記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

ヒトラーのための虐殺会議|私はこの会議を知っている

ネタバレなんて知ったもんかよという気持ちで書いています、お気を付けください

静謐な湖畔に佇む瀟洒な屋敷の中、宝石のようなフィンガーフードと琥珀色のコニャック、香り高いコーヒーを小道具にその会議は進む。有能で理知的な紳士たちは90分という短時間で、とある「大問題」への解決策について鮮やかに合意を取り付け、速やかにその実現に向けて動き始める。暴力も死もその中には一切持ち込まれず、声を荒げる者すら現れず、あくまで優雅かつスマートに、会議は終わる。
なのに観終わった後、掛け値なしに最悪な気分になる映画だ。人によってそのわけは違うだろうけれど、私にとってのいちばんの理由は、自分の倫理観にビタイチ自信を持てなくなってしまったことだった。


1942年1月20日正午、ドイツ・ベルリンのヴァンゼー湖畔にある大邸宅にて、ナチス親衛隊と各事務次官が国家保安部長官のラインハルト・ハイドリヒに招かれ、高官15名と秘書1名による会議が開かれた。議題は「ユダヤ人問題の最終的解決」について。「最終的解決」はヨーロッパにおける1,100万ものユダヤ人を計画的に駆除する、つまり抹殺することを意味するコード名。移送、強制収容と労働、計画的殺害など様々な方策を誰一人として異論を唱えることなく議決。その時間は、たったの90分。史上最悪の会議の全貌が80年後のいま、明らかになる。

公式HPより


仕事の上で何らかの会議に参加したことのある社会人各位(もしくはゼミや討論、グループワークなどを経験したことのある学生各位)にお伺いしたいのだけれど、限られた時間で結論をだす必要のある議論の場で、話がまとまりかけた瞬間「そもそも論」を持ち出してゴールを遠ざける同僚に苛立った経験はないだろうか。
大勢の前で自分の貢献を讃えられて気分がよくなったことは? 鉛筆を舐めてなんとか期限に間に合わせた数字に追及が入らず胸を撫で下ろしたことは? 周囲の事情を汲まずに自分の負荷ばかりを訴える同僚に対して「仕事なんだからそれくらい飲み込めよ」と思ったことは? 自組織の負荷が思ったより高くなりそうで「帰ったら上司になんて説明しよう」と気を揉んだことは? 自分の意見を言おうとしたらお偉いさんに睨まれて慌てて言い繕ったことは? 現場を見ずに理想論ばかり話す管理部門に現実を見せてやりたくなったことは? 実務を重んずるあまり既存のルールを強引にねじ曲げようとする現場にため息をつきたくなったことは? 信念を胸にビジネスの鉄火場へ参加し、これだけは譲れないという熱い想いを語ったことは? 誇らしい思いで自身の成果について報告したことは?

私はある。すべての経験に覚えがある。だから私はこの会議を知っている。

先週、ナチスの強制収容所を舞台にした「ペルシャン・レッスン」を観た。「ヒトラーのための~」はいわば、この映画の前日譚だ。
だから本作を観ている間中、先週観た映画に思いを馳せることになった。あるいは、本棚の中の「夜と霧」に。「アンネの日記」に。または、昔観た「ライフ・イズ・ビューティフル」に。

私が持っているホロコーストの知識は、たいていが収容所を舞台とした創作物、あるいは書籍から得たものだ。対して本作は、それらの中の出来事を方針づけたナチス高官たちの会議を描いたもの。ほぼ初見の情報である。
けれどその会議の内容は、驚くほどすんなりと頭の中に入ってきた。議事の進み方、投げ掛けられる疑問とそれに対する回答、横やりの入れられ方、落としどころの付け方、懐柔の仕方、それらすべてがあまりにも、私が日々行っている「仕事」と酷似していたから。

その場で目指されるべきゴールがなんなのか、ある主張を持ち出す登場人物がなにを狙いとしているのかが克明に理解できるからこそ、会議が円滑に進むほどその内容に胸が悪くなる。コストやリソース、実務担当者への負荷、国民感情といった議題が大真面目に取り上げられる中で、ある民族をこの世から消し去るべきである、という大前提に対しては誰も疑問を持っていない。何千、何万という書類上の数字は、人の命の数ではなく処理すべきゴミの量のように扱われる。

誰かが異議を唱えるそぶりを見せるたび、私はほんのわずか、希望を持ちかけた。けれどその期待は叶えられない。彼らが口にする「異議」はせいぜいイレギュラーな属性への対処の仕方、現存する法律との齟齬といった、あくまで自身の利害に関わるトピックスに関するものである。終盤、年かさの首相官房局長が「私は牧師の息子だからかどうも、こういったことに対しては……」と言いかけたときは祈るような気持ちで彼を見つめたけれども、その話題はユダヤ人ではなく、彼らに手を下すドイツ兵の精神的負担に移った。

彼は本当にドイツ兵のメンタルケアについて話したかったのか? 本当に?
劇場を出てからしばらく考えたけれども、その答えは出ない。映画の中ばかりではなく、史実の中の彼に、会議に出席した彼らに、計画に対する躊躇が微塵もなかったかということも。
だって、彼らが「仕事」を進める姿は、あまりにも私や、現実世界でともに仕事をしている同僚の姿に似ている。はるか上の立場の上司を会議に迎えるときの、場がぴりっと張り詰める感じ。出張先でかつての部下と思いがけない再開をはたしたときの感慨深さ。討論がひと段落して、コーヒーの香りを嗅いだときのほっとする気持ち。気の置けない同僚と、他の出席者の動向についてあれこれささやき合う下卑た愉しみ。やりすぎない程度に交わされる、プライベートに関する会話。会議が終わり、とりあえず自分がなすべきことが確定した時の安堵と、モチベーションの高まり。交わされるねぎらいの声。

直後にまた別の会議を予定しているというある男は、精が出ますね、という声に答えてこう言う。

「身を粉にして働かなければ」

勤勉で、清潔で、世界を善くしていくのだという気概に満ちた、精力的なエリートたち!
同僚に、上司に彼らがいれば、どれほどまでに心強いか。

彼らは善性を持たない悪魔ではない。研ぎ澄まされた有能さと論理性を持つ、そして確かに善性を備えてはいるけれども、それを振り向ける対象からある一部の属性が欠落した状態の、人間なのだ。
その条件下の人間がどうなるか、という思考実験の結果――否、ただの史実――を、観客は112分間、見つめ続ける。そして映画が終わった後、いやおうなしに考えることになる。もしも自分があの会議の場にいたら、あの結論を覆すだけの反駁をできただろうか。いやその前に、あの結論を覆す必要性を確信できるような倫理観を、あの時代、あの場所で、家族を人質に取られたような状態で、保てているだろうか。

各国の各映画関係者の皆様は、なるべく残酷で凄惨な戦争映画をどんどん作り続けてほしい。私は自分の倫理観にビタイチ自信を持てなくなってしまったから、ぜひとも創作物の力を積極的に借りながら、なけなしの、ちっぽけな善性を死守させてもらいたい。


映画の核心的な部分に触れるような記事を書く際はそうするのがマナーである、という共通理解に基づいて、この文章を投稿するときは「ネタバレ」タグをつけるつもりでいるけれども、本当はネタバレなんてどうでもいいじゃないかという気持ちで書いている。
だって義務教育を受けた人間ならば全員歴史の教科書ですでにネタバレをくらっている、史実は変わらない、そして事前にネタバレを受けたか否かは、この映画の吐き気を催すような面白さに一ミリだって影響しない。

けれどひとつだけ、ネタバレに配慮したうえでの感想を書こうと思う。

この映画には、普通の映画ならば当然あって然るべき「あるもの」が存在しないのだけれど、私はそのことにエンドロールが流れるまで気づかず、気づいたときは総毛だつような思いをした。
けれどもよくよく考えてみると、それはなくて当たり前のものだったのだ。私たちの生きる「現実」に、そんなものは存在しないのだから。



この会議がすらすらすら~~~と決着づいた挙句どのようなことが行われたかはペルシャン・レッスンを観ればだいたいわかります。
それにしても「ペルシャン・レッスン」という静かで含みのある題名に比べて「ヒトラーのための虐殺会議」、邦題なんとかならなかったのかしら。原題Die Wannseekonferenzの直訳で十分だと思う。
今の邦題だとエンタメ性を期待して観る人が多くなってもったいない気がするな。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?