提起する衣服たち

 日本には四季がある。
暑い日もあれば寒い日も、風の強い日もあれば湿気が酷い日もある。
世界を見渡してみれば、そこには無数の季節と気温、気候がある。

人間が地球に住んでいる限り、私たちは天と地に囲まれ、空間に包まれている。

 “何処で生を享けたか”――場所が異なれば気候も異なり、気候が異なれば食文化も異なる。川があるのか山があるのか、湿地帯なのか山岳地帯なのか、、、それにより、文明も異なる道を辿る。
世界中にある様々な文化や伝統は、“何処で生を享けたか”により、
ある人々にとっては「常識」、またある人にとっては「異文化(異質)」と映る。
地域・気候と文化・伝統とは、深いつながりがあるのだ。
そして衣服とは、その地域ごとに影響を受け人間が創り上げた、文化や伝統の一部なのである。

身体を外敵から守るため。体内温度を正常に保つため。
――生き延びるため。

人間が衣服を身に纏う究極の理由は、そこにある。
信仰により着る衣服を選ぶ人々もいるだろう。それもいわば生き延びるためだといえる。
しかし、衣服はもはや命を守るためだけのものではない。
衣服は、それを身に纏う人物を“表現する”のだ。これは現在においても、太古においても通じること。
どの国においても、王や指導者、貴族たちは平民とは区別された素材、色、デザインの衣服や宝石を身に着けたし、もっと昔に遡れば、男女を区別するのと同じように衣服も区別されていたかもしれない。
衣服は、それを身に纏う人物が、己の地位や権力、職種を外に向かって表現する手段の一つなのである。

今でこそ、私たちは自由に服を選び、着用している。
そう、思いがちである。
自由が謳われる現在においても、衣服は富や立場、評価や流行などに大いに影響され、縛られている。それを自由と呼ぶか個性と謳うか、はたまた区別・差別だと叫びをあげるかは、人それぞれである。

衣服は“表現する”と先で述べたが、ここ最近衣服はまたもそれ自体の新たな意義を生み出している(正確には生み「出されて」いるのだが)。
それをここでは、衣服は“提起する”と呼ぶこととする。

2016年にマリア・グラツィア・キウリをアーティスティックディレクターとして迎えたDiorのコレクションにて「WE SHOULD ALL BE FEMINIST」を掲げ、ダイレクトに男女差別・格差という問題を提起した彼女のコレクションは、ファッション業界の話題を掻っ攫っていった。
フェミニズムという問題を、それと深い繋がりがある衣服を通して提起してきたのは何も彼女が初めてではないが、ミレニアムと呼ばれる世代が、性差別やセクシャリティ、マイノリティの分野において戦いを挑み始めたのはこの頃ではないだろうか。

ヴァ―ジルを始めとするストリートとハイファッションの融合(革命?)が生じたのもここ最近だ。

しかし、ファッションはもっと昔から
それ自体を通じて様々なテーマを提起してきた。
上流社会のファッション常識を全く覆したガブリエル・ココ・シャネルほど、衣服を通し人々に問題や疑問を投げ掛け、訴え掛けてきたデザイナーはいないと私は思う。

そしてその意思を引き継ぎ続けたのが、巨匠カールラガーフェルドだ。

数多あるメゾンのデザイナーが次々と変化していく中、
ラガーフェルド氏はずっとシャネルに座を据え続けた。
周囲からの絶大な信頼と期待がなければ成し得なかったことだろう。

衣服は、命を守る。自己を表現する。

衣服は、
提起する。提起される。

ファッションというものが、
時代を超えた普遍的な問題への介入を促し
「考えろ!」と(少なくとも私には)鼓舞してくれた身近で壮大な存在であることに気付かせてくれたデザイナーの1人がこの世を去ってしまうのは、本当に残念である。

アズディンアライア、ユベールドジバンシイ、カールラガーフェルド、、
偉大なデザイナーが後を去った今、これからのファッション業界はどうなっていくのだろうか。



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