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散文 7

雲ひとつない秋晴れの空
10月がもう終わろうとしている。

こんなに天気が良いのなら
うってつけだろうと思い
匂いのこびりついていた衣類を
オキシ漬けにして洗った。
本日3度目の洗濯。

外に干していると
小鳥たちがピーピーと楽しそうにしている。
実際楽しいのかどうかはわかりかねるが
気持ちはいいものだ。

ところで、
カラスが妙に騒がしい日がたまにある。
あれは何かの前触れなのか
ただ盛っているだけなのか
一体なんなのだろうか。

何かの前兆なのだとしても
その後に何かがあった
という記憶はあまりない。

盛っているだけなのだとしたら
そんなの知ったことではない。

カラスに話が聞ければ
それが1番早いのだろうけど
あいにくカラスの言葉はわからない。

あれは一体何なのだろう
未だにわからないことではあるが
どうでもいいことでもある。

しかし前兆や予兆といったものは
一体なんなのだろうか?とよく思う。

猫が顔を洗ったら雨が降る
だとか、様々なものがあると思う。
もし本当なのだとしたら
すごいことだなーと思うし
動物って偉大なんだなと素直に思う。
まあそんなことがなくとも動物は偉大なんだが。

最近、
文章を書いたまま眠ってしまう
ということが多々ある。
頭では書き続けているつもりでも
体は眠ってしまっているのだ。

だいたいは佳境まで、
良い所までは書けていることが多い。
場合によっては
頭の中で完結していることもある。

だがそうなってくると
大変なのは翌日だ。

朝、目を覚まし
諸々のことを済ませた後
あ、そういえば書きかけだったなと思い出す。
そしてその書きかけの文章を開いてみると
あれ?ここまでしか書けてなかったっけ?
となるのだ。

どちらかというと頭で書いてたものは
憶えてなかったりすることが多いので
その出来高に追いつくように
書かねばならない場面が多い。

こんなもんだろう、
と思っても、
いや、昨日はもっとおもしろく書けてたはずだ。

もっと長い文章だった気がする。
など
曖昧な記憶と戦わなければならないことになる。

趣味のつもりではじめた
書くということに
いつのまにか追われているような
感覚になってしまっている。
なんだかなぁ。
これでは本末転倒ではないか。

私は、つい、
その節度というのが
わからなくなることがある。
なんというか夢中になってしまうのだ。

過ぎたるは猶及ばざるが如し
このことわざのように
何事も節度を守っていかねばな
そんなことを思う。

でも何故だろうか
適当と書くと、
なんだかだらしがないような印象がして、
適度と書くと、
ぴったりと丁度良い気がしてしまう。

このように言葉にも
その表情というものはあって
意味合いは同じだとしても
その印象が変わってくることがある。

前述した話で例えるならば
"動物とは偉大である"
こう書くと何だか仰々しくも感じるが
"猫は可愛い"
これくらいが適当なのだろう。

こんなことばかり考えているから
何も進まないんだろうな。
いかんいかん、と
煙草を揉み消し立ち上がると
目の前を猫が通り過ぎていった。

いや
可愛い猫が通り過ぎた。
これが適当だな。

散文として

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