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帰省、妹の結婚、変わるものたち、人とのつながり

23歳の妹が、12歳年上の人と結婚した。
完全オリジナル結婚披露パーティーをやるというので、大阪に帰省した。

なかなか自由で、ナチュラルにクレージーな妹だが、お相手も変わっていて、支え合いながら愉快に暮らしているらしい。
妹は何も変わっていない。突き抜けていたら環境のほうが順応したのだ。
そういうのって最高、私の希望だ。

うちの神経質で心配症の母、保守的な祖父母、そういうものたちを振り切って祝福される妹はすごい。
彼女もすごいし、うちの家が変わったんだな。
少し前まで、あの子駆け落ちでもしてどっかいなくなってもおかしくないと思っていた。

うちが変わったキーパーソンは、やっぱり母だと思う。
母が変わったきっかけは複雑で、まとめると長いからここでは触れないけれど、色んな人と関わって日々様々な気づきを得てるんだなと感じる。
あんな人ではなかった。不安定さのほうが強くて、自分のしんどさに閉じこもること、それを武器に攻撃してくることが多かった。

昔は、私を生きづらくした母が許せなかったけれど、今は母が当時のことも認めて前に進んでいるから、私もまあ進まなければと思える。
きっと、母が先にそういう姿勢を見せてくれなければ、そう思うことはなかった。

両親は昔からよく喧嘩していたし、母に、父を分かろうという姿勢を感じることが皆無だった。
きっと私たちが大人になれば離婚するんだろうと思っていたけれど、今二人はお互いにそれなりに歩み寄って、いい距離感を保っている。
この年になって、結局お互い似ているんだなぁとか、こういうタイプだったのかとか新たに感じることもあるらしい。
そんなことってあるんだな。何歳になっても人は変われるし、日々学びや気づきを得ている。
それに私が希望をもらえる。

昔は、妹のことだってずるいと思っていた。
私より甘やかされて周囲にかわいがられて、顔も可愛くて、器用でなんでもできる妹。
私がやるように努めていることを全て放棄しても、私よりも愛される彼女に腹を立てていた。
でも今は、長女という立場だからこそ得られたこともあるし、私にしかないものはあると、ちゃんと思える。
そしてそれを超えて今は、私は彼女にはなれないけれど、私なりのやり方で彼女のような自由さが発揮できればいいと思う。
まあ、そこまで思えるかどうかは調子によるけれども。

あんなに反抗していた妹が結婚して実家の近くに住んで、ずっと実家にいそうだった私が東京で暮らしている。
それがなぜか一番うまくいっている。
みんながあるべき位置に収まった、そんな象徴のような結婚披露パーティーだった。


パーティーはごく近しい身内だけで行われた。
久しぶりに会う叔父や叔母、いとこたち。

身内って不思議だ、普段疎遠だとしても、確実に私のルーツで血を引いている存在で、冠婚葬祭という人生の節目に必ず集まって気持ちを分け合う。

3年前に祖父が亡くなった時、お葬式に身内が集まったことに救いを感じたのを覚えている。
お骨を焼いたり、お別れをしたり、そういう瞬間にいつも通り話せる人たちがいることに泣きたいくらい安心した。
人が死ぬという生々しい現実に、ひとりでは立ち向かえない。そこに記憶を共有する身内が存在して、いつも通り話せることが本当にありがたく感じた。

身内ってなんだろうね。
今の時代は自由で、結婚しなくても家に縛られなくても生きていける。
でも、時々どこまで人と近づいて付き合っていいのか分からなくなる。

家庭のしんどいことや自分の個人的な深い話、そういうものを話すには、友達だと重すぎる気がする。
いや、昔よりかなり話すようにはなったけれど、日常的に共有することはできない。
結局、頼ったら返す、五分五分のギブアンドテイクの関係しか成り立たない、気がしてしまう。
その心地よさもあるんだけれども。

私は昔から、交際している人に「身内感」を覚えやすい。友達からの一線はそこなのかもしれない。

代わりがいない、私の行動が価値にならない、存在自体の肯定。
別に本当の身内にそんな深い話をしたことはないから、比喩なんだと思う。存在肯定も、実際の全ての身内に感じるかは怪しい。
比喩である身内は、身内であるだけで価値なんだろう。
私にとっての「身内」って言葉とはなんなんだろうと考えさせられる。

私には数年前から親しくしているおばちゃんたちがいる。この間の帰省の時も会って話した。

その人たちは、母が変わった要因の1つでもあるんだけれど、そこには「身内感」を覚える。
頼っても返さなくていい、自分のパーソナルな事情を話してもいい、日常的にそれを共有できる、そういうコミュニティって現代に本当に少ない。
存在自体の肯定の場がない、気がする。

その人たちは、話を聞いて自分たちも学びや気づきを得ているから好きだ。一方的に助けられているわけでも、助けているわけでもない。
何歳になっても人と繋がって気づきがある。年は違うのに対等な繋がりな気がしている。
私もそういう年のとり方をしたいな。
「身内感」のある、豊かなつながりをもっと増やしていければいい。


結婚式の前には、小さい頃からずっと通っていた美容院に久しぶりに行った。妹も昔は通っていた。
「えー〇〇ちゃん結婚すんの?おめでとう!」とたくさん祝福してもらえて温かかった、嬉しかった。
私は24年間ここで暮らしてきたんだな。これもまた身内なんだなと思う。

中高からの友達二人とも久しぶりに会った。
中学から知っている彼女たち、考え方の癖も知り尽くしているけれど、日々変わっていて、目の前の問題に頭を悩ませながら生きている。
みんなそうとしか生きられないだけなのに、断片的なものを羨んで生きているだけだ。自分のペースでみんな進化している。
そんな、続いていく話を聞けることに幸せを感じた。
大小様々な自分の悩みにまっすぐ向き合う彼女たちは尊い。

大学にも久々に顔を出して、研究室の先生に会った。
私の感覚や、違和感をいつも強く認めてくれる人。
仕事の違和感を共有できて「それはおかしい」と言ってもらえたことに勇気をもらった。
違和感に輪郭がついた気がする。やっぱり今でも私の指針だ。
顔も知らない後輩たちが「修論読みました」と言ってくれるのが嬉しかった。
ここにも私の居場所があった。

恋人が、妹のパーティーの最後に写真を撮りに来てくれた。
写真が上手で、その日大阪にちょうど用事があった、そんな、色んなことがばっちり噛み合うことがあるんだなぁ。それもまた縁だ。
大阪での居場所と東京の暮らしがゆるく融合した感じがしてなんだか嬉しかった。
私は場所によって結構顔が違う人だから、こういうの昔ならできなかったと思う。
私が変わったのか、関係性の問題なのか。ごく自然に融合するのが不思議な感覚だった。


そんな機会をくれた不思議なパーティーだった。
クレージーで自由人な私のたった一人の妹、おめでとう。
妹たちらしい自由なパーティーには、手紙を読む場もメッセージを言う場も特になかったので、こんなところにでも書いておく。
先のことを考えるのは嫌だそうなので、末永くとは言わないけれど、お幸せに。

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