noteの魅力:書き言葉に込められた願い
noteを始めて半年。やってみて気づいたことを、このお盆の時期に、いったん書物というメディアを通して考えた。すると、この言論空間の魅力を改めて確認できた。
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映画が観れなくなった。久々に観たら、寒気や冷えを感じて、心身が不安定になった。
私はPTSD(心的外傷後ストレス障害)であるが、症状の一つのようだ。
文章の方が、進行速度を変えたり中断できるなど、自分でコントロールできていい。
かといって、事実は小説より奇なりという経験からだろうか、あまり小説も読まなくなった。主題や論理展開がはっきりした論説文のほうがはかどる。論文でも、文体や主張に萌えることは、よくある。
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そうやって書物に救われていると思う。
そして書物を作ったのは、他ならぬ人間であることも、疑いようがない事実だ。
仕事で本作りに携わってきたが、一冊の書物には、作家、記者、編集者、DTPオペレーター、校正者、印刷業者、販促担当者、運送業者、書店員、そして読者の輪、幾重にも人間の思いが込められている。
だから、人間に傷つけられても、それを救うのはやはり人間なのだと実感している。
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そういう経験は誰しもあるかもしれない。
書物と徹底的に対話した人物に、鎌倉時代の日蓮(1222-82)をあげたい。
日蓮の師は、仏教の祖・釈尊(釈迦、BC463-383頃、諸説あり)である。しかし、当然ながら、日蓮は釈尊に実際に会ったことはない。1000年以上の、とっくの昔に古代のインドで亡くなっている。つまり日蓮の師匠は「死者」だった。
(より厳密に言えば、日蓮は、自身が根本とした法華経に説かれる、久遠実成の釈尊を師とした。久遠の釈尊は、今世に菩提樹の下で覚りを得たのではなく、はるか昔に覚りを得ていて永遠に人々を導くという。その教理的な解釈には立ち入らないが、この久遠の釈尊の言動は、すでに生死を超えている)
しかし、日蓮は釈尊と常に対話をしていた。声を聞いていた。経典から。
仏教では、経典を読むことは、生身の釈尊とあい対することと同じであると説かれている。日蓮自身もそう言っている。
生身の人間と直接会ったかどうかよりも、その人の現行や願いをどう自分が受けとめて生きていくのかを問題としていると言える。
しかし、やはり身近な人間との触れ合いの方が、喜びや感謝といった実感が湧きやすいのは素朴な事実だ。
それでも、質的には、必ずしもそうではない。日蓮はそれを、徹底的に経典という書物でやったのだと思う。釈尊の願いをしかと受けとめ、「身読」と言われる、自身の生き方で確かめていった。
そして、そういう生き方をしている人間との直接的な出会いは、その人の背後にあって、その人が受けとめた死者(あるいは会ったことのない人物)の願いをも、自分に伝えてくれるのだと思う。
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先逝く人が何を後世に託し、願ったのか。自分はそれをどう受けとめるのか。
それは、また、紛れもなく、死者から生きる力をもらう。
死者供養、追善廻向と言われるお盆休み、戦争体験の継承や風化が話題になる八月、そんなことを考えた。
このnoteでも、その書き言葉から、生死問わず人の願いを通して、生きる力をもらっているように思う。コロナ禍も相まって。■