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『これって本当に「繊細さん?」と思ったら読む本』の読書感想文⑤


 今晩は。毎日暑いですね。この度は数ある記事のなかお時間を割き、開いてくださり誠に有難うございます。今回も引き続き武田友紀,名越康文著『これって本当に「繊細」さん?と思ったら読む本』(日東書院本社)の読書感想文第5弾です。

 これまでの記事を添付いたします。拙文極まりないですが、もしご興味がありましたら、書籍は凄くよいので!どうぞご高覧くださいませ。スキをつけてくださった方も有難うございます。大変励みになります。

 
 さて、読書感想文①,②では第一章を(HSPの概念、取り巻く社会構造)、③では第二章の入り口を(HSPとトラウマ、トラウマとは何か、HSPの遺伝/環境)④では第二章続き(トラウマ症状解消の鍵、優位感覚、トラウマ治療の現在地)をお話していきました。それぞれのトピックをアウトラインで区切っているので、全部読まずとも気になるところだけ、かいつまんでみてくださいね。ちなみに、本書は238頁ありますが対談形式で展開していくので、非常に読み易いです。私が結構膨らませているので、恐らく実際より長く感じるかもしれません。

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身体の状態を把握する

 今回から第三章に進みます。やはりここでもキーポイントになるのは、HSPを病理的に捉えないことです。繊細さ、それ自体はひとつの特性として何ら問題視されることではありません。当事者がその特性を持ってして、特段不安や緊張が極端に強くなければ、それはそのまま「気質」としての自然な状態なのです。

 そして、悩みがトラウマによるものなのか見分けるポイントとして、武田先生は頭と身体のちぐはぐ感を見るそうです。それはつまり「頭では分かっているのに、どうしても出来ない。身体が動かない。」という状況。例として、上司に話しかけるのにすごく勇気が要るパターン。相談は早いほどよいし、現状相談することを回避できないのだとしても、どうしても身体が動かない。背景には、象徴的父性が怒鳴る人で「年上の男性は危険だ」と条件づけされてしまっている場合が往々にしてあるようです。まさしくトラウマですね。

 こうした例が出るということは恐らく普遍的な悩みなのでしょうが、まさに例に漏れず私自身も全く同じ条件づけで困っておりました。オフィスの真ん中で叱責されたらどうしよう、この件の対応で評価が下がったらどうしよう、そもそも相談せずに一人で解決し得る些末な問題なのではないか、等々頭の中では不安や悲観で一杯になり、そしてやっと重い腰をあげたかと思えば相談した際の一連の流れを反芻し頭が真っ白、その後のパフォーマンスに影響する等々…。ああ、思い出すだけで恐ろしい。

 そこで武田先生がお勧めする方法は、まず心身がリラックスした状態で、ほんの少しだけ上記のようなしんどい場面を敢えて想像していきます。ゆっくりと深呼吸できる場所で、身体の状態把握に集中できる環境です。辛い場面を思い出していくと身体が強張り、呼吸も浅くなっていきます。そこで誰かから声を掛けられ(今回では武田先生が。もしかしたら専門家の監督が必要かもしれません)、再びリラックスした状態に戻ります。そうすることで、身体が緊張・警戒状態になってもまた安寧の状態に戻ってこれる、という成功体験になるわけですね。前回紹介した、未完了から完了の動作を人為的に行き来させる動作にも繋がりそうです。

バーチャルツアー

 ほかにはIFS(内的家族システム療法)という心理療法もあり、これは過去の記憶が臨場感と落ち着きの両方をもって再生される状態です(p.126)。これをバーチャルツアーと呼称するとします。例えば、トラウマのフラッシュバックでは追体験をし、まさに繰り返し当時に呼び戻されるような主観的感覚を伴いますが、このバーチャルツアーでは飽くまで落ち着いた状態で当時の記憶を俯瞰しながら眺めるような様相を呈します。
 クライエントから出てきた記憶をセラピストが、あるいは2人で働きかけて、支配化された記憶をオルタナティブに変容させていくという療法です。回想では子どもの自分だけでなく、大人の自分もそこに登場させ、更にはセラピストもそのなかに入ってもらうことができる。そこで、理不尽に叱責した親などにセラピストから注意してもらう、という変幻自在のセラピーです。思い出すことに苦痛が伴うので曝露療法とも取れるかもしれないですね。

(文中 p.129から画像引用)


 これはしかし、例えば典型的な家族療法を行うにしても、自分に問題があると無意識裡に認めたくないからとしてカウンセリングを拒否する家族や親が居るなかで、非常に治癒可能性のある療法ですよね。

 また、トラウマ療法の専門家であるジェニーナ・フィッシャーが著書(『トラウマによる解離からの回復』(国書刊行会))で、子どもの自分と大人の自分が親和的に交流することで多角的で歴史的な視点を持ち、自身の気持ちを受け止めることが上手になる方法も紹介されています。

 そうした様々なアプローチにより、幼少期から凝り固まった内的ワーキングモデル(cf.ボウルビィ)を変容させ、大人になってからでもより生き易くしていけるというわけですね。「三つ子の魂百まで」とはよく言いますが、その限りではありませんね。 

親を悪者にする功罪

 ここでちょっと安心したのは、「親が悪かったんだよね」とセラピストや精神科医から言われる違和感について言及されていました。よく分かります。自分が芳しくなるためには親を悪者にしなければならない。確かに、ここ最近では「毒親」などとし、子どもを擁護するためならどんな家族主義的な主張も厭わない風潮が続いていますが、それはきっと根本的な解決にならないんですよね。
 私自身、所謂毒親のもとで育ちましたが、正直昨今の「全て親の育て方が悪い」というような言説には辟易しています。それは、突き詰めると核家族化や地域社会の消滅など、人間一人には帰属できない複数の要因が絡み合って現在の子育てを取り巻く状況が出来上がっているんですよね。その言説の前では、孤立無援の(あるいはそれに近い)親も益々追い詰められるし、子どもは親を怨むばかりで根本的解決に繋がらないしで、正直何とかならないかなぁ…、と思っています。親もどんな人間も、元々は子どもだったわけですからね。全ては地続きで延長線上です。

 それでも怨むものを無理矢理好意に反転させる必要はないにしても、だからこそ少しでも、「親のことが好き」と思っているならばその気持ちを大切にしたほうがいい、と文中で述べられています。当然、親に居たたまれない仕打ちを受け、突き放し、時に嫌悪し、ある種の呪いから解き放され自分の人生を歩くことが真の自立の第一歩に繋がることも少なくないですし、私もその道を歩んできました。悪者にしないということは、赦すということではないです。
 ただ思うのは、最終的には親を受容してしまったほうが確実に建設的なんですよね。自分が何より辛くない。嫌悪を源泉にして上手くいくことは少ないです。渦中で親子関係に悩んでいる子どもにはこれからもケアが必要にしても、わざわざ分断を煽る言説にはちょっと警戒が必要なのではないかな、とここだけの話で言論してみる週末の夜でした。ずっと感じていたことを本の流れで書けてすっきりしました…。お目汚ししてしまいましたら、申し訳ございません。

 ともあれ、このようなひとつの言説ではとても語り得ないほど、親子関係とはプリミティブそのものですし、極めて両価性のあるものです。その意味でアウトラインには「功罪」とつけました。ちなみに私には子どもが居ませんが、自身の親子関係と照らし合わせてみても、どのような階層であれ強くもつれ上がった毛糸のようにお見受けします。そのなかで、どちらの立場にせよ気持ちが楽になる一助になれますよう、今後とも文章を紡いでいければと考えています。

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 それでは、今日はこの辺りで失礼いたします。本日もここまでお読みくださり、誠に有難うございました。良き週末をお過ごしくださいね。

 you 拝

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