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【現代】岸信介(1896年~1987年)

岸信介は第56代内閣総理大臣、実弟に佐藤栄作首相がおり、現内閣安倍晋三首相の祖父にあたります。彼の異名は「昭和の妖怪」。この異名は一体何処からくるのでしょうか

岸信介は、戦前、満州国の経営に辣腕を振るい、東条英機内閣では商工大臣として閣僚となります。戦後は、GHQによって極東国際軍事裁判でA級戦犯となり、3年半抑留されます。現在の感覚では、すごい経歴の人間が内閣総理大臣になったなぁと思わずにはいられません。

そして、岸信介は1957年、いよいよ首相となります。日本は1952年に独立を果たし、吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山と続いて、今後の日本の舵取りを彼に任せました。

彼が目指した国家は、本当の意味での独立国家"日本"でした。当時、日本はアメリカと日米安全保障条約を結び、軍事的に従属状態にありました。具体的には、日本の各地に米軍基地があり、米兵の駐留を認めており、日本国内で争乱が起きた場合アメリカ軍の介入を許すという内容まで明記されていたのです。そして日本は米軍駐留費用を肩代わりしていました

岸信介は、この日米安全保障条約を改訂して、片務的ではなく、双務的な対等の条約にしようとしたのでした。日本とアメリカが同じ目線で、極東の平和を守る条約にしたかったのです。しかし、岸信介は国民に対する説明が不足し、1960年5月19日、国会でもこれを強行採決したため、史上まれに見る安保闘争という国民騒擾に発展したのです。条約の成立に関しては、衆議院で強行採決されると1ヵ月で自然承認される衆議院の優越があるため、6月19日に自然成立することが決定したのです

この5月19日からの1ヵ月が、いわゆる安保闘争です。新安保条約が、日米対等の防衛協力を明記していたことから、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる懸念が広がり、太平洋戦争の記憶もまだ新しい国民にとって、看過できない状況でした。そして解散総選挙を行い、国民に信を問うという民主主義のルールを破った岸信介に対して、民主主義に対する挑戦と国民は感じたのでした。そして何より、東条英機内閣の閣僚として太平洋戦争の開戦の詔書に署名をし、戦争下の経済を仕切っていた岸に対する、警戒感がこの運動の盛り上がりをみせたのでした

岸信介は、20~30万人という驚くべきデモ参加者が国会を取り囲む中、右翼団体や暴力団を動員して、これを排除しようとします。あげく、内閣総理大臣権限として防衛庁長官に自衛隊の出動を要請します。災害救助や国防を担う自衛隊が日本人を攻撃することを任務としたら本当に、民主主義国日本は国家として破綻します。これは防衛庁長官が、岸を説得し、中止となりました。

デモ隊の参加者に死者、重軽傷者を、出す中6月19日、新日米安全保障条約は自然成立しました。その後、退陣を表明した岸信介内閣に対して、国民は潮が引いたように運動を終息させていきます。国民が民主主義を求め、平和を求めていることを示して、文字通り「政治の時代」は終わり、「経済の時代」を迎えるのです。次の池田内閣は所得倍増計画を掲げて、高度経済成長を日本はひた走っていきます。

岸信介はその後も自由民主党の顧問として、55年体制以降の政界において、大きな影響力を発揮します。岸信介に対する評価は賛否両論だと思いますが、岸信介は人生で3度死を本気で覚悟したことがあると言っています。一度は東条内閣で商工大臣をしているとき、次はA級戦犯として巣鴨プリズンに抑留されているとき(東条英機は絞首刑となっています)、そして最期は日米安保闘争の時だったそうです

日本の若者が胸を張れる、立派な国にしたい

その思いは本物だったのだと思います。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。