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つまみ読みの楽しみ

私、ほとんど本を通読してない。

noteで読書日記をつけ始めて、気づいたことである。
読書日記というのは、毎月、印象深かった本を記録している記事のこと。本を読むたびに感想をnoteの下書きにメモしておいて、月が終わったらまとめて清書している。
読んだ本は本棚の一箇所に固めておいて、月末になったらそのエリアの写真を撮り、アイキャッチにする仕組み。記事を開かなくても、自分がいつ何を読んだか大体わかって便利だ。

で、この読書日記には「通読した本だけを載せる」というのがマイルールなのだけれど、そうすると読んだ本が自分の体感よりやけに少なく感じるのだ。

自分の行動をよく思いかえしてみるとなんのことはない、通読している本が少ないのである。
一回も本を開かない、という日は稀なのだけれど、特に平日はまとめて読書の時間を取ることが少ないし、読む本がつぎつぎ入れ替わる。

たとえばある火曜日。

出勤の準備を済ませてから家を出るまでの10分間、本棚の前に立ったままエッセイをいくつか読む。
その本をそのまま通勤のお供にしようかと考えるもなんとなくピンと来なくて、別の長編小説を鞄に入れる。通勤電車の中で、選んだ本をはじめから開くけれども、読んでいるうちに「あの場面が早く読みたい」という衝動に駆られて8合目ほどのページに飛び、そのままラストに向かって読み進めて満足する。
家に帰ってきてからは、煮込み料理の番をしながら別の短編集を開く。いくつか読むうちに夕飯が出来上がり、手にしている本は本棚へ。そんな具合だ。

なんでそんな有様になるのかというと、同じ本を何度も再読するタチだ、ということが理由としては大きいと思う。さすがに初めて読む本(特に小説)は、初めから一気に通読することがほとんどだから。

あとはあまり認めたくないことだが、読書に対する情熱が年々薄まっているような気もしている。手にしている本が面白くて面白くて、一刻も早く読み進めたくて何も手につかない、ということが、最近はめったにない。本の内容に夢中になって電車を乗り過ごすとか鍋を焦げ付かせるとか、そういう失敗もここ数年で激減した(社会性は上がっていると言えるかもしれない)。単に加齢で集中力が落ちているのか、それとも他の関心ごとが頭に占める割合が多くなってきているということなのか。

少しさみしい気もするけれど、本のいっとう美味しいところだけつまんで読む、というやり方も、これはこれで気に入っている。

日常生活のなか、誰かのひとことやSNSの断片、自分の思考のかけらがキーになって、何度も何度も読み返している大好きな小説やエッセイ、そのなかでもいちばん素敵な一節が(どれがいちばん素敵かは、もちろんそのときの気分によって変わるのだけれど)、ふと頭に浮かぶ。いてもたってもいられなくなって本棚へ飛んでいき、ページをぱらぱら繰ってその文章を探す。

既に読んだことのある本を読み返すときの感覚は私にとって、穏やかな音楽を聴いたり、贅沢な嗜好品をゆっくり味わったりするときのうれしさに近い。未知の知識や物語を身体に流し込むときの緊張と興奮とは種類のまったく異なる、使い込んだ柔らかい毛布を手繰り寄せるような、少し怠惰で、許されていて、安心に満ちたうれしさ。いちばん読みたい箇所だけつまんで読むという贅沢な楽しみ方なら、なおさら。

目当ての箇所が見つかり、今いちばん欲しかった流麗な、あるいは透徹した、もしくはしみじみと豊かな、そんな一行が身体に流れ込んでくる瞬間、芳醇な香りの強い蒸留酒をくっと煽ったときのような、ほぼ身体的と言っていい歓びを感じる。
興が乗ればそのまま読み進めてもいいし、冒頭から読み直してもいいし、他の本へ河岸を変えてもいい。本棚の前に立ち尽くしたまま、楽しい選択に頭を悩ませる。

とはいえぬくぬくと再読ばかりしていると、読書を楽しむために必要な、脳や心の筋肉そのものがさらに落ちてきてしまうかもしれない。
今年はもうちょっと、新しい本を読む方に力を入れてみようかな。そんな風に考えている、冬のおわりである。


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