習生たち。
そして...
「取調の準備が」
若い警官が声をかける。
白木は無言で頷く。
取調室のドアに手をかける。
その重みが、今夜の闇より重かった。
*
取調室のドアが開く。
四畳半ほどの無機質な空間。
質素な机と椅子。
そして、そこに座るゲバラ。
血の付いた白衣は、別の服に着替えさせられていた。
白木は静かに椅子を引く。
机の上にファイルを置く音が、
妙に大きく響く。
「今回の事案について、詳しく話を聞かせてもらいたい」
白木の声は平坦だった。
「東帝製造の工場での事故、そしてその後の暴動について。警察官への暴行容疑も含めて」
ゲバラは黙って頷く。
まるで診察室で患者を待つ時のような、静かな佇まい。
白木は、ゆっくりとファイルを開く。
ページをめくる音だけがこの密室に満ちていく。
「調べによると、あなたはポデローサ診療所の医師。開業は一年前。アルゼンチンと日本の医師免許を持つ、エルネスト・ゲバラ氏」
白木は新しいページを開く。
キューバ発行のパスポートのコピー。
そこには同じ名前。
同じ顔写真。
ただし、生年は1985年。
「興味深いパスポートですね」
白木の声に、微かな変化が生まれる。
「キューバ政府発行。記載の内容も本人と...ほぼ同一」
その「ほぼ」という言葉に、かすかな重みが載せられていた。
ゲバラの口元が、かすかにほころぶ。
杜撰な手続きで、ただ生年だけを変えた古い友の配慮が、どこか愛おしい。
部屋の空気が、一瞬凍る。
蛍光灯の明かりが、二人の影を壁に映す。
捜査一課の警視が、キューバ革命の英雄を前にしている。
そんな非現実的な状況が、この小さな取調室で、確かな現実となっていた。
窓の外で、サイレンの音が響く。
まだ、街は眠れないでいた。
「興味深い話です。ただ今は、今回の件について、先に話を」
白木は遠い目をしながら、ゆっくりとファイルを閉じる。
取調室の空気が、わずかに動く。
夜が更けていく音がどこか遠くで響いていた。
「私が総務部長を殴ったことは、事実だ」
ゲバラは静かに告げる。
「理由は?」
「彼は、人の命を数字でしか見ていなかった。二十歳の命を、リスクと呼んだ」
「亡くなった技能実習生のことですか」
「タン・ヴァン・ミン。ベトナムのハイフォン出身だ。母と二人の弟がいる。今月の仕送りは、まだ間に合わなかった」
白木は黙って頷く。
メモを取る手付きに、他の警察官とは違う何かがあった。
「事故の詳細な経緯を」
「私が診療所に着いた時には、すでに手遅れだった。火傷の深さから見て、消火設備は機能していなかったはずだ」
「そのあたりは、現場検証でも確認されています」
白木は新しいページを開く。
「昨年の立入検査でも、同様の指摘が」
「この国の技能実習制度は、見過ごされた奴隷制度だ。安全管理は形だけ。人の命より利益が優先される」
「それは、随分と厳しい指摘ですね」
「キューバでもアルゼンチンでも、搾取はあった。だが、ここでは制度という名の暴力が、法律という名の下に行われている」
白木の目が、かすかに光る。
「もう少し具体的に」
「彼らは『実習生』と呼ばれている。だが実態は、使い捨ての労働力だ。安全教育は母国語では行われず、危険な作業も、まともな訓練もないまま」
「それは東帝製造だけの問題では?」
「いいや。この国のシステムそのものの問題だ」
ゲバラの声に力が込もる。
「最低賃金すれすれの給料。劣悪な住環境。そして、逃げ出せば『失踪』と呼ばれる。数年働けば強制的に帰国させられる。まるで、使い捨てのコマだ」
取調室に重い沈黙が落ちる。
蛍光灯が、ちかちかと明滅する。
「実は、私も気になっていたんです」
白木が、思い切ったように切り出す。
「東帝製造の工場。これまでの記録を見ると、労基署からの指摘も、内部告発も、複数回あった」
「にも関わらず、誰も動かなかった」
ゲバラの目が、白木を捉える。
「ええ。私が異動してきて、最初に気づいたことの一つです。いや、気づかざるを得なかった」
白木は深くため息をつく。
「あまりにも露骨すぎた」
「誰かが、この状況を望んでいるということか」
白木の沈黙が答えになっていた。
窓の外では、まだ街が眠れないでいた。
「話を変えましょう」
白木は、ふと姿勢を正す。
「私にもできることがあったはずだ」
ゲバラは黙って相手を見つめる。
「死亡事故の直後、あの工場に踏み込む権限は私にあった」
白木の声には後悔が滲む。
「その意味では、私にも責任がある」
「なぜ踏み込まなかった」
「情報がすぐに降りてこなかった。新参者の私は厄介者だと思われたのでしょう」
白木は机の上のファイルに目を落とす。
「でも、それは言い訳にすぎない。結果として、取り返しのつかないことが」
外からサイレンの音が響く。
まだ、街のどこかで何かが起きている。
「今回の件、私なりの償いをさせてください」
白木が静かに告げる。
「遅くとも、逮捕者は数日で釈放されるはずです。不起訴になる可能性が高い。私がそう進言する」
「工場は?」
「徹底的な調査に入ります。これまでの行政指導、労基署の指摘、すべて洗い直す」
白木の目に力が宿る。
「技能実習生の死亡事故を、これ以上なかったことにはさせない」
白木は、ゆっくりとタバコを取り出した。
火をつけることはない。ただの仕草だ。
「この街には、様々な人間が流れ着く」
白木は、タバコを転がすように机に置く。
「過去を捨てた者も、未来を探す者も」
ゲバラは黙って頷く。
「私は、目の前の事実しか扱わない」
白木の声は静かだった。
「今、この街で起きていること。それだけを」
「賢明な判断だ」
ゲバラの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ただ、一つ聞かせてください」
白木の目が真摯な光を宿す。
「なぜ、この街を」
「この街には、誰も見向きもしない人々がいる」
ゲバラの声が落ち着いた響きを持つ。
「制度の外に置かれた者たち。私には、その顔がよく見える」
取調室の空気がゆっくりと動く。
二人の間に、深い理解が流れていた。
「お気をつけて」
白木は立ち上がり、ドアに手をかける。
「この街には、貴方のような医者が必要だ」
ゲバラは無言で頷いた。
取調室を出る時、二人は互いの背中を確かめるように、一瞬の間を置いた。
*
夜が明けていた。
先に釈放された者たちが、三々五々、署の外に集まっていく。
バン、李、魚屋の大将。
皆、無言でゲバラを待っていた。
「先生」
八百屋の主人が声をかける。
「すまなかったな」
「何が」
「あんたの言うこと、聞けへんかって」
「止められへんかって」
「いや」
ゲバラは空を見上げる。
「私も、止められなかった。止めようとしたのに」
夏の朝の光が、彼らの影を長く伸ばしていた。
「先生!」
その声に、全員が振り向く。
診療所の方から、まちが走ってくる。
携帯を握り締めたまま、目には涙が光っていた。
ゲバラは、静かに白衣を受け取る。
まちは何も言えず、
ただ肩を震わせている。
「記録は?」
「はい...全部」
「工場の実態も、暴動の一部始終も」
「でも...先生の...あの...」
「大丈夫だ」
ゲバラは、そっと診療所の方を見やる。
「記録すべきは、この街で起きていることだ」
「過去では、ない」
白木の言葉が、頭をよぎる。
この街には、様々な人間が流れ着く。
過去を捨てた者も、未来を探す者も。
「先生」
バンが声をかける。
「工場は、どうなるんでしょう」
「調査が入る」
ゲバラは、朝日に目を細める。
「そして、おそらく」
「ああ」
魚屋の大将が頷く。
「撤退やな。あの東帝は」
「技能実習生たちは...」
李の声が不安げに揺れる。
「うちで雇うたる」
八百屋の主人が言う。
「うちも」
「うちも構わへんで」
次々と声が上がる。
ゲバラは、黙ってそれを聞いていた。
この街は、こうして誰かの居場所になっていく。
制度の外で。しかし、確かに。
「診療所、戻りましょう」
まちの声が、柔らかく響く。
「待ってる人が、たくさん」
ゲバラは白衣のポケットに手を入れる。
いつものシガリロはない。
代わりに、聴診器の感触。
暴力ではなく、
記録ではなく、
ただ、目の前の命と向き合うために。
朝もやの中を、皆で歩き出す。
新しい一日が、また、始まろうとしていた。