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遺跡を掘るように、ドレスを縫うように

再読する書籍の「あとがき」は読み飛ばすことが多いのだけれど、何事にも例外というものはあるもので、小野不由美「東の海神わだつみ 西の滄海」だけは、本編を読むたびにあとがきまで目を通さないと気が済まない。

なぜかというと、見開き1頁のその短い文章からは、「物語ることへの向き合い方」が強烈に匂い立つように感じるからだ。
気に入った小説と同じように、何度でも摂取したくなる。

ファンタジー小説「十二国記シリーズ」の三作目である本著で、作者は異世界を舞台とした物語を書くことの難しさに触れる。

 これは異世界を舞台にした物語です。ですから当然、そこで使用されている言葉は日本語ではありません。ここにテーブルがある、これを読者にテーブルだと伝えたい。しかし、この世界には「テーブル」なる言葉がありません。四苦八苦して、「卓」だとか「卓子」だとか言い換えてみるのですけど、そういうことをしているうちに、じゃあ、「部屋」は「部屋」と呼んでいいのか、深く疑問に思ってしまいます。
 (中略)そのあたりを考え始めると、この世界の言語を作って、それで書いていかなくてはならないような、そんな気分に追いつめられてしまいます。

小野 不由美「東の海神 西の滄海」あとがきより

初めて読んだとき、それでだったのか、と思った。

古代中華風ファンタジー、と形容されることが多い、十二国記シリーズ。私はそのことに、なんとなく違和感があった。
確かにモチーフとなっているのは古い時代の中国だろう、社会のシステムや建物、衣服などの描写にその片鱗は濃い。
だけど、古代中華「風」じゃないんだよな、かといって古代中華そのものというわけでもないのだけれど、と、なんとなくもどかしく思っていた。

たとえば、日本と中国の文化には似通っている部分が多い。しかし、私が日本の文化のことを知らない人にその特徴を伝えようとするとき、開口一番「中国風の文化なんだ」と説明することは、まずない。その言葉を使ったときに、こぼれ落ちてしまうものが多すぎる、と感じるからだ。
それと同じで、小野不由美が描くこの世界には、「~風」という言葉では言い表せられない、確固とした世界観が根付いているように感じられる。それは、妖魔やその他不思議な存在が跋扈するファンタジーな世界だから、というだけではなく。文化や、もしかしたら風土のようなもの。そこに生きるひとの、そこに生きるゆえの価値観のようなもの。


だから、「西の~」のあとがきを読んだときに、すこんと腑に落ちた。
ああ、このひとは、遺跡を掘るように物語を書く人なのだな。


私がもしもファンタジー小説を書くとしたら、きっと、読者への「目くばせ」のようなものをたくさん入れ込んでしまうと思う。

ほら、ね、わかるでしょ。魔法があって、不思議な生きものがいて、そういう世界なら、きっとこういう仕組みがあるって、わかってくれるよね。みんなゲームとかファンタジー小説とか好きなんだから、先行する創作物なんていくらでもあるんだから、「ドラゴン」って書けば、「あ、あの生きものか」って、わかってくれるよね。

小野不由美は、目くばせをしない。
代わりに、慎重に慎重に地層を掘り下げ、遺構を探し、土や泥を丁寧に取り除き、「そこにある」世界の輪郭をあらわにしてみせる。あらわになった世界の事物が、その世界に住むひとにとってどういった意味を持つのかを、分析し、門外漢である私たちにもわかるように翻訳して、差し出してくれる。
だから、今私が住んでいる世界とは何もかもがかけ離れているはずの彼の国の出来事が、まるで史実を読んでいるかのようにリアルに感じられるのだ。

十二国をめぐる物語の特徴だ、と私が勝手に思っているのが、名もなき市井のひとたち(主人公たちと深くかかわるわけでもなく、固有の名前も与えられることの少ない、その場面だけに登場する人々)が、本当に生き生きと描かれている、ということ。
多分それは、物語の中に「目くばせ」が含まれていないからなのだろう。丁寧に掘り出された、頑強な背骨の入った世界で、ご都合主義に操られることなく生きている人たちだから、その言動があんなにも胸に迫るのだろう。


***


ここまで書いてきて、「物語を書く」というのは本当に不思議な営みだな、と感じた。

例えば、「ファンタジー」というのは「幻想」と訳されるけれども、「幻想小説」を書く、と称されることの多い山尾悠子や皆川博子といった面々は、遺跡発掘とは縁のなさそうなイメージがある。
どちらかというと、深海に潜っていくような印象だ。光の届かない場所まで潜ってたゆたって、小瓶に闇や得体のしれない魔性を入れて持ち帰ってくる、というような。

「水」つながりで言うと、いしいしんじの書くものは、遊覧ボートを漕ぐように書かれたのかしら、と思う。
静かな水面にオールを立て、力を入れてぐい、とかく。波の立った水面には、いろいろなものが映ってみえる。水の下にすむ生きもの。どこからか落ちてきた花びら。なにかの死体。星のひかり。
乗客はそれらを眺めながら、ゆらゆらと揺れながら、何かを持ち帰ったり、手ぶらで帰ったりする。いくばくかの移動はするかもしれないし、しないかもしれないし。どこかに行くことが目的のボートではないので。

江國香織の文章は、いろいろなところにりぼんを結ぶようだ。
そのままでは見過ごしそうな日常のものものに、きゅっとりぼんを結ぶので、読む人たちの目線はそこに吸い寄せられてしまう。吸い寄せられるから、いやおうなしに結ばれたもののうつくしさや醜悪さに気づいてしまって、もう戻れない。

他にもいろいろある。

ドレスを縫うように物語を書く人や、
トンネルを掘るように物語を書く人や、
ミルクを温めるように物語を書く人や、
木を植えるように物語を書く人や。

ひと口に文章を書く、といったときの、そのあり方の多様さに思いをはせると、気が遠くなりそうだ。

この人の文章は、どんなふうに書かれたのかしら。

それを知りたい、というのも、私が文章を読むことが好きな理由のひとつなのだと思う。


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