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「西成のチェ・ゲバラ」20 警察が取り調べでイチャモンつけてきた件

夜が更けていく。
診療所の窓にけたたましいサイレンが響くたびに、待合室の人々が息を飲む。

「先生は、無事やろか」
魚屋の若い衆の母親が、
落ち着かない様子で立ち上がる。

「タンのお母さんと、連絡が...」
バンの妹が、携帯を握りしめている。

診療所には街の人々が次々と集まってきていた。
逮捕された者の家族。
心配する住民たち。
途方に暮れた技能実習生たち。

誰もが不安げに、まちを見つめる。
彼女は、ぎこちない日本語と片言の中国語、それに身振り手振りを交えて、できる限りの説明を繰り返す。

「先生なら、きっと...」
その言葉は、いつも途中で途切れた。

窓の外では、機動隊の装甲車がまだ街を巡回している。
催涙ガスの匂いが、どこかに残っているような気がした。

十二時間。
連絡は何もない。
まちは何度目か、スマートフォンの画面を見つめる。

通話履歴に並ぶ発信記録。
どれも、応答はない。

府警本部。
深夜の取調室前の廊下。

白木康二は、分厚いファイルに目を通していた。
京都大学法学部卒の警視。
最近、この管轄に異動してきたばかりだ。

「西成で暴動か」
ファイルをめくる指に力が入る。

工場での事故。
二十歳の技能実習生の死亡。
その後の混乱。
そして、診療所。

最後のページに、キューバ発行のパスポートのコピー。氏名は、エルネスト・ゲバラ。

「...」
白木の目が冷たく光る。

中庭では、連行されてきた者たちの声が響く。
市場の面々。
実習生たち。
そして...

「取調の準備が」
若い警官が声をかける。

白木は無言で頷く。
取調室のドアに手をかける。
その重みが、今夜の闇より重かった。

取調室のドアが開く。

四畳半ほどの無機質な空間。
質素な机と椅子。
そして、そこに座るゲバラ。
血の付いた白衣は、別の服に着替えさせられていた。

白木は静かに椅子を引く。
机の上にファイルを置く音が、
妙に大きく響く。

「今回の事案について、詳しく話を聞かせてもらいたい」
白木の声は平坦だった。
「東帝製造の工場での事故、そしてその後の暴動について。警察官への暴行容疑も含めて」

ゲバラは黙って頷く。
まるで診察室で患者を待つ時のような、静かな佇まい。

白木は、ゆっくりとファイルを開く。
ページをめくる音だけがこの密室に満ちていく。

「調べによると、あなたはポデローサ診療所の医師。開業は一年前。アルゼンチンと日本の医師免許を持つ、エルネスト・ゲバラ氏」

白木は新しいページを開く。
キューバ発行のパスポートのコピー。
そこには同じ名前。
同じ顔写真。
ただし、生年は1985年。

「興味深いパスポートですね」
白木の声に、微かな変化が生まれる。
「キューバ政府発行。記載の内容も本人と...ほぼ同一」

その「ほぼ」という言葉に、かすかな重みが載せられていた。

ゲバラの口元が、かすかにほころぶ。
杜撰な手続きで、ただ生年だけを変えた古い友の配慮が、どこか愛おしい。

部屋の空気が、一瞬凍る。
蛍光灯の明かりが、二人の影を壁に映す。

捜査一課の警視が、キューバ革命の英雄を前にしている。
そんな非現実的な状況が、この小さな取調室で、確かな現実となっていた。

窓の外で、サイレンの音が響く。
まだ、街は眠れないでいた。

「興味深い話です。ただ今は、今回の件について、先に話を」
白木は遠い目をしながら、ゆっくりとファイルを閉じる。

取調室の空気が、わずかに動く。
夜が更けていく音がどこか遠くで響いていた。

「私が総務部長を殴ったことは、事実だ」
ゲバラは静かに告げる。

「理由は?」

「彼は、人の命を数字でしか見ていなかった。二十歳の命を、リスクと呼んだ」

「亡くなった技能実習生のことですか」

「タン・ヴァン・ミン。ベトナムのハイフォン出身だ。母と二人の弟がいる。今月の仕送りは、まだ間に合わなかった」

白木は黙って頷く。
メモを取る手付きに、他の警察官とは違う何かがあった。

「事故の詳細な経緯を」

「私が診療所に着いた時には、すでに手遅れだった。火傷の深さから見て、消火設備は機能していなかったはずだ」

「そのあたりは、現場検証でも確認されています」
白木は新しいページを開く。
「昨年の立入検査でも、同様の指摘が」

「この国の技能実習制度は、見過ごされた奴隷制度だ。安全管理は形だけ。人の命より利益が優先される」

「それは、随分と厳しい指摘ですね」

「キューバでもアルゼンチンでも、搾取はあった。だが、ここでは制度という名の暴力が、法律という名の下に行われている」

白木の目が、かすかに光る。

「もう少し具体的に」

「彼らは『実習生』と呼ばれている。だが実態は、使い捨ての労働力だ。安全教育は母国語では行われず、危険な作業も、まともな訓練もないまま」

「それは東帝製造だけの問題では?」

「いいや。この国のシステムそのものの問題だ」
ゲバラの声に力が込もる。
「最低賃金すれすれの給料。劣悪な住環境。そして、逃げ出せば『失踪』と呼ばれる。数年働けば強制的に帰国させられる。まるで、使い捨てのコマだ」

取調室に重い沈黙が落ちる。
蛍光灯が、ちかちかと明滅する。

「実は、私も気になっていたんです」
白木が、思い切ったように切り出す。
「東帝製造の工場。これまでの記録を見ると、労基署からの指摘も、内部告発も、複数回あった」

「にも関わらず、誰も動かなかった」
ゲバラの目が、白木を捉える。

「ええ。私が異動してきて、最初に気づいたことの一つです。いや、気づかざるを得なかった」
白木は深くため息をつく。
「あまりにも露骨すぎた」

「誰かが、この状況を望んでいるということか」

白木の沈黙が答えになっていた。
窓の外では、まだ街が眠れないでいた。

「話を変えましょう」
白木は、ふと姿勢を正す。
「私にもできることがあったはずだ」

ゲバラは黙って相手を見つめる。

「死亡事故の直後、あの工場に踏み込む権限は私にあった」
白木の声には後悔が滲む。
「その意味では、私にも責任がある」

「なぜ踏み込まなかった」

「情報がすぐに降りてこなかった。新参者の私は厄介者だと思われたのでしょう」
白木は机の上のファイルに目を落とす。
「でも、それは言い訳にすぎない。結果として、取り返しのつかないことが」

外からサイレンの音が響く。
まだ、街のどこかで何かが起きている。

「今回の件、私なりの償いをさせてください」
白木が静かに告げる。
「遅くとも、逮捕者は数日で釈放されるはずです。不起訴になる可能性が高い。私がそう進言する」

「工場は?」

「徹底的な調査に入ります。これまでの行政指導、労基署の指摘、すべて洗い直す」
白木の目に力が宿る。
「技能実習生の死亡事故を、これ以上なかったことにはさせない」

白木は、ゆっくりとタバコを取り出した。
火をつけることはない。ただの仕草だ。

「この街には、様々な人間が流れ着く」
白木は、タバコを転がすように机に置く。
「過去を捨てた者も、未来を探す者も」

ゲバラは黙って頷く。

「私は、目の前の事実しか扱わない」
白木の声は静かだった。
「今、この街で起きていること。それだけを」

「賢明な判断だ」
ゲバラの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

「ただ、一つ聞かせてください」
白木の目が真摯な光を宿す。
「なぜ、この街を」

「この街には、誰も見向きもしない人々がいる」
ゲバラの声が落ち着いた響きを持つ。
「制度の外に置かれた者たち。私には、その顔がよく見える」

取調室の空気がゆっくりと動く。
二人の間に、深い理解が流れていた。

「お気をつけて」
白木は立ち上がり、ドアに手をかける。
「この街には、貴方のような医者が必要だ」

ゲバラは無言で頷いた。
取調室を出る時、二人は互いの背中を確かめるように、一瞬の間を置いた。


夜が明けていた。
先に釈放された者たちが、三々五々、署の外に集まっていく。
バン、李、魚屋の大将。
皆、無言でゲバラを待っていた。

「先生」
八百屋の主人が声をかける。
「すまなかったな」

「何が」

「あんたの言うこと、聞けへんかって」
「止められへんかって」

「いや」
ゲバラは空を見上げる。
「私も、止められなかった。止めようとしたのに」

夏の朝の光が、彼らの影を長く伸ばしていた。

「先生!」
その声に、全員が振り向く。

診療所の方から、まちが走ってくる。
携帯を握り締めたまま、目には涙が光っていた。

ゲバラは、静かに白衣を受け取る。
まちは何も言えず、
ただ肩を震わせている。

「記録は?」
「はい...全部」
「工場の実態も、暴動の一部始終も」
「でも...先生の...あの...」

「大丈夫だ」
ゲバラは、そっと診療所の方を見やる。
「記録すべきは、この街で起きていることだ」
「過去では、ない」

白木の言葉が、頭をよぎる。
この街には、様々な人間が流れ着く。
過去を捨てた者も、未来を探す者も。

「先生」
バンが声をかける。
「工場は、どうなるんでしょう」

「調査が入る」
ゲバラは、朝日に目を細める。
「そして、おそらく」

「ああ」
魚屋の大将が頷く。
「撤退やな。あの東帝は」

「技能実習生たちは...」
李の声が不安げに揺れる。

「うちで雇うたる」
八百屋の主人が言う。

「うちも」
「うちも構わへんで」
次々と声が上がる。

ゲバラは、黙ってそれを聞いていた。
この街は、こうして誰かの居場所になっていく。
制度の外で。しかし、確かに。

「診療所、戻りましょう」
まちの声が、柔らかく響く。
「待ってる人が、たくさん」

ゲバラは白衣のポケットに手を入れる。
いつものシガリロはない。
代わりに、聴診器の感触。

暴力ではなく、
記録ではなく、
ただ、目の前の命と向き合うために。

朝もやの中を、皆で歩き出す。
新しい一日が、また、始まろうとしていた。

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