読書記録「日本文化における時間と空間」加藤周一著
岩波書店
2007
日本文学史序説で得た日本文化の特徴を時間と空間の捉え方から考えた一作といえる。
”いま”に生き、全体より部分に重きをおく日本人。
“いま”に生きる日本人というのは直感的に分かる気がする。とにかく”いま”。何か起こってから考える。
新型コロナウイルスへの対応だってそうだ。次の流行が起こることは分かっているのに、起きてしまってから考える。何度それを繰り返すのだろう。
“いま”を生きるとはどういうことか。
まず、4つの時間の捉え方が参照枠組として挙げられる。
始めがあり終わりがある時間 (ユダヤ・キリスト教的時間)
始めがあり終わりのない時間
始めがなく終わりがある時間
始めがなく終わりもない時間 (無限に一定の方向に続く時間/循環する時間)
ユダヤ・キリスト教に代表される始めがあり終わりがある時間は、日本文化と対照的だという。
有限の時間のなかでは、過去は水に流すことができない。未来は究極の目的へと収斂するのであり、究極の目的こそがそこに至るまでの過程で起こるすべての出来事を意味づける。
では、日本文化はどこに分類されるのか。
日本文化の中には三つの異なる型の時間が共存していたと結論する。すなわち、始めなく終わりない歴史的時間、始めなく終わりない円周上の循環(四季など)、そして始めがあり終わりもある人の一生である。
そしてその全てが”いま”に生きることへと向かう。
始めなく終わりない時間においては全体の構造との関係において、いかなる時点(現在)での出来事の意味をも考えることができない。
ここで思ったのが、チボー家の人々に現れる時間への考え方と、楡家の人びとに現れる時間への考え方との対照。
日々を過ごしているうちに、気がついたら歴史の激動の中にいるといったような感じの楡家の人々。
対して、アントワーヌの書簡からみえるのはより良き未来というもの。いまを生きる自分でさえも、究極の未来へ至るまでの過程の礎として捉える。
“いま”をいきる姿勢にはいくつも例が挙げられる。
日本語の文法で過去・現在・未来が厳格に区別されていないことや、その時その一瞬で生み出していく連歌、いまの感覚を極限まで研ぎ澄ました俳句。
絵巻物もそうだ。次から次へと場面を広げて見るだけで、過去と未来との関係性を考えることはない。そして現在見えている部分だけで完結・成立している。これはキリストの生涯が全体を見渡せるように描かれるのと対照的だ。
随筆と呼ばれる文学形式も、まさに”徒然なるままに”描かれており、全体としての構造はない。
ここから、”いま”に生きるという特徴がもうひとつの特徴である部分重視が得られる。それが最も洗練された形が利休の空間であり、一方では無計画な建て増しされた建物となる。
空間についてはどうか。
閉じた生活空間であるムラ共同体があり、集団の外部は異質な、別の価値体系が支配する空間として意識される。その境界は、少なくともムラの人々にとっては明確である。
そして、関心は”ここ”であって外部に及ぶことは少ない。
その空間は時代によって閉じたり開いたりする。その繰り返し。
興味深いのは、空間が開くことと文化が花開くこととイコールではないことだ。例えば、平安の美的洗練は閉じられた空間の中で醸成されている。江戸の文化もそうかもしれない。
では空間はどんな時に閉じるのか。技術の輸入や移植の必要が出来たら開け、その必要がなくなったときに閉じるのである。遣唐使や明治の欧化政策も、技術の輸入の必要がないと思われた時に閉じた。
今は、インターネットのおかげで昔のようには閉じたりしない時代だ。
コロナウイルスのパンデミックを口実にずっと閉じたままにしているその姿勢は内向きだといえるだろう。
バブル期あたりから、外国で手に入るものは日本でも手に入ると思っているのではないだろうか。実際は微妙な差異があって違うというのに。
では閉じた空間で文化が花開いているのだろうか。そうは思われないが、後の時代からみたら違うのだろうか。
そんな”いま”という”部分”に生きる日本人はどのような行動様式を取るか。
大勢に従うのである。
大勢順応主義は、必ずしも便利主義ではない。自己の利益のために好都合なものを道具のように選んでいるのではなく、その時々の大勢を本気で信じているのである。
もちろん個々の原因は挙げられるだろうけれど、戦後の左翼がなぜ失敗したのかという問いも、大勢順応主義で説明がつかないだろうか。
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